映画「樹海村」を観た
映画「樹海村」を観た
脚本 保坂大輔、清水崇
監督 清水崇
出演 山田杏奈 他
『犬鳴村』『樹海村』を合わせて『実録!恐怖の村シリーズ』と名付けられたらしい。
少々長いので、以降、本記事では短縮して『村シリーズ』と呼ぶ。
ネタバレ注意
この記事には以下のネタバレが含まれます。
- 映画「犬鳴村」
- 映画「樹海村」
- 映画「ホムンクルス」
- 小説「ねじの回転」
ネタバレ防止の雑談
昭和『ゴジラ』のプロデューサー田中友幸は、本多猪四郎に特撮映画ばかり撮影させた事を、晩年は後悔していたという。
確かに、本多猪四郎の経歴を見ると、1959年までは普通の人間ドラマも撮っているのだが、1960年以降1975年『メカゴジラの逆襲』まで、加山雄三主演『お嫁においで』1本を除いて、いわゆる特撮SF物しか撮っていない。
『機動戦士ガンダム』の監督・富野由悠季のインタビューを読むと、自身の『ガンダム・シリーズ』を含め、巨大ロボット・アニメ全般を嫌っていたとも取れる発言をしばしば目にする。
ショーン・コネリー最後の007となった『ネバー・セイ・ネバー・アゲイン』のタイトルは、コネリーが『007は、もう二度と演じない』と妻に言ったという逸話が元になっている。
監督にせよ俳優にせよ、大ヒット作に恵まれるのは大変喜ばしい事だが、観客とプロデューサーから『次も同じ路線で』『その次も同じ路線で……』と、えんえん十年以上も期待され言われ続けるとなれば、飽き飽きして『もう、勘弁してよ』と言いたくなる気持ちも分かる。
あの『呪怨』の清水崇がホラーを撮るとなれば、どうしても観客は、1990年代から2000年代初頭に日本で隆盛を極めた往年の心霊ホラー・テイストを期待する。
それをJホラーと呼ぶべきかは議論があるだろうが、とにかく『Jホラーっぽいもの』を……『画面の隅に映り込む白いワンピースの髪の長い女』みたいなものを観客は期待する。
「犬鳴村」と「樹海村」のレビュー記事をネットで拾い読みしながら、そんな事を考えた。
以上、ネタバレ防止の雑談でした。
以下、ネタバレ。
Jホラーという観客の期待
私は映画を鑑賞した後、「他の観客たちは、この映画をどう思ったのだろう?」とネット検索するのが習慣になっている。
前作の『犬鳴村』を観た直後も、今作『樹海村』を観た後も、ネットで感想記事を検索した。
案の定、人々の感想の中にチラホラと『Jホラー』の四文字が見える。
いわく『久々のJホラー楽しめました』
あるいは『期待はずれ、こんなのJホラーじゃない!』
良きにつけ悪しきにつけ、清水崇が監督を務めるとなれば、人々は『Jホラー』の色眼鏡で作品を見てしまう。
しかし、呪怨からもう20年以上の月日が流れた。
清水監督とて、何か新しい事に挑戦したいだろう。
Jホラーの定義
「Jホラーとは何ぞ」というテーマをここで掘り下げてしまうと、宗教論争にまで発展しかねないので、深入りしない。
「日本の監督が日本を舞台にホラー映画を撮ったんだから、何であれジャパニーズ・ホラー略してJホラーだろう」という大雑把すぎる定義も、あながち間違いじゃない。
とりあえず、多数派ライト層の思うJホラーとは、次のような物だろう。
『日常の中に紛れ込んだちょっとした歪み、ちょっとした違和感……それが徐々に大きくなり、回数が増え、距離が近づき、ついに主人公を 心理的に 破滅させる』
この『 心理的に 』という点が重要で、登場人物たちがどんなに恐ろしい怪奇現象に見舞われようとも、それは彼らの主観の中にしか存在せず、第三者からは勘違い、幻覚、妄想としか見えないように作られている。
たとえ物理的・身体的な攻撃を受けようとも、世間からは、精神を病んだ者どうしの自傷・他傷で片付けられてしまう。
つまり『呪い』は、あくまで個人(あるいは、ごく少数の仲間うち)の内面の問題に終始する。
『東京湾にゴジラが現れた』とか『UFOに乗って宇宙人が攻めてきた』とか『ゾンビ・ウィルスのパンデミック』などという、社会の誰もが共有できる恐怖には発展しない。
Jホラーの系譜を遡(さかのぼ)っていくと、1961年のイギリス映画『回転』に行き着く言われている。
私は残念ながら映画の『回転』は未見なのだが、原作小説『ねじの回転』は読んだ事がある。
『ねじの回転』は怪奇小説・ホラー小説であると同時に、心理小説であるとも言われている。
そこに出てくる幽霊たちが、果たして本当に実在するのか、それとも精神を病んだ主人公の幻覚なのかが最後まで明らかにされないまま、主人公一人がどんどん追い詰められていく話だ。
つまり、典型的なゴシック小説(幽霊譚)とも取れるし、その一方で『超常現象は一切起きなかった、全ては精神を病んだ主人公の妄想だった』とも取れるという、二通りの解釈が可能な構造になっている。
『犬鳴村』『樹海村』はJホラーではない?
