青葉台旭のノートブック

映画「ゴジラ -1.0」を観た

TOHOシネマズ日比谷にて。

filmarks のページ

脚本 山崎貴
監督 山崎貴
出演 神木隆之介 他

ネタバレ注意

この記事にはネタバレが含まれます。

山崎監督について(ネタバレ防止の雑談)

過去に私が観た山崎映画は「リターナー」だけだ。
この「ゴジラ -1.0」で2作目。

「リターナー」は公開当時、映画館で観た。
Wikipedia によると2002年公開。
もう20年前の話か。

正直、印象は悪かった。

「この監督、ハリウッドに対するコンプレックスが酷(ひど)過ぎる。こっちが恥ずかしくなる程だ」
と思った。

ハリウッド式のオシャレな映像美やセリフ回しを真似して、かえって野暮ったくなっている所が、どうしようもなく小っ恥ずかしかった。

1990年代〜2000年代初頭といえば、独自の進化を遂げた日本アニメの映像センスの魅力に、ハリウッドの若手気鋭作家たちが気づき始めていた頃だ。

一介のアニメ・ファンだった当時の私には、山崎監督のセンスは、アニメの最先端から何周も遅れているように思えた。
例えるなら、「押井守の真似をしてるウォシャウスキーの真似をして、何が楽しいの?」といった感じだ。

「この監督の作品は、もう観なくてもいいな」と劇場から出る時に思った事を、今でも憶えている。

以来20年。
あれよあれよという間に出世して、彼は推しも推されぬ東宝の看板監督になり、次から次へと大作映画を世に出していった。

一方、その出世と比例するように、彼の作品に対する芳(かんば)しくない評価も増えていった。
とくに、映画評論家を始めとする「玄人筋(くろうと・すじ)」からの受けが、酷く悪いように思う。

彼の悪評を聞く度(たび)に、恐いもの見たさで映画配信サービスの検索欄に「山崎貴」と入力するが、結局「リターナー」以降20年もの間、彼の作品を観ずに来てしまった。

以上、ネタバレ防止の雑談です。

以下、ネタバレ。

ひとこと感想

ネットの評判を検索してみると、おおむね良好のようだ。

その一方で、かなり辛辣に批判している人もいる。
やはり映画通な人ほど、拒否反応があるようにも思える。

私自身の評価は、というと……

割と、肯定派だ。

どれくらい肯定派かというと、まあ点数では表現しづらいが、
「もういちど劇場で観たい。機会をみて、もういちど劇場に行こう」
と思えるくらいには、肯定派だ。

ある映画を2回も劇場で観たくなるというのは、客観的にみて、かなりの好印象だと思う。

具体的に、どこがどう良かったかは後述するが、とにかく、
「もう一度あのゴジラに会いたい」
と思ってしまったのだから、私にとっては「良いゴジラ映画」だった。

その一方で、これが駄目だという人の気持ちも、よく分かる。

登場人物たちのセリフ回しや行動が、いちいち臭くて辟易(へきえき)させられたのも確かだ。

「リターナー」の時は、ハリウッド式の洒落たセリフ回しや立ち居振る舞いを真似しているのが、どうしようもなく臭くて困った。

この「ゴジラ -1.0」では、悪い日本映画・テレビドラマに有りがちな、「お涙ちょうだい」式のセリフや行動が、鼻に付いた。

この映画が完璧とは程遠い代物である事は、間違いない。
いろいろとアラの目立つ作品だ。

しかし、私が映画館を出る時に「もう一度、映画館で観よう」と思ったのも、やはり間違いのない事だ。

なぜ私は、そう思っているのだろうか? と自己分析してみる。

やはり、ゴジラそれ自身が良かったからだろう。

極論、ゴジラ映画なんだから、ゴジラそのものが良ければ、それで良いのだ。
人間ドラマが不要だとは言わないが、人間たちはゴジラの神々しさを引き立てるためにジタバタしてくれれば、それで充分とさえ思う。
ゴジラに対する人間側の解釈に矛盾があっても問題ない。
そもそもゴジラとは、その名の通り、ある種の「神」だ。
神は、ただ意味もなく存在し、意味もなく人間に幸福を与え、意味もなく苦痛と死を与える。

