映画「ウィッカーマン」を観た(+痔)
映画「ウィッカーマン」を観た。
U-NEXT にて。
脚本 アンソニー・シェーファー
監督 ロビン・ハーディ
出演 エドワード・ウッドワード 他
ネタバレ注意
この記事には、以下のネタバレが含まれます。
- 映画「ウィッカーマン」1973年製作
- 漫画「妖怪ハンター 生命の木」
「妖怪ハンター 生命の木」は、映画「奇談」の原作です。
ネタバレ防止の雑談
痔が、できてしまった。
以下、ちょっと汚くてグロい話。
……
排便時、肛門が痛い。
もしやと思って風呂でシャワーを浴びている時に指で触ってみたら、肛門の縁(ふち)に、大きさが小指の先ほどもある腫れ物が出来ていた。
触ると痛い。
人生三度目の痔だ。
最初は三十歳前後だったと思う。
やはり、排便のたびに肛門に痛みがあり、当時はトイレット・ペーパーで尻を拭いていたのだが(現在はウォシュレット)その時、何か異物感があった。
今回と同じように、シャワーを浴びた時に尻に触ってみたら、やはり肛門の縁に腫れ物が出来ていた。
触っているうちに「プチッ」と何かが爆(は)ぜるような音がして、腫れ物の中から赤黒くゼリー状に凝固した血の塊が出てきた。
痔の中身だと思った。
手のひらに乗せて、シャワーを浴びながらマジマジと見ているうちに、その赤黒いゼリー状になった血の塊は、お湯で溶けて無くなった。
肛門の腫れ物は、中身が出て皮だけになった。空(から)の袋のような状態だ。
肛門周辺を清潔に保つよう気を付けていたら、数日後には無くなって完治した。
二度目は、四十歳前後だったか。
この時も、肛門周辺を清潔に保つよう気を付けた。
それと同時に、痔の薬(軟膏)を薬屋で買って、毎日、肛門に塗り続けた。
やはり、数日(あるいは数週間だったか)で完治した。
今回も、軟膏を買ってきて直そう。
皆さんも、気を付けてください。
肛門周辺は、常に清潔にしましょう。
以上、ネタバレ防止の雑談でした。
以下、ネタバレ。
備忘録
今回の感想記事は、感想というより、自分自身のための備忘録になると思う。
他の人にとっては、あまり面白くない記事かも知れない。
スコットランドなまり
wikipedia などで色々調べていくと、舞台はヘブリディーズ諸島の架空の島という設定らしい。
主人公の警官のイギリス標準語と思われる発音とは対照的に、村人たちの発音には、明らかに『癖』があった。
これがスコットランドなまりという奴か。
もちろん、本物のスコットランドなまりではなく、映画用に誇張された、それでいて聴き取りやすさが担保された『役者の演技』としての田舎なまりだと予想されるが。
日本のテレビなどでしばしば耳にする『おっらが牧場さ行ったら、宇宙人さ居たっぺよ、本当だっぺ』みたいな物だろう。
スコットランドの離島の風景
風光明媚だ。癒される。
ブリテン島の北の外れにある小さな島々の一つ。
季節はメイデー(5月1日のお祭り)間近。
木々には白い花が咲いている。
一瞬、桜か? と思ったが、枝ぶりが違う。
どうやら、林檎(りんご)の花らしい。
この島の特産品という設定だ。
メイデーとは、現代では『労働者の日』として有名だが、古来よりヨーロッパでは初夏の訪れを祝う祭りだったようだ。
しかし、そこは北国スコットランド。
初夏というより春の訪れをチラホラ感じるが、同時に寒々しさも感じる。
日本人の感覚としては、寒さと暖かさが入り混じった冬と春の境目くらいなのだろうか?
それにしても村の皆さんは、何かっていうと野外で裸だな。
寒くないのだろうか?
