青葉台旭のノートブック

映画「ヴァチカンのエクソシスト」を観た

映画「ヴァチカンのエクソシスト」を観た

U-NEXT にて。

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脚本 マイケル・ペトローニ、エヴァン・スピリオトポウロス
監督 ジュリアス・エイヴァリー
出演 ラッセル・クロウ 他

ネタバレ注意

この映画にはネタバレが含まれます。

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ひとこと感想

わりと面白かった。

終わってみたら、オカルト系『超能力バトルもの』だった。

超能力バトルもの(別名:異能バトルもの)とは、その名の通り、主人公が超能力を駆使して敵と戦うアクション・ジャンルだ。

「主人公が呪文を詠唱すると、空中に魔法陣が浮かび上がって、敵を倒す」タイプのアクション・エンターテイメント。

「奇抜なコスチュームではなく、普段着のまま戦うスーパー・ヒーローもの」と言ったら分かりやすいだろうか。
さらに短く「変身しないスーパー・ヒーローもの」とも言えるか。

「ヴァチカンの奥深くには、ごく少数の選ばれしエリート退魔師(エクソシスト)だけが知っている『秘密基地』があり、そこでは日夜、優秀なスタッフたちがコンピュータを駆使して古文書の解読に勤(いそし)んでいる」というエピローグも、「いかにも」って感じだ。

パート2は……

「古文書を解析した結果、『ロサンゼルス郊外の一軒家で、大魔王が復活しつつある』という予言に行き当たる。エクソシスト秘密基地の司令官に就任したアフリカ系司祭の命令を受け、ラッセル神父とその相棒神父が現地に飛ぶ」

みたいな話になるんじゃないかな(妄想)

「Based on a true story」というミス・リード

一応この物語は、実在したエクソシスト神父の自伝をベースにしているという体(てい)で作られている。

今どき「本当にあった〜」「実話を元にした〜」などという言葉を真に受ける観客など居ない。

しかし、「そうは言っても実話ベースを名乗る以上、ある程度のリアリティは担保してくるだろう」という無意識の思い込みは残る。

「ヴァチカンのエクソシスト」は、その思い込みをうまく利用していた。
まさか超能力バトルものだとは、物語冒頭では誰も気づくまい。

「実話ベース(自称)のリアルな導入」
   ↓
「正統派の悪魔憑きホラー」
   ↓
「ラストは超能力バトル・アクション」

と、徐々にジャンルをスライドさせながら観客を連れまわし、同時にアクションのボルテージを上げて行き、クライマックスから大団円へと繋げる……というのが、この作品のメイン・コンセプトだ。

冒頭、悪魔憑きの若者の除霊を行う直前、「突然、英語を話すようになった」という村の神父に対し、ラッセル神父が「この家にテレビはあるか?」と問う。
これは「テレビでアメリカのホラー映画を観ているうちに自己暗示にかかり、自分にも悪魔が取り憑いたという妄想を持ってしまった」という仮説の提示だ。

「悪魔憑きは実在するのか、それとも単なる精神疾患か?」
……エクソシストもの定番のモチーフだ。

観客は「今回もこの定番モチーフを使うのだな」と思い込む。
それがミス・リードとなって、「荒唐無稽な超能力バトル・アクション」という真の姿を覆い隠す。

もしも、この最初の除霊シーンから、ラッセル神父が呪文の詠唱とともに空中に魔法陣を描いて、悪魔とドンパチやっていたら、観客は早々にこの映画を見切って興味を失ってしまっていただろう。

繰り返すが、「リアル志向の正統派エクソシストもの」から「荒唐無稽な超能力バトル・アクション」へ徐々にボルテージを上げながらジャンルを移行させるストーリー・ラインこそが、この映画のキモだ。

「ホラーだと思っていたらスーパー・ヒーローものだった」という映画は、例えばM・ナイト・シャマランなど、先行作品が存在する。

シャマランの場合、「スーパー・ヒーロー・ジャンルである事を、隠して、隠して、隠して、ラストで一気にチャブ台をひっくり返す」という手法をとる。

この「ヴァチカンのエクソシスト」は、ジャンル移行がもっと緩やかというか、徐々にアクションを激しくさせて行く。
「ふと気づいたら、いつのまにかアクションが荒唐無稽なほど派手になっていた」と観客に思わせる。

例えば、悪魔に取り憑かれた少年少女との対決シーンにおいて、元祖「エクソシスト」に似せた動きを意図的に取り入れている。
これには、単なる「オマージュ」以上の、明確な演出意図がある。
観客に「ああ、はいはい、元祖エクソシストのオマージュね」と思わせる事で、いま目の前で起きている現象が実は相当に荒唐無稽であるという事から目を逸(そ)らさせる、という効果を狙っているのだ。

「超能力バトルもの」という荒唐無稽なジャンルである事を隠すのではなく、堂々と観客に見せながら意識させない、という可成(かな)り高度なテクニックを使っている。

超能力バトルもの

繰り返しになるが、この映画は「オカルト系(=宗教系)超能力バトルもの」というジャンルだ。

皆さんも漫画やアニメで1度や2度は、
「高度な修行を積んだ僧侶が『臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前』と唱えながら両手で印を結ぶと、空中に紋様が浮かび上がって超常的な現象が発生する」
という場面を観たことがあるだろう。

「ヴァチカンのエクソシスト」は、そのキリスト教バージョンだ。

これまた繰り返しになるが、「超能力バトルもの」「異能バトルもの」というジャンルとは、「普段着のスーパー・ヒーローもの」「変身しないスーパー・ヒーローもの」の事だ。

趣味嗜好は時と共に移ろうものだが、2023年現在の私は「変身ヒーロー」よりも「超能力バトル」の方が好みだ。

ヒーローが変身して派手なコスチュームに身を包んでしまうと、どうしても、その派手なコスチュームを多くの人々が目撃する、という方へ物語が進みがちだ。

当然の結果として「地球存亡の危機」「人類存亡の危機」という大風呂敷になってしまい、せいぜい身長180〜190センチ程度の『等身大ヒーロー』と、彼が挑もうとしている困難や目的とのバランスが崩れてしまうと思うのだが、いかがだろうか?

単なる設定として、ある種のマクガフィンとして「地球存亡の危機」を語るだけなら別に構わない。
しかし、実際のアクションに関して言えば、等身大ヒーローが相手にできる状況の規模には、限界が有ると思う。

「ヴァチカンのエクソシスト」を例に取ると……
主人公の神父に魔王が取り憑けば、全人類規模の災禍を引き起こすかもしれない。
そういう意味では、この作品も「人類存亡の危機」を扱っている。

にも関わらず、実際のアクションの規模は、たかだか1つの修道院の地下納骨所より広がる事は無い。その小ぢんまりとした規模感が、今の私には好ましく思える。

2023-09-08 15:50