やれ古代の恐竜の生き残りだの、やれ日本海溝の深海に住んでいるだのというのは、人間が勝手に思い込んでいるだけの話だ。

恐ろしさと神々しさを表現できていれば、ゴジラ映画は合格だ。

この「-1.0」のゴジラ描写は、とても良かった。

以下、思いついたことを順不同でつらつらと書く。

震電と雪風

怪獣映画といえば、メカも大事だ。

昭和から平成にかけて、実在しないSF的なメカ、いわゆる「スーパーメカ」が何度も登場した。

しかし「シン・ゴジラ」以降のリアル路線では、なかなかSFメカは登場し難いだろうと思う。

今回の主役メカは、なんとあの「震電(しんでん)」と「雪風(ゆきかぜ)」

まさか、ここで震電を持ってくるとは思わなかった。

劇場で「おいおい、震電かよ……」と思わず小さく呟(つぶや)いてしまった。

空力性能向上のために採用されたエンテ(先尾翼)形態。
30mm機銃4門を納めた長く鋭いノーズ、後退した主翼、推進式プロペラ、二枚の垂直尾翼。
設計速度は時速750キロ。
試作機による初飛行まで成功しながら、量産化を前に終戦を迎えた幻の機体。

もちろん、起きなかった歴史上の「もしも」は、しょせん架空の話、妄想に過ぎない。
震電とて例外ではなく、「もし、この高性能機が実用化されていれば……」などと願望混じりにアレコレ考えても意味は無い。

それを分かった上で敢(あ)えて言わせてもらえば、この美しい見た目と、「高性能を期待されながら、実戦投入される事なく終戦を迎えた幻の機体」という物語性が、長年マニアたちのロマンを掻き立てて来た。

一方の雪風も、軍事マニアの間では、やはりロマン溢れる「伝説の駆逐艦」として有名だ。

激戦と言われた海の戦いに何度も参加しながら、38隻建造された同型艦の中で唯一、ほぼ無傷のまま生き残って終戦を迎え、「奇跡の駆逐艦」とまで言われた船。

この「幻の戦闘機・震電」と「奇跡の駆逐艦・雪風」は、軍事マニア・兵器マニアたちの間では、とても有名かつ人気のある戦闘機・駆逐艦だ。

そのあまりにも有名な戦闘機と駆逐艦を、まさかゴジラ映画に登場させるとは……日本中のマニアたちが、全国の劇場で不意打ちを喰らって息を呑む姿が目に浮かぶ。

そして、これらの持つ物語性・ロマン性が、この「ゴジラ -1.0」の物語に非常に良くマッチしていた。

「実用化前に終戦を迎えた高性能機」は、生き恥を晒し、死に場所を求めているようにも見える主人公の分身とも捉えられる。

また、激しい海戦に何度も投入され戦果を上げながらも無傷のまま終戦を迎えた「奇跡の駆逐艦」を再び出撃させ死地へと向かわせる事で、状況の残酷さ・悲劇性が際立つ。

主人公と震電

人間ドラマに関して言えば、山崎監督がこの映画に仕掛けた「感動ポイント」は、何ヶ所かあるだろう。

しかしその大半は、私にとっては「苦笑ポイント」でこそあれ、感動できるような代物ではなかった。

ただ3カ所、主人公が震電に搭乗して出撃しゴジラを海へ誘い出すシーンと、後述するヒロインが爆風に飛ばされるシーン、そしてラスト・シーンは、とても感動した。

戦後、特攻くずれの負い目を背負って生きて来た主人公。
銀座で恋人をゴジラに殺され、冷たい復讐の鬼と化した主人公。

ところが……

実戦配備前に終戦を迎えた高性能機……主人公の鏡写(かがみうつ)しとも言える震電の操縦席に座った瞬間、彼の顔に微かな笑みのようなものが浮かぶ。
それは、ある種の「充足感」「充実感」のようにも見える。
「これで全てが終わる……特攻くずれの生き恥からも、最愛の人を失った怒りからも解放される……」という静かな高揚感が感じられる。
狭いコクピットの中で機体を左右に振って索敵する時の神木隆之介の表情、ゴジラの鼻先をかすめて海へと誘導する彼の表情は、それだけで映画館に行く価値があると思った。
さすがは当代一流の俳優だ。

雪風の艦長

数々の海戦で戦果を上げながら、ほぼ無傷のまま終戦を迎え、「奇跡の駆逐艦」「不死身の駆逐艦」と呼ばれた雪風。

そんな二つ名で呼ばれるほどの戦歴を得た1番の理由は、もちろん艦長が非常に有能であったからだ。

就役から終戦まで、何度か艦長が交代している。
終戦時の艦長は、寺内正道という。
もちろん実在の人物だ。
劇中に雪風の艦長が出てくるが、あれは寺内艦長なのだろうか? 名前を聞き逃してしまった。

ちなみに物語の最後、ゴジラの死体に向かって艦長以下、乗組員たちが敬礼をするが、あれは史実に基づいている。
実在した雪風がアメリカ軍の駆逐艦との戦いに勝利した後、沈没するアメリカ駆逐艦に向かって雪風の乗組員たちが敬礼をしていたという実話に基づく。
この逸話はアメリカ側の記録として残っているから、日本側のデッチ上げやプロパガンダではない。