前章のようにJホラーを定義した上で、『犬鳴村』と『樹海村』を観る。
両作品とも、前半こそ『あくまで怪異は主人公たちの主観の中だけで起きる現象』という典型的なJホラーのお約束を守って進行する。
しかし映画の中ほどから、物語は思った以上の広がりを見せる。
さすがに『全世界を巻き込んだ大災害』とまでは言わないが……タイトル通り、一つの『村』を丸ごと巻き込んだ事件へとスケールが拡大する。
と同時に、そのスケールの拡大と反比例するように、『俺だけにしか見えない幽霊に呪い殺される』という個人の内面に根ざした恐怖は、急速に衰えて後退する。
つまり、Jホラー的な恐怖からは遠ざかって行く。
ここで往年のJホラー・ファンには残念なお知らせをせねばなるまい……
『犬鳴村』『樹海村』に於(お)ける前半部のJホラー・テイストは、往年のファンに対する『撒き餌』だ。
後半部の大風呂敷な展開こそが、清水崇を始めとした製作陣の本当にやりたかった事だ。
やりたい事と、商品として売れる事
映画は商売であり、産業であり、すなわち掛かった経費以上の売り上げを得て利益を出すことが第一の目標だ。
世知辛い業界で生き残るため、純粋な心のままで居たいと言いながら、本音と建前を使い分ける大人のやり方も学ばにゃならん。
昨今のアメコミ・ブームに乗って作られた映画の中には、監督自ら『ヒーロー映画という体裁は、マーケティング上あるいは資金調達のための方便に過ぎません。私が本当に作りたかったのは別のジャンルの映画です』と公言して憚(はばか)らない物もあると聞く。
この映画に於ける前半部のJホラー・テイストは、言わばアメコミ映画に於ける『マーケティング・サイドから要請されたヒーロー物としての体裁』に相当する。
『村シリーズ』の製作陣が本当にやりたかったのは、ジャンルが切り替わった後半部以降の大風呂敷の方だ。
では、清水崇監督以下、製作陣が本当に作りたかった映画とは何だろうか?
諸星大二郎
『樹海村』の感想記事をネットで漁っていたら、誰かが「諸星大二郎っぽい」と書いていた。
これを一読して、私は思わず「なるほど!」と膝を打った。
確かに、クライマックスで主人公たちが樹木に飲み込まれ一体化する描写は、諸星大二郎が得意とする『人と人、動物と植物、生物と無生物が、一つに溶け合う』という描写に良く似ている。
そうか、清水監督が挑戦しているのは『伝奇ロマン』だったのか。
諸星大二郎の『妖怪ハンター』と同じジャンルに挑戦してるのだ。
妖怪ハンター
諸星大二郎の『妖怪ハンター』は、過去に2度実写化されている。
- 塚本晋也監督・沢田研二主演『ヒルコ/妖怪ハンター』
- 小松隆志監督・阿部寛主演『奇談』
私は、沢田研二バージョンは劇場公開時に観ているのだが、阿部寛バージョンは未見だ。
いつか機会があったら観たいと思っている。
清水崇の『村シリーズ』と見比べるのも面白いかもしれない。
話を漫画の『妖怪ハンター』に戻す。
なるほど漫画『妖怪ハンター』と『村シリーズ』のあいだには共通点がある。
- 小さな怪現象・事件が発端となり、それがやがて大事件へと発展し、隠されていた『世界の裏のルール』が暴かれる。
- ただし大事件といっても、地球が滅亡するような大災害が起きる訳ではない。表面上は、せいぜい田舎町ひとつの中で収まる程度の事件だ。
- やがて事態は収束し、町は日常を取り戻す。
- しかし『裏のルール』が暴かれてしまった以上、もう世界の認識が以前の形に戻ることはない。
表面上、日常が戻ったように思えても、確実に、そして不可逆に、『世界の裏のルール』は動き続けている。
これが『妖怪ハンター』シリーズの定番プロットだ。
清水監督の『村シリーズ』によく似ていと思うのだが、いかがだろう?
