放浪剣士ゾル・ギフィウスと仮面の妖魔

17、ヴァルタン医師

 カールン州行政長官ガバナーの公邸は、町の北側、小高い丘の上に、雑木林の中に沈むように建ってた。

 鉄柵門の前、両側に赤々と燃える篝火かがりびの近くに衛士が二人。その向こうに、薄い霧を通して、篝火に照らされた建物の影が見える。

 門から少し離れた場所の雑木林の中から、ゾルは公邸の様子をうかがった。
「……門衛は二人、か……しかし、まあ、締まりのない衛士どもだな」
 退屈そうに欠伸あくびをしたり、体をゆすったりしている兵士たちを観察しながら、ゾルがつぶやいた。
「さて……どうしたものか……正面から乗り込むか……」

 その時、後方からガラガラという車輪の音とともに一台の馬車が坂道を上がって来て、鉄柵門の前でいったん止まった。
 衛士たちが車内に座る人物の確認をして門を開け、馬車を通す。

「なんだか、騒がしいな……今、乗り込むのは得策ではない、か……まあ、秋の夜は長い。メイドたちが寝静まった真夜中の方が都合が良いかもしれん」

「キキッ」

「そうだな……ここらで少し休むか」
 そして、旅の剣士は灰色のマントを体に巻き付け、手近な木の根元に背中を預けて座り込み、目を閉じた。

 * * *

 行政長官ガバナー公邸の玄関先に停まった馬車から降りたのは、白髪交じりの痩せた初老の男だった。

 公邸には何度も来たことがあるのか、この夜中の訪問者を警備の者もメイドたちも不審がらず、玄関ホールにいた二人のメイドのうち一人が黙って初老の男のマントを脱がせ、もう一人は、男の来訪を館の主人に告げるため廊下の奥へ消えた。

 来訪者のマントを預かり、いったん小部屋に下がったメイドが、灯りのともった蝋燭ろうそくカンテラを持ってきて男に渡した。

 受け取った男は、誰にも案内されないまま勝手にスタスタと廊下を歩き、地下へ向かう階段を下りていった。

 薄気味悪い地下の廊下を歩いて頑丈な扉の前に立つ。
 扉には、目の高さに鉄製のふたが付いた小窓があった。

「まったく……医者だからと言って何でもかんでも治せると思ってもらっては困るのだが……」
 この一年間、この地下の薄汚れた扉の前で何度となくつぶやいた愚痴ぐちを、今夜も独りごちる。

 何度も同じセリフを言いたくなるのは、扉の向こうにが居るからだ。

 初老の男……カールン州行政長官ガバナー一家の主治医……は、錆びた小窓のふたを恐る恐る開けた。
 カンテラをかざし、扉の向こう側、暗い室内に目を凝らす。

「ザ……ザックくん……私が分かるかね? 主治医のヴァルタンだが……」

「おなか……すいた……」
 扉の向こうでが言った。

 小窓から差し込むカンテラの光に照らされて浮かび上がったのは……ごつい鋼鉄製の首輪をはめられた、一人の男。
 首輪には極太の鎖がつないであり、鎖の反対側の端は、天井に埋め込まれた鋼鉄製の輪に繋がっていた。

 頑丈な首輪と鎖のせいで、男の行動半径は、たったの二歩しかない。

 男は鎖をピンッと伸ばして出来るだけ扉に近づき、届かないと分かっているのか、いないのか、両手を主治医ヴァルタンの方へ伸ばした。

 男は、上半身裸だった。
 それなりに鍛えらえた筋肉の持ち主だ。
 均整がとれた肉体、と言っても良い……

 男の頭部には奇怪な『化け物』が取りいていた。

「そうか……昨日予定していた『食料』……たしか幼い少女だったか……は、父親と一緒に町の外へ逃げたのだったな」

「おなか……すいた……」
 化け物の頭部が、言った。
 いったい、どこに口があって、どこから声を出しているのかも分からない。

「も……もう少し、我慢してくれたまえ」
 ヴァルタン医師が、化け物の頭を持った青年をなだめる。
「……き、きっと警備兵士団の連中が、次のエサを……あ、いや、次の『おなぐさめ女』を連れてくれるから」

「おんな……たべたい……はやく」

「だから、じきに警備兵士団の連中が、女を……」

「やわらかい……おっぱいの……おんな……たべたい」

「ザックくん、落ち着いて」

「おんな……たべたい……たべたい……たべたい……たべたい」

 ザックは、まるで天井から鎖を千切ちぎろうとするかのように力いっぱい引き、ヴァルタン医師が居る扉へ手を伸ばす。

「ザ、ザックくん、やめたまえ……そんなに鎖を引っ張ったら怪我をするぞ」

「たべたい……たべたい……たべたい……たべたい」

「ザックくん、やめたまえ!」

 しかし、怪物の頭を持つ青年、ザックは、天井と首輪をつなぐ鎖を引っ張るのをやめなかった。

 突然、扉の小窓へ突き出したザックの腕にが起きた。

 まるで、皮膚の内側に特大の芋虫が這いまわっているかのように、腕の表面がモコモコとうごめきだしたのだ。

(な、なんだ? これは……)
 初めて見る現象に、ヴァルタン医師が驚く。

 青年が何度も何度も引っ張っていた極太の鎖が、ビィィィン! と今までとは違う音を発した。
 鎖がつながっている天井の輪っか周辺から、パラパラと小石のようなものが落ちてきた。

