小説「金閣寺」を読んだ
小説「金閣寺」を読んだ
作 三島由紀夫
ネタバレ注意
この記事にはネタバレがあります。
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文について
たしかに文章は優れていると思ったが、『若人よ甦れ・黒蜥蜴』を読んだ時のような感心は無かった。
シリアスで悲劇的な重い物語なのだから当然だが、『若人よ甦れ・黒蜥蜴』にあった軽妙さが無い。
淀みなくスルスルと頭に入って来る文なのは確かで、それはそれで素晴らし事だ。
しかしそこから先、小説の中に没入するとか、逆に小説の方が心に刺さって来るとかいう状態にまでは至らなかった。
読者と本の間に、一定の距離があって、それがずっと続く感じだ。
主人公の手記という体裁なのだが、こんな冷めた文で自らの半生を書くこの主人公は、よほど自分自身を客観視できる人物なのだろうか?
であれば、そもそも自ら破滅するような人生は歩まない気もするが、どうだろう?
ああ、でも、三島自身の最期を考えると、そういう事もあるか。
『人間失格』の三島バージョンのような印象もある
自意識過剰なインテリ青年の、生まれてから若くして破滅するまでの回想(独白)という体裁は、太宰治の『人間失格』の三島バージョンという感じもした。
最後の一行
いつも通り、一読後、他の人が『金閣寺』に対してどんな感想を持っただろうかと、ネットを漁ってみた。
物語を締めくくる『生きようと私は思った』という文に対し、これを『美しくない世の中だけど、それを受け入れて生きていこう』という前向きな意味に捉えた読者が多いようだ。
しかし、私の解釈は違う。
これは『ああ終わった終わった。あとの事は、もう、どうでも良いや』という感情で締めくくったのだと解釈した。
どうでも良すぎて、もう死ぬことも面倒くさいという事だ。
大仕事をやり終えて、放心状態でグッタリしているのだ。
実際の事件
ウィキペディアなどで、本作品の元になった現実の事件を調べてみると、『金閣寺の美しさ』は関係の無い事件のように思われる。
そこは三島の創作だろう。
芸術は余韻こそが全て
鑑賞した者の心にどれだけの強い余韻を残し心をかき乱すかで芸術の良し悪しは決まる。
『金閣寺』は芸術として充分に合格ライン以上の作品だった。