玄夢集

路上で目覚めた少年の話(その4)

 この男は何を言っているのか……と、少年は唖然あぜんとした顔で屋敷の主人の顔を見た。
 その時、隣の部屋から少女が料理を盛った皿を持って来た。一枚を少年の前に、一枚を男の前に置くと、再び、隣の部屋に消えた。
 どうやら隣は厨房らしかった。
 少女は女給ウェイトレスのように厨房とダイニングを行ったり来たりしながら、屋敷の主人と、少年と、そして少年の相向かいの席……彼女自身の席だろう……に手際よく料理を並べて行った。
 少女がダイニングに現れ、少年のそばに寄って皿を並べる度に、薄っすらと彼女の体温を感じ、思わず少女を盗み見てしまう。
 やがて料理を並べ終わり、屋敷の主人のグラスに一杯目のワインを注ぎ終わった所で、やっと少女は自分の席に着いた。
「では……」
 主人がワイングラスを少年にかかげて、言った。
「期せずして我が家を訪れた若者……『招かれざる客人』に」
「お父さま!」
 少年を小馬鹿にした悪趣味な冗談に、和服の少女が声を上げた。
(お父さま? じゃあ、やっぱり父娘おやこなのか? しかし、さっきの『人工人間』っていうのは、いったい……)
 少女の事が気になって、屋敷の主人に自分が侮辱されたとも気づかず、少年は無意識に主人の動作を真似まねて目の前のグラス……真水の入ったグラス……を口元に持って行った。
 そこで、まだ謝意を表していないことに気づき、急いで館のあるじに向き直った。
「あの……助けてもらって……あ、ありがとうございます。お……お風呂をつかわせて頂いて、着替えまで用意してもらって」
 屋敷の主の男は、少年の感謝に対して何も答えず、ただ「気にするな」といった風に手首をひらひらさせただけだった。

