放浪剣士ゾル・ギフィウスと仮面の妖魔

6、仮面の妖魔

 窓ガラスも木枠もない石積み壁の四角い穴から、薄ぼんやりした光をまとが侵入してきた。

 ……空中に浮かぶ一個の「生首」だ。

 山羊やぎとも牛とも、あるいは巨大な昆虫とも人間とも言えない、それでいて、その全てが混ざり合ったような奇怪な姿をした浮遊する「何物か」の頭部。
 頭頂部には左右非対称に生えた三本の鋭い角。
 その角の根元から緑色の長髪が垂れ下がり、よく見ると、その髪の一本一本がうねうねとうごめいている。
 人間の皮膚にも昆虫の甲殻にも思える質感の表皮は緑色で、黄色の斑点が無数に散り、氷のヒビ割れのような線が網目状に走る。

 顔の中央に一つだけ開いた目は、山羊やぎとも牛とも、また昆虫とも違い、強いて言うなら人間の瞳に一番近い。
 長いあごが前へ突き出ているが、口は無く、その代わり細く硬い先の尖った管が長く突き出た顎のさらに前方に生えていた。

 奇怪な頭部は、ゆらゆらと揺れながら、小屋の中央やや窓よりに立つ剣士ゾルとの距離を少しずつ詰めていき、黄金と銀に輝く長剣の間合いの外でピタリと空中停止した。

「ジジッ……」
 ある種の昆虫のオスがメスを呼ぶとき羽をこすり合わせて鳴らすような音を、浮遊する頭部が発する。

 次の瞬間……
 浮遊する生首の左右に垂れていた緑色の髪の毛が、ゾルめがけて空中を走った。
 一本一本が意思を持ったように動く毛髪の先端が、剣を持ったゾルの右手首に絡みつく。続いて、左手首、両ひざにも。

「ジジッ……」
 再度、濁った音で鳴く怪物の首。敵の……あるいはの……両手両足をがんじがらめに捉えた事を喜んでいるのか。

「ぬんっ!」
 灰色の剣士が深く腹の底から息を吐いた。
 同時に、長剣の放つ光が剣士の右手から腕、肩と昇っていき、剣士の全身を、服やベルト、ブーツ、装身具まるごと黄金の色で包んでいく。

「ギギギアアア……」
 聞きようによっては悲鳴ともとれる怪物の鳴き声とともに、ゾルの四肢を拘束していたうごめく髪の毛が、ちぎれ消滅した。

「ヴェルテブラリース・ドラコーニス……かつて大陸全土を食らいつくした竜の背骨より生まれし〈竜骨剣〉……その内部に今も発生し続ける『竜の闘気とうき』を〈剣の使い手〉自らの体内に呼び込み、心臓からの血流を通して全身へ送る。……黄金の竜の気をまとった剣士は無敵だ。この身に触れた〈妖魔〉は一瞬で消滅する」

 しかし、〈妖魔〉のうごめく毛髪を撃退した直後、剣士の全身を覆う光は前触れもなくフッと消えてしまった。
 〈妖魔〉に氷のような眼差しを向けるゾルの顔には、かすかに苦悶の色があった。灰色の髪から頬へ、汗が一滴。
 竜の闘気を体内に呼び込むというその技は、わずか数瞬その状態を維持するだけでも、剣士の肉体に非常な負担をかけるということか……

 灰色の剣士はすぐに呼吸を整え、長剣を振りかぶるようにして背中に回し、地を蹴った。

 同時に〈妖魔〉が、その吸血昆虫めいた鋭く固い管を槍のように伸ばし、空中を走る。

 互いに真正面からぶつかる形で接近。
 ゾルは敵の鋭いくちばりを紙一重で左の頬にかわし、背中に回した長剣を右腕一本の力で頭の上から〈妖魔〉へ叩き下ろした。
 剣士の頭上を通過した長剣は屋根を支える太いはりを両断し、そのまま浮遊する〈妖魔〉の生首を頭頂から真っ二つに割って、黒い土の上に切っ先を落とした。
 二つに割れた〈妖魔〉の頭が、剣の両側にポトリと落ちる。
 菜切り包丁で二つに割ったうりのように切り口を上に向けたまま、二つの肉塊はピクリとも動かなくなった。
 意外にも割られた生首の内側は空洞になっていて、内壁には絨毛がびっしりと生えていた。

 突然、ゾルの持つ長剣の先端が変形し、幾つにも枝分かれし、その小さな先端一つ一つが、鋭い歯を持った小さな銀色のあごになった。
 それぞれが独立した生き物のように動く無数のあごは、左右二手に分かれて、それぞれ剣の両側にある〈妖魔〉のの果てをワシャワシャと喰らいだし、人間の頭部よりも二回りほど大きいその生首をあっという間に食い尽くしてしまった。

 ……その時……屋根のどこかで「ばきっ」という音がした。
 ハッと屋根を見上げ、急いでサイケンとレイネ親子の震える小屋のすみに行く。

「戦闘中に屋根を支えるはりの一本を斬ってしまった。すぐに倒壊するぞ。小屋の外に出るんだ。急げ」
 言いながらサイケンの肩を出口へ向けて押した。
 父親は戸惑いながらも娘の手を引いて戸の無い出口へ急いだ。
 三人が外へ飛び出して三歩も歩かないうちに小屋は轟音とともに内側へ崩れ落ちた。