神木隆之介

最初の大戸島のシーンでは、ちょっと演技が過ぎるかなとも思ったが、浜辺美波演じる恋人がゴジラに殺される銀座のシーン以降、冷たく静かな憎悪を溜め込む姿が素晴らしかった。

そして何より、前述した震電のシーンが素晴らしい。

浜辺美波

東宝女優である以上、ゴジラとの共演は避けられない宿命、運命だ。

ゴジラに負けない存在感を出せていたか?
ゴジラを相手に、ちゃんと演技が出来ていたか?

うむ。
私の判断では、充分に合格だ。
その美貌も含めて、ゴジラと対等の存在感を放っていた。
ちゃんとゴジラを相手に演じ切っていた。

素晴らしい才能の持ち主だと思う。
これからも精進してほしい。

二人の関係

主人公が悪夢にうなされて「ハッ」と目覚めた時、隣で寝ているヒロインとの間にカーテンのような仕切りがあった。

つまり、彼らは一つ屋根の下に住んでいながら、そして互いに憎からず思っているにも関わらず、性的な交渉が無いという事だ。

これを見たとき「やれやれ」と思った。
月刊少年サンデーのラブコメかよ、と。

その直後に「ああ、なるほど」と気付いた。

ああ、なるほど、主人公は大戸島のゴジラ襲撃が精神的トラウマになり、勃起障害になってしまった訳か。

ネットで調べてみると、PTSD(心的外傷ストレス障害)に罹患した戦争帰還兵が、勃起障害に陥ることは実際に有るらしい。

脱出装置

青木崇高演じるメカニックが震電の操縦席を整備している時に、背もたれの所に何やらドイツ語が書かれていた。
何と書いてあったかは分からなかったが、この時点でピンッと来た。
この機体のコクピットには、同盟国ドイツから受領した脱出装置が組み込まれているんだな、と。
ちなみに、世界初の射出座席装置は、第二次世界大戦中にドイツで開発されていた試作ジェット戦闘機、ハインケルHe280に搭載された物だったらしい。

ゴジラの口に特攻

水爆実験さえ生き延びたゴジラの口に、たかが戦闘機1機分の通常火薬爆弾をぶつけたところで、ああも簡単に死ぬだろうか?
という疑問は有るだろう。

放射能熱線を吐く直前というタイミングが功を奏した、というのが私の解釈だ。
今回のゴジラは、原爆にも匹敵する非常に強力な放射能熱線攻撃が可能な反面、それによってゴジラ自身も体内にダメージを負うという設定らしい。

それゆえに、一度、放射能熱線を発射すると、体内のダメージが回復するまでの間、次の攻撃が出来ない……と、吉岡秀隆演じる技術者が説明している。

放射能熱線が発射される直前のタイミングで、その発射口である口腔内で震電が爆発したため、放射能熱線が逆流してゴジラ自身の体内を焼き、ゴジラは内部から崩壊した……
これが私の解釈だ。

ラスト・シーン

安藤サクラ演じるお隣さんが電報を受け取った時に、映画館にいた観客全員が心の中でツッコミを入れたと思う……
「浜辺美波、生きとったんかいっ!」

銀座襲撃シーンで、主人公がヒロインに建物の陰へ突き飛ばされて助かり、代わりにヒロインが爆風で吹き飛ばされたシーンに衝撃を受けた。
感動した。

恋人を助けるために銀座に駆けつけたはずが、逆にその恋人に助けられ、自分は生き延びて彼女を失うという、非常に残酷な展開に感動した。

……なのに……生きとったんかいっ!

正直、ゲンナリするわな。

二人が再開し、ヒロインが「あなたの戦争は終わりましたか?」と尋ね、主人公が泣き崩れるシーンを見て、
「こういうラストも悪くないかも……これはこれで良いかも知れない」 と、考えを改めた。

