禄坊家(その2)
(マズいな……)
運転席の窓を少しだけ開け、鳴き声を聞きながら
(この声は、大型犬だろうな……少なくとも、チワワみたいな可愛らしい犬じゃない……猫だけでも
鋭い牙、爪、
隣に駐車した軽トラックの助手席側窓が少しだけ開いた。
「アルテです」
禄坊が、軽トラの中から風田に声をかけた。
風田が聞き返す。
「アルテ?」
「アルテミス……
「イングリッシュ・ポインター? ああ、猟犬か」
「さっきも言った通り、僕の親父は
「なるほど、ね。……ギリシャ神話の女神アルテミス……ローマ神話で言うところのディアーナ……月を象徴する女神であり、同時に狩猟の女神でもある、というわけか……それで、だな、禄坊くん」
「何ですか?」
「君は、そのミズ・アルテミスを、撃ち殺せるか?」
「え?」
「射撃の技術という意味においても……また、心理的な意味においても……自分たちが飼っている犬を、撃ち殺せるか?」
「ど……どうして、アルテを撃ち殺さなきゃいけないんですか?」
「忘れたのか? 猫に噛まれた人間は〈噛みつき魔〉になってしまうんだぞ? なら、犬にかまれた人間が〈噛みつき魔〉にならないという保証はないだろう? 『狂犬病』という例もあるんだ」
「か、可能性は、ありますけど……そんな、アルテを撃ち殺すなんて……」
……その時、風田と禄坊の会話を後部座席で黙って聞いていた甥の
「大丈夫です。犬には感染しません。感染するのはネコ科の動物と人間だけだ、って父さんが言っていました」
「感染? いつかも、そんな事を言っていたな……隼人くん、君は一体何を知っているんだ? 確か、君のお父さんは製薬会社から出向して自衛隊の研究施設に居ると聞いたが……それと何か関係があるのか?」
「あ、あとで話します」
運転席から振り返って、風田は後部座席の隼人の顔を見た。何か思いつめたような表情で、甥は風田を見返していた。
「フムン……」
しばらく考え、風田は、この製薬会社のエリート研究員を父に持つ少年の言葉に賭けてみようという結論を出した。
軽トラの運転席に座る大学生に呼びかける。
「禄坊くん……」
「はい」
「どうやら、犬は〈噛みつき魔〉にはならないらしい。君ん
「本当ですか」
「まあ、俺を信じろ。さあ、君の御殿みたいな家に案内してくれ」
「はあ……」
まだ迷っている風な禄坊を無視して、風田はハイブリッド・カーの後部座席に座る少年と少女に声をかけた。
「さあ、行こう。〈噛みつき魔〉と猫に注意しながら、車の外に出るんだ」
「あの……」
後部座席の少女がおずおずと風田に
「姉さんは? どうなるんですか?」
いまだ助手席で寝ている女子高生を見て、風田は「ふむん」と
「この陽気だ。車の中に放置しても風邪をひくことはあるまい。鍵をかけて置けば〈噛みつき魔〉に襲われることも無いさ。換気のため窓を少しだけ、猫が侵入しない程度に開けておく。心配するな。一段落したら……夕方までには僕と禄坊くんで家の中に連れて行くよ」
少女は、風田の回答に完全には満足していない様子だったが、再度、「さあ、車の外へ出るんだ」と言うと、しぶしぶと言った感じで後部座席のドアを開けた。
ハイブリッド・カーの三人が外に出ると、それに
「さあ、早く君の家に案内してくれ。屋外にいる時間が長引けば長引くほど、危険度が増すからな」
風田に言われ、禄坊が自分自身を指さして聞き返した。
「ぼ、僕が先頭ですか?」
「当たり前だろう。ここは君の家じゃないか。まさか家の
「わ、わかりましたよ」
不満げに言いながら、それでも、禄坊は猟銃に弾を二発込め、いつでも射撃できるように両手で持って、
二番目に風田、その後ろに速芝隼人と
* * *
(それにしても、変だな)
銃を手に、周囲を注意深く見回して裏木戸へ向かいながら、
(何で、正門が閉まっていたんだろう?)
家族そろって外出するとき以外、禄坊家では正門を開け放しておく。
(つまり、家には誰もいないという事か?)
飼い犬のアルテミスが盛んに吠えているのも気になった。
(アルテは頭も良いし、ちゃんと
嫌な予感がした。
……黒板塀の内側で、何か異様な事態が起きているのでは、ないか?
裏木戸は、木戸その物こそ伝統的な
禄坊は、いったん銃から右手を離し、ポケットから鍵を出した。
「禄坊くん、待ってくれ」
鍵を開けようとした禄坊を、風田が制止する。
「鍵を貸してくれ。僕が開けよう。君は、万が一の場合に備えて、一、二歩離れた場所から木戸の向こう側に狙いをつけるんだ」
万が一の場合って、何のことですか……と、禄坊は言いかけて、やめた。
確かにあらゆる場合を想定すれば、中から『何か』が飛び出してきたとき
ほかのことを全て他人に任せ、唯一銃を持っている禄坊は射撃に専念すべき、という事だ。
禄坊は、黙って鍵を風田に渡した。
風田がシリンダーに鍵を入れ、回す。ハリウッド映画のSWAT突入シーンでも真似ているつもりか、木戸の脇の板塀に背中をピッタリと付け、レバー式のドアノブをそうっと回し、扉を一気に開けた。
……扉の向こうには……何もなかった……
その狭い通路を通して、一面
何かを予感したのか、風田が甥の隼人にハイブリッド・カーの鍵を渡して、使い方を早口で説明した。
「これを持っていなさい。黒い部分のスイッチを押すと、オートロックが開閉する。ちいさなポッチにある方が『開く』のスイッチで、もう一方が『閉じる』のスイッチだ」
そして、禄坊以外の全員に言った。
「ここからは俺と禄坊くんだけで行く。みんなはここで待っているんだ。何かあったら、
全員が
禄坊が
あいかわらず、敷地内には犬の鳴き声が響いていた。
* * *
禄坊は猟銃を構え、納屋と土蔵の間の通路を進んだ。その後ろに風田。
通路の出口まで来たところで、禄坊は納屋の陰からそっと家の玄関を
最初に見えたのは、玄関の前に立って『何か』に向かってしきりに吠えているアルテミスの姿だった。
もう少しだけ納屋の角から顔を出し、玄関をよく見る。
初老の男と女が玄関の前に立っていて、格子の引き戸を叩いたり、指をかけて引き開けようとしていた。
男も女も、同世代の男女それぞれの平均身長より高く、太っていて体重もそれなりに有りそうだった。
やけにのろのろした動作だった。
「お……親父……お袋……なんで?」
「ご両親か?」
風田が、禄坊の後ろから玄関を
禄坊は答えない。認めたくない。
その時、若き飼い主の存在に気づいた猟犬が、老夫婦に向かって吠えるのをやめ、禄坊たちのいる通路に向かって走ってきた。
反射的にその体へ銃口を向け、危うく撃ち殺しそうになった所で「犬は〈噛みつき魔〉にならない」という風田の言葉を思い出して、引き金から指を離す。
アルテミスがしっぽを振りながら、禄坊の脚にまとわりついてきた。
異変に気付いたのだろうか……玄関前に立ってしきりに格子戸を叩いたり引き開けようとしていた老夫婦が、禄坊たちの方へ振り向いた。
女の口と、豊満な胸が血で濡れていた。
男は、
禄坊たちを見る二人の目は、しかし焦点が合っていなかった。
確かに、