 * * *

「さて……」
 しばらくのあいだ洋風の夕食を黙々と口に運んでいたフォークを皿の上に置き、ナプキンで口元を拭きながら屋敷の主人が言った。
「ここらで自己紹介と行こうじゃないか……まずは私からだ……私の名は、佐多さた三吉さんきち博士だ」
「さた……さんきち……はかせ」
 おうむがえしに返した少年の声に、屋敷の主人がうなづいた。
「そうだ……そして、この少女は……」
 視線を少年から少女に移す。
ミヨ子と名付けた。先ほども言った通り、私の制作した人工人間の第二号だ。私のことを『父』と呼ばせている」
 何と答えて良いか分からず、少年は屋敷のあるじ……佐多さた三吉さんきち博士と、娘(?)のミヨ子を交互に見た。
(まただ……また、『人工人間』と言った……僕の聞きまちがいでは無かったんだ……このひとは、頭がおかしいのだろうか? 人工人間なんて……)
 しかし、ミヨ子と呼ばれた着物姿の少女は、『父親』の言葉に驚く様子も戸惑とまどう様子も見せず、ただ「よろしくお願いします」と少年に向かってわずかに頭を下げただけだった。
「よ……よろしく、お願いします」少年は混乱して、それだけ言うのが精いっぱいだった。
「ミヨ子は……」
 佐多博士が言った。
「十四歳という設定だ。つまり『最初から十四歳の姿の人工人間』として造られた、という意味だ……自動成長機能も備わっているから人間と同じように成長していく予定だったのだが……どうやら、この『時間の止まった世界』では、それが上手うまく働かないらしい。
「時間の止まった、世界?」
「この世界では、人間は成長もしないし、老化もしない……いや、んだ」
「あの、言っている意味が……」
「まあ、あとで詳しく説明するよ……話を人工人間に戻すぞ。ミヨ子の前に、人工人間第一号……少年型を作ったのだが、ね。どうやら人工細胞を機能させる人工遺伝子の設計に欠陥があったと見えて……三百日ほど前になるかな……突然、全身の細胞膜が溶解し始めて……どろどろに溶けて……」
「おめ下さい、お父さま……それ以上、イチロウお兄さまの事をおっしゃるのは、おめになって……」
 そう叫んで、ミヨ子は、わっ、と両手で顔を覆ってしまった。
「イチロウ……?」
 少年は、その名前を思い出した。
「さっき玄関で『着替えはイチロウのものを使え』とか、何とか……じゃ、じゃあ、僕の着ているこの服は、その人工人間第一号……イチロウさんとかいう少年のものなのですか?」
 博士がうなづいた。
(く……くるっている……)少年は思った。
(そんな荒唐無稽な話、ぼ、僕は信じないぞ……人工人間などと……でも、あの着物姿の可愛らしい少女も……ミヨ子さんも……話を合わせているみたいだ……じゃ、じゃあ、この二人は父娘おやこそろって『キ印』なのか……)
「そろそろ、君の事が聞きたいのだが……」
 屋敷の主……佐多博士が言った。
「自己紹介をしてもらえるかね?」
 そう言われて少年は戸惑う。
 何しろ紹介しようにも、自分自身、自分のことを何も知らないのだから。
 仕方なく、少年は正直に答えた。
「じ、実は、自分の事は何も覚えていないのです。名前も、生まれた場所も……ただひとつ、十四歳という年齢を除いて……ぼ、僕は記憶喪失なのです」
「記憶喪失?」館の主が特別驚いた風でもなく、低い声で聴き返した。
「……はい」
「自分の名前も憶えていない?」
「……はい」
「やっぱり、そうか……しかし、これからずっと、少年(甲)とか、少年(乙)とか呼ぶわけにも行くまい。今ここで、自分の名前を決めなさい」
「えっ、……じ、自分の名前を、ですか?」
「そうだ。とりあえずの名前だ。何でも良い。それこそ一郎でも二郎で三郎でも……」
「いくら何でも、そんな……」
「しかし、便宜上であれ名前はるだろう? それとも君は残りの人生を誰にも会わず、誰からも呼ばれずに生きて行こうとでもいうのかね?」
「……」
「仮の名前で良いのだよ……仮の名で……駄目かい?」
「急に言われても、思い浮かびません」
「そうか……じゃあ、良い……ミヨ子」
 博士は娘……博士が造った人造人間だと少女……を振り返った。
「ミヨ子、この少年のになってやりなさい」
 少年と少女は、戸惑った顔を同時に博士に向けた。
「自分で名前を付けられないというのだ……仕方ないだろう? それとも、これからずっと『名無しの権兵衛ごんべえ』とでも呼び続けるか?」
「わ、私、こ、困ります……そんな……男の方の名付け親なんて……」
 着物姿の少女は困った顔をして、テーブル越しにチラッチラッと少年を見た。
「ふん……本人は記憶喪失で名前を思い出せない。しかし自分で自分の名前も付けられない……優秀な人工頭脳を内蔵しているはずの『人工人間』……我が娘も、同年代の異性を前に恥ずかしがっていて駄目……となれば、残るはこの私か……では、私が君の名付け親になってやろう」
 佐多博士は、記憶喪失の少年の顔をジッと見た。
 少年をジッと見ながら、娘の少女ミヨ子に声を掛けた。
「ミヨ子……お前は、この少年に?」
「えっ!」
 ふたたびミヨ子が戸惑いの声を上げる。
「そんな……男の方に望みなんて……」
「はしたなくて言えないか? 我が娘よ」
 細面ほそおもての博士の顔に、わずかにサディスティックの色が差した。自分の娘を意地悪な言葉でなぶってやろうという魂胆こんたんが表情に浮かんだ。
「娘よ……さあ、言うのだ。お前は、この少年に? これは父親の……いや、お前のである佐多三吉博士の命令だぞ……。さあ、恥ずかしがらずに言うのだ……お前は、この少年に何を望む?」
「わたし、は、わ、わ、わ、わ、わたし、わ、わ」
 少女の口が半開きになり、黒く濡れた大きな瞳が虚ろにユラユラと揺れた。まるで何かの発作のようだった。
(な、なんだ? この少女は……突然、変になってしまったぞ?)
 少年は、目の前の美しい少女の不審な動きに驚き、驚きながらも目が離せなくなっていた。
(や、やっぱり、この女の子ものか? 佐多三吉博士と名乗る父親も、この娘も、やっぱりのか?)
 やがて、宙を彷徨さまよっていた少女の視線がピタリと少年の顔に定まり、ぼやけていた瞳の焦点が少年の顔の上に収まった。
「わたし、は……守って頂きたく思います」
 意外にもハッキリした声で、ミヨ子が言った。