青葉台旭のノートブック

映画「スター・ウォーズ エピソード6/ジェダイの帰還」を観た

U-NEXT にて。

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脚本 ローレンス・カスダン、ジョージ・ルーカス
監督 リチャード・マーカンド
出演 マーク・ハミル 他

ネタバレ注意

この記事にはネタバレが含まれます。

私とエピソード6(ネタバレ防止の雑談)

劇場公開時に映画館で観た。
当時は「ジェダイの復讐」という邦題が付いていた。
劇場で観た人生2番目の外国映画(字幕)だったから、個人的に思い出深い作品だ。

余談だが、映画館で見た人生最初の外国映画(仮に映画Aとする)に関しては、ちょっと苦い思い出がある。
まだ小学生だった私は、そのAという映画の内容・描写に酷(ひど)いショックを受け、上映途中で耐えられなくなって劇場を出てしまった。
吐き気を必死で抑えながらロビーのベンチに座り込んでしまったのを覚えている。

以来40年間、映画Aを観ていない。
わりと有名な映画だから、その気になれば各種配信サービスで簡単に観られるのだが、いまだに再生ボタンをクリックできない。
いわゆるトラウマを植え付けられてしまった感じだ。

ちなみに日本映画も含めると、劇場で観た人生最初の映画は「東映まんがまつり」だったと記憶している。

以上、ネタバレ防止の雑談でした。

以下、ネタバレ。

感想

初期三部作のフィナーレとして、きれいに纏(まと)まっている。
三部作全体を通して、ひとつの物語として割と楽しめた。

その一方で、
「そもそも第1作単体で最初からきれいに纏まっているんだよな」
とも思った。

単体できれいに纏まっている作品を、むりやり水増しして尾鰭をつけたような三部作になってしまったな、と。
三部作全体が、第1作の拡大再生産のような印象になってしまった。
1作目と3作目のクライマックスが両方ともデススター攻略だったのが原因か。

綻(ほころ)び

第1作に無かった綻びが、この第3作には存在すると気づいてしまった。
思い返してみると、綻びは2作目の「帝国の逆襲」の時点で既に存在していた。
私は、その綻びを無意識に無視していた。
それが第3作「ジェダイの帰還」では、いよいよ無視できない程に広がっていた。

綻びが物語を破綻させるほど大きくなる前に、この三部作はフィナーレを迎え完結した。
もし仮にこれが4部作構成だったら、事態は深刻になっていただろう。

私が感じた『綻び』とは、いったい何だったのか? 次の章で語りたい。

スペース・オペラ

スター・ウォーズ第1作とは何か? と問うた時、いろいろ答えはあるだろうが、以下のようにも言えると思う。

「スター・ウォーズは、『スペース・オペラ』の復興運動(ルネサンス)である」

スペース・オペラとは、20世紀前半のアメリカで隆盛を極め、第2次世界大戦後に衰退したSFの1ジャンルだ。
宇宙を舞台にした通俗的・大衆迎合的・扇情的な冒険活劇で、ひとことで言えば戦前に大量生産されたB級ジャンクSF小説のことだ。

B級ジャンク小説であるが故に、SFというジャンルが成熟し洗練され高度化し市民権を得た戰後は、古臭くて低俗な物として扱われ、やがて忘れられた。

誰もが忘れ去っていた古いジャンルやスタイルに、もう一度光を当てて、最新の技術とセンスでもって再構築してみせる事を文芸復興=ルネサンスと呼ぶなら、それを1970年代の映画業界で、スペース・オペラというジャンルに対して行ったのが、ジョージ・ルーカスであり、スター・ウォーズ第1作だと言える。

戦前のスペース・オペラを復活させるにあたってルーカスが注力した事は、以下の2つ。

  1. 現代(1970年代当時)の最新技術と最先端のセンスを惜しげもなく使う。
  2. 元のジャンルが持っていた低俗さ(ありがちなメロドラマ演出、ありがちなキャラクター設定、くさいセリフなど)も含めて、大真面目に、真剣に、やってみせる。