(く……鎖が……外れかかっている? ま、まさかな)

 しかし、否定しても否定しきれない一万分の一の可能性にゾゾッと背筋が凍り、医師は急いで小窓のふたを閉めると、足早に地下の暗い廊下を通り、階段を昇って一階へ出た。

 * * *

 一刻も早くこの行政長官ガバナー公邸から逃げ出したい欲求を何とか抑え、ヴァルタン医師はザックの父親ゼレキンの書斎へ向かった。

 書斎の扉を叩くと、意外なことに屋敷の主人ではなく奥方の「入りなさい」という声が聞こえてきた。

 扉を開けると、果たして、書斎にはゼレキンだけでなく妻のアルマも居て、部屋の入口に立つヴァルタン医師を見つめていた。
「さあ、そんな所に立っていないで、中に入りなさい。戸を閉めて」

 医師は奥方の言われたとおりにする。

「……で、今日のザックは、どうだった? ご機嫌うるわしかったか?」
 行政長官ガバナーがヴァルタンに聞いた。
 ろれつが回っていない。

 仕事をするための机の上には、酒のつぼさかずきが置いてあった。

(かつて帝国時代のみやこで『秀才の中の秀才』と言われた男が、このざまか)

 この一年間、見飽きるほど見てきた行政長官ガバナーの醜態だったが、見るたびに軽蔑と嫌悪の念が込み上げてくる。

(一人息子が〈妖魔〉に取りかれ酒に逃げたくなる気持ちも分らんではないが……)
 一瞬、物思いにふけったヴァルタンに、夫人のアルマがけんのある顔と声でたずねた。

「それで、今日のザックは、どうでした?」

(どうでしたも、こうでしたも、あるものか。化け物になったお前の息子を、である私が、どうにか出来る訳なかろう)
 腹の中では、そんな事を思いつつ、しかし「力およばず申し訳ありません」という顔を作って、医師はアルマ夫人に言った。
「は、はい……その、『病状』は、先週と同じです……いや、つまり、『先週と同じように、少しずつ進行している』という意味です」

 わずかな望みを期待してヴァルタンを見ていた行政長官ガバナーが、よどんだ視線を医師から酒の入ったさかずきに移した。

「『問診』の結果、幼児退行現象がさらに進んでいるのが分かりました……今のご子息は、おそらく三歳児程度の知能しかありません。何を聞いても『おなか、すいた』しか言いません」

「おなか、すいた……か。……昨日予定していた『食事』に逃げられたからな」
 行政長官ガバナーが酒をあおりながら言った。
「息子自身が言う通り、腹がいているんだろう」

「ザックくんを……ご子息を空腹の状態にしておくのは、あまり良いご判断ではない、かと……」

「そりゃ、そうだろう。誰だって腹がいたまま長時間放置されたくないさ」

「そうなのですが……実は、ご子息の体に『異変』が起きているのです」

「異変ですか?」
 それまで黙っていた夫人がヴァルタンに聞き返した。

「はあ……体の……つまり、という意味ですが、筋肉に異変が起きているようでして……詳しいことは分かりませんが、どうやら知能の退化と反比例するように、筋力が増大しているような気がするのです」

「気がする? 気がするとは、どういう意味です。あなたも医者なら、あやふやな憶測ばかり言うのではなく、診察によって証明されたことだけを話したらどうです?」

「そ、それが……なにぶん、部屋の外から扉ごしに診察をしているものですから……」

「なら、部屋の中へ入って、触診でも何でもしたら、良いではないですか?」

「そ……それは……」

 夫人から目をらしてうつむくヴァルタンに、行政長官ガバナーが助け舟を出す。
「まあ、まあ、良いじゃないか、アルマ。あの地下牢は、帝国中期には拷問に使っていた場所だ。繊細なヴァルタン医師が嫌がるのも仕方がない……ところで、さっき、我が息子にエサ……じゃない……『おなぐさめ女』を与えるのを早くしろとか何とか言っていたが?」

「はあ……三歳児まで精神が退行したご子息にとっての唯一の関心は『食事』です。逆に言えば、予定通り食事が出来ないと、非常に興奮するのです。このまま筋力の増大が進めば、興奮したご子息は、いずれ鎖を引きちぎって……」

「鎖を? まさか! あの極太の鎖を、か? さすがに、それは……ヴァルタン医師、考えすぎというものだよ」

「……だと良いのですが……」

「ふん……まあ、良い……明日の朝ザックに食われるためにパン屋の妻がここへ来る。それで、しばらくはの腹も満たされるだろうて」

 行政長官ガバナーは、医師に向かって『出ていけ』という仕草をした。
「ご苦労だったな。今日は帰って良いぞ」

「はっ。それでは、これで」
 ヴァルタンは書斎を出て扉を閉め、大急ぎで玄関ホールへ向かうとメイドが持ってきた自分のマントを引ったくって馬車に乗り込み、公邸を後にした。