 倒壊の音が静まり、舞い上がった砂ぼこりが落ち着いて、森に静寂が戻ったころ、やっと冷静さを取り戻したサイケンが横に立つ灰色の剣士を見上げた。
「ゾ……ゾル・ギフィウスさん……さっきの剣は、いったい……」

 いつの間にか黄金色に輝く剣は消え、ゾルの左肩には美しいトカゲが一匹のっていた。

「ギ、ギフィウスさん……あんた、いったい、何者なんだ?」

「そんなことより、今は安全の確保が第一だ」
 言いながら、旅人はブーツからナイフを抜いた。赤紫色に光る切っ先を森のあちこちに向ける。
「安全地帯だった……のだった……小屋が崩れてしまったからな。それに大きな音も立ててしまった……近くにまだ他の〈妖魔〉どもが残っているかは分からんが、運が良ければ奴らが集まってくる前に次の安全地帯に逃げ込めるだろう……運が悪ければ……申し訳ないが、何匹もの〈妖魔〉を相手にお前たちを守ってやれる自信は無い」

 ナイフの刃が紫から青に変わった。
「……ついているな……近くにもう一か所、安全地帯が出現したようだ……馬は、この広場に置いていく。行くぞ!」
 ゾルが早足でナイフの導く方へ向かう。

 真っ暗な森の中で唯一の光源を見失っては、たまらん……と、サイケンは娘の手を引いて急いで剣士の後を追った。
 ゾルたちは、昼間この谷底の広場に入って来た場所とは別の獣道けものみちから木々の間に入り、足元の暗い中をしばらく歩いた。

 やがて一本の巨木の前に出た。
 幹の周りはたっぷり二十メドールはあるだろう。大男の胴体ほどもある根っこが、うねりながら四方八方に広がっていた。
 その根と根の間に一か所、隙間のようなものが見える。

「あそこだな……行くぞ」
 言って、旅人は、その巨木のうろの中へ入っていく。
 身長百九十センティ・メドールのゾルでも何とか入り込める大きさだった。
 サイケンとレイネが続く。
 細い入り口から中に入ってみると、ナイフの光に照らされたうろの中の空間は、予想以上に広かった。

「すごい……木の根元にこんなに広い部屋みたいな場所があるなんて」
 七歳の少女が驚きの声を上げる。

「ナイフの青みが濃い……」
 ゾルが振り返って親子に行った。
「よほどの事が無い限り、ここに〈妖魔〉が侵入してくることはないだろう……ここで朝までジッとしていよう」

 そして、先ほどの小屋で休んだ時と同じように、うろの端に腰をおろし、巨木の内壁に背中を預けた。

「あ……あの、これ……」
 少女が、丸めた灰色のマントをゾルに返そうとする。

「いいさ。朝が来るまで気温は下がり続ける。君とお父さんで使いなさい」

「で、でも」

「いいから」

「あ、ありがとうございます」
 そう言って、レイネは旅人の横に座った。そのさらに隣に父親のサイケンが座る。

 ゾルはナイフをブーツに仕舞しまった。
 うろの中が闇で満たされる。

「あの……」
 今度は父親がゾルに話しかけた。
「こ、ここなら、多少は声を出しても大丈夫でしょうか?」

「あのナイフの青さから言って、多少ならな。用があるなら小声で話せ」

「さ、さっきの黄金色に輝く剣は……あなたは、いったい……」

「はるか昔……帝国中期の時代だ……ある一匹の竜が空の彼方から大陸に飛来し、帝国中の街や村を破壊して回った……それを退治した勇者が俺のご先祖様だ。俺はその百五十代目の子孫だ」

「ゆ、勇者の……子孫?」

「そうだ……勇者が竜を倒すと、その死体の背骨部分から一振りの黄金きん色に輝く大きな剣が出てきた。それが〈ヴェルテブラリース・ドラコーニス〉……〈竜骨剣〉だ。このドラ公は……」
 暗闇の中で、見えないと知りつつゾルは肩に乗るトカゲを指さした。
「その化身というわけだ」

「……な、なるほど……」

「勇者と〈剣〉は、ある契約を交わした……勇者が〈剣〉を振りたくなったら何時いつでも〈剣〉の姿に戻ること。逆に……〈剣〉が〈妖魔〉を何時いつでも勇者は協力すること」

「よ……〈妖魔〉を……食べるんですか?」

「ああ。御馳走ごちそうだよ。このドラ公にとっては、な……今回の敵〈仮面の妖魔〉は、強さから言ったら中の下といった所だが、味もその通り、中の下なんだそうだ。このトカゲ様にとっちゃ、満足のいく獲物でもなかったらしい。まったく、こっちはで良かったと内心冷や汗を拭っていたというのに」

「憑依する前とは……」

「あれは……〈仮面の妖魔〉は人間に憑依したとき最大の力を発揮するしゅだ。誰かに取りいた状態だったら、ああも簡単には退治できん」

「そ、そうですか……」

「さすがに、おしゃべりが過ぎたな。もう寝るぞ。少しでも体力を回復させておくんだ」
 それっきり灰色の剣士は何も言わなかった。
 大きなうろの中が、闇と静寂に満たされた。