戯曲集「若人よ甦れ・黒蜥蜴」を読んだ
戯曲集「若人よ甦れ・黒蜥蜴」を読んだ
作 三島由紀夫
収録作品
- 若人よ甦れ
- 黒蜥蜴
- 喜びの琴
ネタバレ注意
この記事にはネタバレが含まれます。
ネタバレ防止の雑談
なんだか戯曲を読みたくなった。
なんとなく、三島由紀夫の『若人よ甦れ・黒蜥蜴』とサミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』を買ってみた。
三島もベケットも今まで読んだことがなかったと思う。
舞台で上演される前提で書かれた戯曲を、本の形で『読む』のは邪道だ、という罪悪感は少しある。
まあ、スパゲッティを茹でずにボリボリ齧る奴は居ないわな。
話は変わるが、シェイクスピア『マクベス』は、次のセリフで幕を開ける。
『きれいは汚い、汚いはきれい』
最初に読んだ時には変な言葉だなと思った。
その後、これが『fair is foul, foul is fair』の訳だと知って、なぜ『fair = きれい』『foul = 汚い』と訳したのだろうと不思議に思った。
最近、どこかのネット記事に『これは役者が声に出して言う前提で、語呂の良さを最優先させた訳だ』と書いてあるのを見つけて、ああ、なるほど、そういう事かと思った。
元の英語は『fair』と『foul』で頭を『f』で揃えてある。
日本語訳もそれに準じて、頭を『き』音で合わせたのか。
やっぱり戯曲っていうのは、発音すること前提の芸術なんだな。
以上、ネタバレ防止の雑談でした。
以下、ネタバレ。
三島由紀夫の日本語操縦能力
本来、役者の演技として鑑賞すべき戯曲を、私は布団に寝そべって黙読した訳だが、なるほど戯曲の魅力は登場人物どうしのリズミカルな掛け合いにあるのだなと理解した。
気の利いたセリフの応酬によって、物語の焦点がドンドン移動していく感じが気持ち良い。
登場人物たちのおしゃべりの流れに身を任せる快感こそがメイン・ディッシュで、実はストーリーはそれほど重要じゃないという事か。
ならば、戯曲で一番大事なのは、作者の言語操縦能力という事になる。
今回、初めて三島由紀夫の本を読んで、その言語操縦能力が非常に高い作家だと知った。
言語それ自体の気持ちよさが素晴らしい。
どの戯曲も、お話し自体は大したものじゃない。
国とか政治に対して、意外にもシニカルだった。
三島由紀夫といえば、右翼団体の結成、そして市ヶ谷自衛隊駐屯地での割腹自殺だ。
相当に尖った、極端な政治傾向の人だったんだろうな、と勝手に思い込んでいた。
しかし実際この戯曲集を読んでみると、印象がずいぶん違う。
『若人よ甦れ』は、軍需工場に動員された学徒らの終戦日の風景、『喜びの琴』は戦後の学生運動を取り締まる警官らの話だが、どちらも一歩引いた視線で描かれ、学徒のセリフにも警官のセリフにも、どこか状況に対して冷めたシニカルな印象を受ける。
これらの戯曲から感じられる、政治や国家に対し冷めた距離感の三島と、市ヶ谷で割腹自殺した三島が、なんだか一致しない。
まあ、しかし、別に一致する必要もないか。
作者は作者だし、作品は作品だ。
黒蜥蜴
江戸川乱歩の通俗探偵小説を脚色したもの。
こちらも探偵・明智小五郎と黒蜥蜴=緑川夫人の掛け合いが素晴らしいのだが、この作品に関しては黒蜥蜴のキャラクターが際立っていて素晴らしい。
『ドリアン・グレイの肖像』などと同じ『真の芸術家は世俗の道徳にとらわれない』系、いわゆる耽美系の作品だが、もろホラーだったドリアン・グレイに比べると、黒蜥蜴には潔さがあって読後感が爽やかだった。
まとめ
私は忘れっぽい性格なので確かなことは言えないが、多分、三島の本を読んだのは人生これが初めてだと思う。
この本に関して言えば、三島の魅力は一にも二にも日本語操縦能力だと思った。
文学にとって大事なのは、まず言語操縦能力で、ストーリーは二の次だと知った。
言語を戦闘機に例えるとするなら、三島由紀夫は間違いなくエース・パイロットだ。
他のエース・パイロットたちにも興味が湧いてきた。
文章が上手いと言われる小説家をネットでザッと調べてみる。
- 三島由紀夫
- 川端康成
- 志賀直哉
- 石川淳
- 谷崎潤一郎
- 古井由吉
- 村上春樹
とりあえず手始めに三島の『金閣寺』でも読んでみるか。