1番目の「現代の最新技術と最先端のセンスを惜しげもなく使う」という点に関しては、誰もが認める所だと思う。

私が注目したいのは、2番目の「元のジャンルが持っていた低俗な部分も含めて『大真面目に、真剣に』やってみせる」という手法だ。

過去のジャンルを再興するルネサンス運動は、言い方を変えれば、過去のパロディだ。

過去のパロディをやるにあたって、凡庸なクリエーターは、照れ隠し・おふざけ・おちゃらけを入れてしまう。
「本気じゃありませんよ〜、わざとですよ〜、そこ勘違いしないでくださいね〜」という訳だ。
しかし、これは二流の仕事だ。

真のクリエーターは、真剣に、大真面目な顔をして、パロディをやる。
その徹底っぷりこそが、パロディの真髄だ。

スター・ウォーズ第1作目では、この「真剣なパロディ」が最先端の技術・センスと相まって、ワクワクする楽しさに繋(つな)がっていた。

例えば、おてんばツンデレお姫様とか、口は悪いが頼りになる相棒とか、律儀だけど間抜けなロボットとか、主要登場人物のキャラクター設定は、実は相当に陳腐(ちんぷ)だ。

個々のシーンについても、チンピラ運び屋とツンデレ姫のラブコメ掛け合いとか、律儀ロボットのドジっ子ムーブとか、冷静に観れば、茶番劇としか言いようがない。

その陳腐な茶番劇を、スター・ウォーズ第1作は、大真面目な顔をして、真剣に、やり通す。
だからこそ、楽しい。

この楽しさこそが第1作の最大の魅力だ。
言ってみれば、スター・ウォーズ第1作は「ルークと愉快な仲間たちの楽しい大冒険」だった。

ところが、第2作、第3作では……

第1作目では楽しかった「真剣に大真面目に演じられた陳腐な茶番劇」も、2作目「帝国の逆襲」、3作目「ジェダイの帰還」と回が進むにつれて、どういう訳か徐々に輝きを失っていく。

ひとたび輝きを失ってしまうと、その陳腐さが悪目立(わるめだ)ってくる。

これが、前述した「綻び」だ。

なぜ「大真面目なパロディ」は、徐々に輝きを失って行ったのだろうか?

仮説その1、もともと賞味期限があった

「忘れ去られた過去のジャンルを再発掘し、それを大真面目にパロディしてみせる」というスタイルには、もともと賞味期限というか、使用回数制限があった可能性がある。

単発の映画で最も効果を発揮する方法であり、シリーズ作品には相応(ふさわ)しくない技法だったのかも知れない。

仮説その2、壮大な叙事詩が始まってしまったから

スター・ウォーズ第1作が目指したのは、かつての冒険活劇SFの再興だ。
理屈抜きに楽しめる、肩の凝らないエンターテイメントだったはずだ。

ところが、2作目以降「王子の成長と父殺し」という、ギリシャ悲劇にも似た壮大で重厚なドラマが始まってしまった。
叙事詩のような重厚なストーリーと、個々のシーンで展開されるベタなギャグ・小芝居との間に、齟齬(そご)あるいは乖離(かいり)が生じたのかも知れない。

成長と回帰

男は、常に相反する2つの願望を抱いている。

第1は、成長願望だ。
もっと成長したい、もっと強くなりたい、もっとビッグになりたい、もっと高度で複雑なものに挑戦したい、もっとお金持ちになりたい、もっと高い社会的地位が欲しい、もっと大きな権力を持ちたい、もっと壮大で重厚なドラマが見たい……