これは、ひとえに、神木と浜辺の佇(たたず)まいと演技の力が大きい。
彼らの佇まいと演技が素晴らしかった。

それにしても、あれだけの爆風に飛ばされて生きているものかよ……という腑(ふ)に落ちない感じは残った。

その直後、「ヒロインの首筋に黒いアザ→海中で増殖するゴジラの細胞」というラスト。

なるほど、そういう事か、と、今度は腑に落ちた。あれほどの爆風に襲われながらヒロインが生き延びたのは、何らかの事情でゴジラの細胞が彼女に取り憑いたからだろう。

うん。なかなかに恐ろしい(=ほめ言葉)幕引きだ。
山崎監督、よくやった。グッジョブ。

応援に駆けつける漁船団

若い船乗りの呼びかけで駆けつけた漁船団が、駆逐艦を引っ張る展開は……う〜ん。

少年マンガ的な「熱い友情シーン」を演出したかったのだろうけど、この展開はクサすぎるし、何よりリアリティが無さ過ぎる。

山崎、おまえ、そう言うとこやぞ、皆が嫌っとるのは。
そういうとこ直さな、あかんて。

その前段、駆逐艦が危機に陥った原因も酷(ひど)かった。
ゴジラが爪だか牙だかでバルーンを破いたから……て。
計画段階で気づけよ!
あまりの間抜けさに、苦笑する気力も起きない。

クサい場面ついでに言わせてもらうと、募集した元水兵たちの前で演説する雪風艦長のシーンもクサかった。
あまりにもストレートな、「お国のために死んでくれ」感が濃厚すぎた。

「シン・ゴジラ」にも、決死の作戦に赴(おもむ)く自衛官たちの前で主人公が演説するシーンがあったけど、あの時には、そういうクサさは感じなかったんだよな。
むしろ、話の流れとして、この演説シーンは必要だなと思った。
この違いは、何だろうか?

CG

冒頭の、大戸島に着陸する零戦のシーンからして、ちょっとCG感がキツイなと思った。
大戸島の背景自体が、CGか……とも思った。

その後は、CGに関して左程(さほど)気にならなくなった。
世界レベルで見ても、充分に及第点だと思う。

ゴジラ

ゴジラ自身の描写は、とても良かった。
今までに無かったアングルも多く、その恐ろしさを充分に堪能できた。

BGM

ゴジラが現れると同時に、伊福部テーマがドドーンと鳴り響く。

駆逐艦が反撃の狼煙(のろし)を上げると同時に、また伊福部音楽がドドーンと鳴り響く。

そういう、良く言えば王道、悪く言えば「あざとい」演出を臆面もなくやっちゃうのが、良くも悪くも山崎監督の持ち味なんだろうね。

確かに、理屈抜き・条件反射的に快楽中枢を刺激され、ほとんど肉体的なレベルで興奮しちゃったのも事実なんだよなぁ。

これは、これで有りです。

ふたたび結論

欠点も多い作品だが、何だかんだ言って、私は近々もう一度ゴジラに会いに映画館へ行く。

という訳で、私は「肯定派」です。

東宝への提言

「シン・ゴジラ」を経て、われわれ観客がゴジラへ要求するレベルは決定的に上がった。

その上がってしまったレベルに対して、今回の「ゴジラ -1.0」は、ギリギリやっと合格点といった所だ。
これ以下の物を、絶対に作ってはいけない。

また、好むと好まざるとに関わらず、これからのゴジラは世界中の人々が観る映画になって行くだろう。

かつてのような粗製濫造は許されない。

年数をかけて、良いものを作りなさい。

追記(2023.11.6)

ひょっとして山崎貴って「天然の人」かも。

……と、ふと思った。

追記その2(2023.11.6)

気づいた事があったので、追記する。

気づいた事1:背ビレの根元

放射能熱線を吐く時に、背ビレが下から順番に飛び出して行くのが、今回のゴジラの特徴だ。

あれは、背ビレの根元が体内原子炉の制御棒になっているという描写だと気づいた。

ゴジラの体内が、ある種の生体原子炉のようなものだと仮定する。
その原子炉の核反応速度を調整する制御棒のような器官が有って然(しか)るべきだろう。
それが背ビレ(の根元)だ。

その制御棒のような器官は、通常時は核反応を抑制するため体内に降りている。

放射能熱線を吐く時には、核反応を増進させて一時的にエネルギーを得る必要があるため、体内原子炉から制御棒が抜かれる。そのぶん背ビレが外に飛び出す、という仕組みだろう。

気づいた事2:特攻が成功したのは、ゴジラの脳が破壊されたから

ゴジラが、体内に生体原子炉を有する一種の原子力発電所のようなものだとすると、当然、その脳は原子炉を制御するコンピュータに相当するはずだ。

特攻によって、頭部の上半分を吹き飛ばされるというのは、原子力発電所で言えば制御コンピュータを破壊されたに等しい。

それによって体内の生体原子炉が暴走して炉心溶解を起こし、ゴジラの脅威的な再生能力をもってしても間に合わず、海に沈んだのだろう。

追記(2023.11.7)特攻くずれ

出撃しないまま終戦を迎えて帰ってきた特攻隊員に、近所の人々が罵声を浴びせるという事は、実際にあったらしい。

2023-11-06 15:42