僕とサエコ、十四歳のオッドヤークト町事件簿

死者と生者。

1、怪人

(大丈夫だ。大丈夫……危険は無いはずなんだ……)
 僕は心の中で自分自身に言い聞かせた。一方で、万が一の可能性も考えていた。いつでも鳴らせるよう胸の犬笛に手を当てた。
(三門の駐車場からここまで、ジーディーの脚なら全速力で三十秒……いや、二十秒で到着するはずだ。サエコを逃がして、笛を鳴らし、ヤツの胴体に付いて二十秒間だけ足止め出来れば……)
 一歩、また一歩と男は僕たちの方へ向かってくる。僕とサエコは少しずつ後ずさりを始めた。
 六メートル……五メートル……四メートル……
 その時、やっと気づいた。男は僕らを見つめているんじゃない……いや、僕を見てはいなかった。一心にヤツが見つめているのは、だ。
 うかつだった。
 まずい! 逃げろ! サエコに言おうとした瞬間、別の場所から墓地全体に響き渡るような大きな怒鳴り声がした。
「タロウ! めなさい!」
 どこか違和感のある、人工的な感じのする声だった。
 タロウと呼ばれた男がビクッと震えてその場に凍り付いた。男の首が恐る恐るといった感じで動いて、声の方向に顔が向く。
 僕らもその視線の先を見た。
 住職さんだった。
 なだらかな傾斜の墓地を、こちらに向かってゆっくりと下りてくる。サングラスをしていても真っ直ぐにタロウをにらみつけているのが分かった。
「こんな所でウロウロしていないで、さあ、庫裏くりへ行って、いつもの作業に戻りなさい」
 先ほどの怒鳴り声と違って、優しくさとすような感じだった。
 タロウは住職さんとサエコを交互に何度も見たあと、あきらめたようにノロノロと本堂のほうへ歩いて行った。
「恐がることは無い」
 タロウが本堂の陰に消えたのを見とどけて、住職さんが僕らに言った。
「彼も戦争の犠牲者なのだよ……私と同じで、な……軍が研究していたある種の薬物の人体実験に使われて、それで神経系に変調をきたし、あんな風になってしまった。危険は無い。他人に危害を加えるような事はしないはずじゃ。……ただ……十代の女の子を見ると……なあ」
 言いながら、住職さんがチラリとサエコを見た。
「十代? 女の子? それは一体どういう意味ですか」
 僕が問いただすと、住職さんは言葉を濁した。
「いや、こちらの話じゃ。気にせんでも良いよ。それより挨拶がまだだったな。サワノダさん所のコウジくん、こんにちは。そちらの可愛らしい女の子は、どちらさんだね?」
「こんにちは。住職さん。こちらはハルノシマ・サエコさんです。僕の、こ……こ……婚約者……です」
「なに婚約者とな?」
 さすがに住職さんが驚きの声を上げる。
「はじめまして。こんにちは。ハルノシマ・サエコと言います。よろしくおねがいします」
 サエコがペコリと頭を下げた。
「青年会館の……例の結婚システムに登録したら、一週間で決まりまして」
「ああ、なるほどな……そりゃあ良かったな。コウジくん。いやいや、若い者は行動力があって良いのう。うらやましい限りじゃ。ふぉっ、ふぉっ、ふぉっ」
 住職さんが機械の喉を鳴らして笑った。
「あの、住職さん」
 笑いが収まるのを待って、僕は花のことを聞いてみた。
「お墓に花が供えられていますけど、最近、ヨネムスさんがお参りに来たんですか」
「ああ、それか……それは、なあ、コウジくん。君のお兄さんが持って来たものなんだよ」
「兄が?」
 ちょっと不意を突かれた。
「ユキナさんが亡くなって以降、リューイチくんは、こうやって毎月二回かならず花を二本、カワシマさんから買って来て供えているのだ」
 カワシマさんというのは温室で花を育てている農家の事だ。
「兄貴が……」
「まあ、でも、これが最後だとリューイチくんは言っていたよ。いつまでも引きずっている訳にもいかない。一周忌を区切りにして花を供えるのはす、とな。……ユキナさんの一周忌と言えば、あと六日だったな。コウジくんも来るのだろう?」
「はい。その時はよろしくお願いします」
「こちらこそ、な。……そろそろ私も行くよ。午後のお勤めもあるしな。君たちは居たいだけ居なさい。ただし風邪を引かんように」
「はい。ありがとうございます」
 住職さんは本堂の方へゆっくりと歩いて行った。
「兄貴が……なあ」
 あらためてお墓に供えられた二輪の花を見て、僕はつぶやいた。
「まあ、兄貴らしいっちゃ、兄貴らしいか」
「お兄さん、今でも好きなのかな? 亡くなったユキナさんのこと……」
「だろうね。でも、それならM・O・E・M・O・Eなんかに再登録しなきゃ良いのに」
「半年とか、一年とか、自分に対して期限を区切って無理やりにでもるつもりだったんじゃないかな」
 雪を被った花を見つめるサエコの顔に少し寂しそうな色が浮かんだ。
「時間は前にしか進まないし、人間ひとは前に進まなきゃいけないから」
「うん」
 サエコの言葉にうなづくと同時に、僕が八歳のとき十二歳で死んだ姉の顔が浮かんできた。両親の顔も。
 今度の戦争で多くの人が死んだ。多くの人が肉親を失った。残された者が前を向いて歩くこと、それこそが亡くなった家族や親しかった人に対する……彼らの魂に対する何よりの手向たむけだ……そう思った。
 僕はもう一度お墓に向き直り、目を閉じて手を合わせた。
(ユキナさんの魂よ、安らかに眠ってください。姉さんも、父さんも、母さんも、どうか安らかに眠ってください)
 目を開けると、となりでサエコも目を閉じて合掌していた。
 やがてサエコが目を開けて僕を見た。
 僕はサエコに言った。
「そろそろ行こうか」
「うん」
 僕らは二人並んで三門へ向かって歩き出した。
 ゆっくりと、小さな雪が落ちてきた。空を見上げた。雪のかけらが頬にポタッ、ポタッ、と落ちては消えた。隣でサエコが自分の両手にハァッと息を吹きかけた。歩きながら、彼女の手にちょっと触れてみた。横目でこっそり顔を覗いた。うつむいているけど、嫌そうじゃなかった。想いきって手を握った。三門まで、手を握って歩いた。
 駐車場では、ヴァンの横でジーディーが「伏せ」の姿勢で待っていた。
 頭の上にっすらと雪が積もっていた。
 寂しそうな目で、手をつないて立っている僕らを見上げた。まったく軍用ロボット犬にしては感情表現が豊かすぎる。
「待たせてゴメンな、ジーディー。さあ、行こうか。エンジンを掛けてくれ」
 運転席のドアを開けながら僕が言うと、ジーディーは嬉しそうに「わんっ」と一声こたえて運転席に飛び乗った。
 すぐに「ぶるんっ」という音がして、エンジンに火が入った。