第2の願望は、その真逆、少年時代への回帰願望だ。
何も彼もがシンプルで、感動に満ち溢れていて、家と学校と近所の公園が世界の全てで、となり町に行く事さえ大冒険で、駄菓子屋で買った10円のスナックが何よりのご馳走で、自転車に乗れば何処(どこ)までも遠くへ行けると思い込んでいて、テレビのブラウン管に映る全てにワクワクしていたあの頃に戻りたい……

物語の創作者は、自分の中にあるこの相反する2つの願望と向き合う必要がある。

匙加減(さじかげん)の問題ではない。
量的なバランスの話ではない。
質的なバランスの話だ。
自分の中の成長願望が何に対して発動し、回帰願望が何に対して発動するのか、それを見極める必要がある。

以上、スター・ウォーズ初期三部作を観終えた後に、私が思った事でした。

以下、余談です。
スター・ウォーズとは余り関係のない話をします。

シリーズ物は第1作目が1番面白い(場合が多い)

原理主義者みたく声高に主張する気はさらさら無いが、
「結局、シリーズ物は1作目が1番面白い」
という経験則は、まあまあ当たっていると思う。

リバイバル

2022年のファッション業界は「Y2Kブーム」らしい。
Y2Kとは、西暦2000年ごろのファッション・スタイルの事だ。

ファッション業界に限らず、西洋の文化史はリバイバルの繰り返しだ。

ルネサンス(文芸復興)は14世紀のイタリアで興った、古代ギリシア・ローマのリバイバル・ブームだ。

現代のヨーロッパに於(お)いては、ドイツこそがEU(ヨーロッパ連合=ヨーロッパ帝国)の盟主/中心であり、スペイン・イタリア・ギリシャなど地中海沿岸諸国は、財政赤字に喘(あえ)ぐ辺境/田舎だ。

しかし、ルネサンス期までは、真逆だった。

旧ローマ帝国のお膝元だったイタリアの都市国家こそが先進国、ヨーロッパ文化の中心、最先端モードの都(みやこ)であり、ドイツは野蛮人の住む黒い森に覆われた辺境だった。

最先端のルネサンス・モードを享受していたイタリア都市国家のシティ・ボーイたちが、ど田舎に住むドイツ人たちを馬鹿にして名付けた言葉が「ゴシック」だ。

ゴシックとは、本来はドイツに住んでいた「ゴート族」という部族の様式を指す言葉だが、転じて、北ヨーロッパ全般の中世時代の様式を指す。

要するに、
「いまだに中世やっている田舎っぺのドイツ人、だっせー」
という意味だ。

やがてゴシックという言葉は、「近代から見た中世(前近代)」「中心から見た辺境」という意味を持つようになった。

時代は下って、18世紀末のイギリス。

いち早く産業革命に成功し近代科学文明まっしぐらだった当時のイギリスで「ゴシック・リバイバル」ブームが起きる。
イギリスの貴族や上流階級の人々が、わざと中世風の古臭い屋敷を田舎に建てて住むようになる。
そんな中世かぶれのイギリス貴族の一人、ホレス・ウォルポールという人物が、ストロベリー・ヒル・ハウスという中世風の屋敷で書き上げたのが、世界初のゴシック小説「オトラント城奇譚」だ。

イタリアの古い修道院で発見された古文書の英語訳という体(てい)で発表された、今で言うフェイク・ドキュメント風の小説で、その内容は、中世の古城で繰り広げられる陰惨な怪奇物語だ。
この小説の発表以降、イギリスを中心に、ゴシック小説=フェイク中世物語の大ブームが巻き起こる。

現代のSFも、ホラーも、ファンタジーも、推理小説も、すべてこの「オトラント城奇譚」の子孫だ。

例えばメアリー・シェリーの「フランケンシュタイン」はSFの元祖と言われているし、ジョン・ポリドリの「吸血鬼」は吸血鬼小説の元祖と言われているが、どちらも、スイスの山荘に集まった上流階級の暇人(ひまじん)たちによる「いっちょ、俺らもゴシック小説書いてみようぜ」という遊びから生まれた。

