放浪剣士ゾル・ギフィウスと仮面の妖魔

16、路地裏のバクズ

 人通りの少ないカールンの夜道を一人の男が歩いていた。

 年齢としは二十を少し出たくらいか。平均的な身長にひょろひょろの体。
 何やら上機嫌で、鼻歌を歌っている。

「ラーラは俺ぇーの性奴隷
 赤いナイフをちらつかせぇー、何でも俺ぇーの言いなりさ
 ちょっと脅して怖がらせぇー、何でも俺ぇーの言いなりさ」

 歩いているうちに尿意をもよおしたのか、「小便、小便……」とつぶやいて、ヒョロ男……カールン警備兵士団『おなぐさめ選出班』のした兵士バクズは、あたりを見回した。

 適当な路地に入り、窓もないレンガ壁が両側に続く細い道の奥で、ズボンから一物いちもつを引っ張りだし、調子っぱずれの口笛を吹きながら、レンガに向かって放尿を始める。

 その、小便をしているバクズの後頭部から伸びた髪を、突然、何者かがつかんだ。

 ものすごい力でバクズの顔面がレンガ壁に叩きつけられる。

 鼻骨がグシャッとつぶれ、激痛がバクズの脳天を貫き、大量の涙と、鼻汁と、血液が顔面から噴き出す。

 後頭部の髪の毛を持った手は、そのまま今度は思い切りバクズの頭を後ろに引っ張り、仰向あおむけに石畳の路地に叩きつけた。

 誰かが、バクズの心臓の上に足を乗せて体の自由を奪い起き上がれないようにして、喉元のどもとに冷たいナイフの刃を当てた。

「おい、聞こえるかくそ野郎」

 その「誰か」がバクズに言った。目からあふれれでる大量の涙で視界がぼやけて相手の顔が分からない。すでにバクズには戦意のかけらも無く、喉にからまった大量の鼻血を必死に飲み込みながら、ごぼごぼ混じりの声で「た、助けてくれ」と力なく言った。

「何とか話せるようだな……ようし」
 仰向あおむけになったバクズの胸を踏みつけ、喉にナイフの刃を当てている男が満足げに言った。
「俺は、旅の者でな……ちょっとした用事があって、この町の行政長官ガバナーの公邸まで行かにゃならんのだが……何しろ土地勘が無い……そこで、お前に道順を教えてほしくて、な」

「た、助けて……」

「助ける? ああ。助けてやるさ。、な……質問に答えて、俺の気分を良くして見せろ……さあ、行政長官ガバナーの公邸へ行く道を教えろ」

「わ、分かった……分かった」
 バクズは路地裏の暗闇の中で、止まらない鼻血を時々吐きながら男に公邸への道を教えた。

「……よし……」
 バクズに三回繰り返して同じ道順を言わせ、男は、やっと満足げにつっぶやいた。
「公邸への道は分かった……次は、公邸警備の配置と交代時間だ」

「し、知らねえよ……ぶ、部署が違うんだ……」

 喉に突き付けられたナイフの刃に少しだけ力が入った。
 薄皮一枚を切られ、仰向あおむけになった首から石畳に血がしたたり落ちる。

「ほ、本当だ! 本当に知らないんだ!」
 泣きながら必死にバクズが言うと、まるでその声に答えるかのように暗闇から「キキッ」という小動物の声が聞こえた。

「そうだな……」
 謎の男が言った。誰かに話しかけているような口調だ。
「さすがに、こんなしたが公邸警備の詳細を知っているわけがない、か」

「た……たすけて……」

「さっきも言っただろう? くそ野郎……きさまを助けるか助けないかは、俺の気分次第だ、と……そして」

 喉元に突き付けられていたナイフの切っ先が、いきなりバクズの口の中に差し込まれた。

「俺の気分は、さっき、きさまが料理屋で女将の娘を侮辱した時から変わらんよ。、これが俺の今の気分だ」

 そして、上と下の前歯をこじ開け、切っ先を口の中にゆっくりと潜り込ませる。

「料理屋で殺せば、女将母娘に迷惑をかけると思ってな……あの時は我慢していたが……店から離れたこの路地裏なら、きさまの死を女将たちに関連付ける者は居ないだろう」

 さらに、ゆっくりと口の中にナイフを押し込む。

「どうやら、ナイフを舌でめるという変わった趣味があるらしいじゃないか……」

「た……たしゅけへ……」(た……たすけて……)



 ナイフが、さらに口の奥へ入る。

「た……たしゅ……」

「いいや、駄目だ……口の中で、ナイフのと、きさま自身の血と鼻汁の味を確かめながら、死ね」

 謎の男は、バクズの口の中でナイフをグリグリと回転させた。

「ぐぎぃごふげきき……」
 意味不明の、ごぼごぼ混じりの声を発し、バクズの体がビクッ、ビクッと震えた。

 男は、さらに、グリグリとナイフを押し込み、ナイフはバクズの口の中で舌を切り刻み、喉の奥の粘膜を突き破り、その向こうの頸椎と頸椎の間を断ち切って、うなじから切っ先をのぞかせた。

 バクズの体は、しばらくビクッ、ビクッとねていたが、やがてその力も途切れ、動かなくなった。

 男が、バクズの口からナイフを抜き取る。
 血と鼻汁の混じったネットリとした液体が、切っ先から糸を引いてしたたった。

「キキッ」
 男の肩に乗った黄金色のトカゲが鳴いた。

「ええ? 舐めさせろ、だと? この悪党の鼻汁まじりの血を、か?」

「キキッ」

「悪党の血は濃厚で美味うまい、って……ドラ公、お前は本当に、が好きだな」
 肩に乗ったトカゲに、バクズの血を舐めさせたあと、ブーツにナイフをしまい、旅の剣士ゾルは、死体が放置された路地裏を後にした。