國村隼
「この人、誰?」
……と、多くの観客が『樹海村』の國村隼を見て思った事だろう。
私も初見の時は、そう思った。
しかし、この『村シリーズ』が諸星大二郎『妖怪ハンター』シリーズに近い物語を目指していると仮定すると、彼の役どころも想像できる。
『妖怪ハンター』シリーズの主人公・稗田礼二郎が、それだ。
形式上、稗田礼二郎は『妖怪ハンター』シリーズの主人公ではあるのだが、名を古事記の語り部・稗田阿礼から借用している事からも分かるように、その役どころは、主人公というより語り部・狂言回しだ。
各々のエピソードには、稗田礼二郎とは別に、事実上の主人公として立ち回る人物が出てくる。
稗田はタイミング良く彼らの前に現れ、助言を与えたり、怪異のメカニズムを彼らに(そして読者にも)解説する役割を担う。
『妖怪ハンター』の稗田礼二郎に相当する役どころとして、この『村シリーズ』では國村隼の役が設定されているのではないだろうか?
結論。私の感想
そろそろ私が『樹海村』を観て、どう感じたかを述べたい。
まずは、私の立てた仮説をまとめる。
問1:(一般的な)Jホラーとは何か?
答1:ネット・ニュースの端っこにも載らないような小さな事件が、その当事者にとっては恐ろしい呪いであるような物語。
問2:『村シリーズ』で清水崇が挑戦した物語とは何か?
答2:ネット・ニュースの端っこにも載らないような小さな事件が、当事者たちの信じていた『世界のルール』をひっくり返し、隠された『裏のルール』を暴いて見せてしまうような物語。
この仮説を踏まえた上で、次に私の感想を述べる。
『その意気や良し。志は高い。しかし残念ながら現状、成功しているとは言い難い』
作り手が挑戦しているハードルは高い。
生半可な事では、成功すまい。
覚悟されよ。
良かった点
この章では、個別のシーンで良かった所を列挙する。
遭難者に出会った→既に死んでた
独り樹海に入り、コトリバコを所定の場所に設置した主人公が、直後、遭難者たちの一団と出会う。
「ああ、良かった良かった仲間が出来た、一緒に樹海の出口を目指そう」と思っていたら、彼らは既に死んでいて、その霊が森をさまよっていただけだった。
この切り返しは鮮やかだった。
妹と樹木人間たちとの融合シーン
人と人との境界、人と植物の境界が溶けて一体となるシーンは、イメージ豊かだった。
病院のロビー
隙間からこちらを覗いている亡霊たちの視線。
寺で読経する僧侶
寺の境内に亡霊たちが立っているシーンも良かった。
悪かった点
次に、悪かった点を3つだけ書く。
悪かった点1:ユーチューバー始まり
もうホラーのお約束になっちゃたのかな……
悪かった点2:昔話のシーン
いかにも分かりやすい『おでぇかん様、許してくだせぇ』的な、『昔の差別はひどかった』的なシーンが、わざとらしい。
悪かった点3:親子愛・兄弟愛
親子愛、兄弟(姉妹)愛、恋人・夫婦愛の描写が大げさ過ぎる。そして、あまりにもクサい。
本当にクサい……クサ過ぎる。
何かというと涙目で見つめ合い、抱きしめ合う親子・兄弟・恋人。
そこに被せられる、『さあ、泣いてください』と言わんばかりの大仰なバイオリンの調べ。
誤解なきよう言っておくが、役者には、全く責任が無い。
おおむね役者は良く演じていると思う。
これは百パーセント、演出する側(監督)の責任だ。
なんで、こんな大げさな演出をするのかな?
観ているこっちが小っ恥ずかしくなって、一気に冷めちゃうんだけど。
「ホムンクルス」にも、こういう大げさな『愛』のシーンがあってゲンナリした。
何でかな?
頭の悪いティーンエイジャーでも理解できるように、親切設計にしたのか?
最近、「映画やドラマを観て「わかんなかった」という感想が増えた理由」っていう記事がバズっているけど、これと何か関係ある?
とにかく、この『クサい愛のシーン』が最近の清水崇映画にとって最大の弱点だと思うんだけど、不思議な事に、この点を指摘しているレビュー記事がネットに無いんだよ。
みんな、気にならないのかしら?