日本の推理小説で言えば、横溝正史の金田一耕助シリーズは、日本版ゴシック小説そのものと言って良い。

「山奥の村、古い屋敷(古城)、秘密の地下道、村を支配している一族、傲慢で自分勝手な当主、肉体的にも精神的にも病弱な当主の息子、抑圧されている当主の妻と娘たち、外部から来た素性の知れない若者、秘密を抱えた寺の僧侶、結婚式の日に起きる奇怪な殺人事件」

……如何(いかが)だろう? まさに金田一耕助ミステリの始まり始まり……と言った感じだが、実はこれ「オトラント城奇譚」の粗筋(あらすじ)だ。
直接的か間接的かは分からないが、ミステリー作家・横溝正史がゴシック小説の血を色濃く継いでいるのは間違いない。

繰り返しになるが、ゴシック小説は、本物の中世物語ではない。

近代以降に、近代人によって書かれた、中世風リバイバル小説の事であり、パロディ中世物語、なんちゃって中世物語の事だ。

明るい冒険活劇シリーズを目指すなら

明るい冒険活劇を長期シリーズでやるなら、1話完結型である事が重要だ。
ある1つのエピソードに於(お)ける変化、すなわちキャラクターの成長や物語の進行を、次のエピソードに持ち越さない事だ。

どうしてもキャラクターの成長を描きたいのなら、せめてその速度を極端に遅くするべきだ。
例えば、ラブコメ漫画で言えば、連載10年をかけて彼女の手を握り、さらに連載10年をかけてファースト・キスまで漕(こ)ぎ着けるくらいの遅さが必要だ。
連載に何十年かかろうとも、物語の中の時間は1年程度に留めておくべきだ。

アニメ版ポケモンの主人公サトシが、アニメ開始から25年の時を経て、今年(2022年)ついに優勝したらしい。
同時に、主人公サトシとピカチュウの引退も発表されている。
来年の4月からは、新たな主人公の物語が始まるという事だ。

ジェームズ・ボンドも、サザエさんも、コナンも、ドラえもんも、ルパン三世も、アンパンマンも、みんな1話完結型だ。
仮に1エピソードで多少の成長や時間の経過が見られたとしても、それらは次のエピソードでリセットされなければ長寿シリーズにはならない。

成長すなわち老いと同義であり、老いの果てには必ず「終わり」がある。

さらに、もう1つ、今回スター・ウォーズ初期三部作を観なおして「明るい冒険活劇」のキャラクターが成長すべきでない理由に気づいた。

成長は必ず、何らかの哀しみを伴う。
底抜けに明るい物語を楽しみにしていた観客・読者の興(きょう)を削(そ)ぐ。

師匠を越え、父親を越える事は、喜びと同時に哀しみでもある。

成長とは、巻き戻せない時間の中に居ると自覚する事だ。

ひとたび成長してしまったら、もう2度と無邪気だった子供時代には戻れないという絶対の事実それ自体が、そもそも哀しい。

良い年齢に達した大人が「底抜けに明るい冒険活劇」の映画を観たり小説を読んだりするのは、この「成長の痛み」「大人になってしまった哀しみ」から一時(いっとき)逃れるためなのかも知れない。

スペース・オペラではなく、スペース・ホラー

20世紀前半のパルプ雑誌全盛時代に良く読まれていたジャンルに、SFホラーがある。

ラヴクラフトの小説も、一種のSFホラーと言える。

「私が求めているのは、スペース・オペラじゃなくてスペース・ホラーなのかも知れない」

最近、そんな風に思うようになった。

あまりにも陽キャ的な人物や物語は、自分の目指す物じゃない……と思うようになった。

オトラント城奇譚

念のため「オトラント城奇譚」について書いておく。
世界初のゴシック小説という歴史的価値は有れど、実際に読んでみると大して面白い物語ではない。

2022-12-17 16:39