それとも向こうの人々は日本人より寒さ耐性があるのか。
この寒々しさと暖かさが微妙に入り混じった『北国の春』感が、何だかロマンチックで好きだ。
それとフィルムの質感。
ちょっと滲んだ感じが良い。
今のデジタル映画には無い質感だ。
写真家の荒木経惟は「デジタルは濡れていないから好きじゃない」と言ったらしい。
逆に言うと、フィルムは濡れている。
現像液に濡れて滲んだフィルムの感触が、1970年代スコットランド片田舎の描写に良く合っている。
富士フイルムあたりが『濡れた感じ』をデジタル処理で再現してくれると良いのだが……
この『ウィッカーマン』のレビュー記事をネットで漁ると、まるで常套句のようにアリ・アスター監督『ミッドサマー』との関連性が書かれている。
しかし少なくとも風景に関しては、だいぶ違うと思った。
『ミッドサマー』は風景にデジタル処理を強めにかけて、まるで桃源郷みたいに幻想的で暖かく穏やかな映像に仕上げられていた。
本作品は、それに比べると質感もフィルムそのものだし、暖かさだけでなく寒々しさも感じられる。
『ミッドサマー』は内陸部の森の中だが、「ウィッカーマン」は島だから海岸がある。
季節も夏至(6月21日または22日)とメイデー(5月1日)だから、50日以上「ウィッカーマン」の方が早い(つまり寒い)
現代的な大道具・小道具が一切出て来ない
主人公が乗る水上飛行機以外、現代的な道具が出て来ない。
領主の屋敷へ向かうのも馬車だ。
いくらスコットランドの田舎でも、1970年代にテレビも無ければ自動車の一台も無いというのは無理があると思うが、そこは『前近代的』な感じを醸(かも)し出すために注意深く画面から排除されているのだろう。
領主様が、何とクリストファー・リーだった
スタッフ・ロールの2行目に書いてあった。
どっかで見たことあるような顔だったんだよな。
私は、人の顔と名前を憶えるのが下手だ。
お祭りのお面が、気持ち悪い
いかにも田舎の村に古くからありそうな、技術的には稚拙で雑な作りのお面が、それゆえに気持ち悪い。
ウィッカーマンは実在したらしい
ウィキペディアで『ウィッカーマン』と検索すると、かつてヨーロッパに実在したらしい風習が表示される。
古代ガリア(ケルト)で信仰されていたドルイド教の儀式だったとか。
ガリア戦記にも登場するらしい。
清水崇の『村シリーズ』と、諸星大二郎
私は、前の記事「 『樹海村』を観た 」で、
「清水崇は、諸星大二郎の『妖怪ハンター』と同じジャンルに挑戦してる」
と書いた。
そして今回『ウィッカーマン』を観て、これにも諸星大二郎に通じる物を感じた。
誤解無きように書いておくが、私は『ウィッカーマン』が諸星大二郎に直接影響を与えたとも思っていないし、諸星大二郎が清水崇の『村シリーズ』に直接影響を与えたとも思っていない。
歴史的に見て、同じ系統に属していると言いたいだけだ。
ケルトと、キリストと、近代的価値観
- 古代ケルト信仰
- キリスト教
- 近代的理性
ヨーロッパ人の宗教観は、こんな風な三層構造になっているんだろうな。
そして現代ヨーロッパ人の感覚としては、2番目のキリスト教的価値観こそは暗黒の中世を支配した抑圧的な悪しき価値観だ、という思いが強いのだろう。
キリスト教の伝播によって滅ぼされてしまった古代ケルト信仰の復活に、ある種のロマンを見ている。
もちろんロマンの中には、恐怖を喚起する『ホラー的ロマン』も含まれる。
諸星大二郎の『妖怪ハンター 生命の木』にも、正統的な聖書解釈しか認めない硬直した価値観の象徴として『神父』というキャラクターが登場していた。
アニャ=テイラー・ジョイ主演「ウィッチ」、あるいはリメイク版の「サスペリア」、あるいは「ミッドサマー」なんかを観ると、抑圧的なキリスト教価値観を捨てて、古代ケルト的な地母神信仰に帰ろう、というメッセージを色濃く感じる。
それほどまでに目の敵にするという事は、逆説的に、キリスト教の偉大さを認めている証拠でもある。
敵として強大であるからこそ、叩き甲斐があるというものだ。
キリスト教的価値観が人々の心に深く根ざしているからこそ、否定する事にも意味がある。
ただ、もともとキリスト教に思い入れの無い者にとっては、敵としてであれ味方としてであれ、欧米人ほどには感情移入できない。
本作品の最後、ウィッカーマンに閉じ込められた主人公が、必死に讃美歌を歌い、聖書の一節を唱え、神に救いを求めるシーンがある。
キリスト的価値観の下で育ったヨーロッパ人が観ると、グッと胸に迫る来るシーンなんだろうな。
私は、少し冷めた目で客観的に観てしまった。
まあ、日本の漫画やアニメも、キリスト教を『抑圧的な悪の組織』みたいに描きがちだけどね。
結論
面白い、良い映画だった。
1973年スコットランドのレトロな寒村の風景込みで『異世界』に迷い込んだ感覚を堪能できた。
余談。
ニコラス・ケイジ主演のリメイク版は未見だ。
『常識が通用しない謎の村』というコンセプトは、果たして現代でも通用するのだろうか?
世界中の衛星写真を瞬時に閲覧でき、どこに居てもGPSで自分の位置が分かる現代において、そもそも『謎の村』なんてものが有りうるのか?
1973年には、ひょっとしたら『交通機関が馬車』という幻想は、まだギリギリ通用したかもしれない。
現在(2021年)同じことをやるのは、さすがに無理だろう。
清水崇の『村シリーズ』が、どうしても絵空事っぽくなってしまい、いまいちホラーとして我が身に迫って来ないのも、ひょっとしたらそれが原因かもしれない。
21世紀の現代において『周囲から隔絶した謎の村』を成立せしめるには、よほどの力技(例えばシャマラン的なドンデン返し)が必要な気もするのだが、どうだろうか?