映画「君たちはどう生きるか」を観た
映画「君たちはどう生きるか」を観た
TOHOシネマズ六本木にて。
脚本 宮崎駿
監督 宮崎駿
出演 山時聡真 他
ネタバレ注意
この記事には以下のネタバレが含まれます。
- アニメ「君たちはどう生きるか」
- アニメ「装甲騎兵ボトムズ」
- アニメ「ニルスのふしぎな旅」
- アニメ「機動戦士ガンダム」
ネタバレ防止の雑談
久しぶりに宮崎駿監督作品を劇場で観た。
2001年の「千と千尋の神隠し」以来のジブリ作品。
20年以上もの間、私はジブリ作品を観なかったのか。
正直に言うと、私は宮崎駿作品が苦手だ。
子供の頃は「カリオストロの城」が大好きだった。
「天空の城ラピュタ」も割と好きだった。
この2作品を観たのは10代の頃だ。いま観返しても面白いと思えるかどうかは、分からない。
「千と千尋の神隠し」は今でも好きな作品だ。
それ以外にも何本か宮崎監督作品を観ているが、あまり感心できなかった。
作品から滲み出る優等生的な感じ、いかにも「秀才くんが作りました」という感じが苦手だった。
よく出来ているとは思うが、ぎりぎりの所で胸に迫って来ない。
芸術作品というものを、「ひとりの天才の脳内で発生する、知性と情念のぶつかり合い」と仮定してみる。
この仮定の下で宮崎映画を評価すると、一般的に言って、知性は充分に感じられるのだが、情念の迸(ほとばし)りが無い。そこが物足りない、という結論になりがちだ。
宮崎自身もそれを自覚しているのではないか? と思う。
彼の作品には、「自分の中にある原初的な情念を何とかして掘り起こそう、それをフイルムに焼き付けよう」と格闘した痕跡がチラリ、チラリと見え隠れする。
とくに今回の「君たちはどう生きるか」には、それを強く感じた。
以上が、アニメ監督・宮崎駿に対する私の視線だ。
世間の評価より若干、厳し目だと思う。
熱心な宮崎ファンではないから、当然の事ながら彼の作品全てを観ている訳ではない。前述のとおり「千と千尋〜」以降20年以上も彼の作品を観ていない。
また、彼の最高傑作との呼び声も高い漫画版「風の谷のナウシカ」も読んでいない。
つまり、宮崎作品にとって、私は良い観客じゃない。
以下に述べるのは、そんな私の主観だ。
* * *
ここまでネタバレ防止の雑談でした。
ネタバレ感想を始めます。
まずは率直な感想
良い映画だった。
2時間たっぷりとフルコースの食事を味わったような濃密な満足感があった。
これぞ映画。まさに映画。
さすが宮崎駿だ。映画の何たるかを熟知している。
いや「熟知」という言葉は相応しくないな。
おそらく彼は、本能レベルで映画の何たるかを感知できる。それほどに、映画は彼の血肉になっている。
ただし、最初の1秒から最後の1秒まで完全無欠の映画という訳でもなかった。
中盤の異世界の冒険は、退屈だった。
世間で言われるような難解さは感じなかったが、ただただ退屈だった。
すばらしかったのは、疎開先である母の実家での生活の描写と、ラストの塔崩壊〜エンドロールだ。
特に、ラストが凄い。
この作品を4つに区切る。
- 東京、母の死
- 母の実家での疎開生活
- 異世界の冒険
- 塔の崩壊からエンドロール
それぞれについて、感想を述べる。
1. 東京、母の死
おそらくCG を使ったであろう熱気の流れの描写が斬新だ。
導入部として充分以上の出来だ。
2. 母の実家での疎開生活
素晴らしい。
どのカットを取っても構図がビシッと決まっている。
長からず短からず最高のタイミングで切り替わる。
食い入るように見てしまった。
ほとんど全てのカットに引き締まった静的な美しさを感じたが、その中に一瞬、ものすごく動的なカットが挿入されていた。
青鷺が、まるで手練れのパイロットが操る戦闘機のように、太陽を背にして逆光の中から現れるカットだ。
そのカッコ良さたるや……まさに戦闘機マニア宮崎駿の面目躍如と言った感じだ。
ソファに寝そべる偽物の母親に触れたら溶けて液体になるシーンの構図も、すごい。
溶けていく母親の顔の、その溶け始めだけを描写して、一連の動きの中でタイミング良く枠の外に出す。
グロテスクにモロ見せするでもなく、間接描写に逃げるでもなく、観る者の嫌悪感を掻き立てながらもギリギリのところで上品さを失わない。
まさに名人の手際だ。
3. 異世界の冒険
巷では難解だという評判が先行しているが、裏読み・深読みをせずに「目の前で起きている事そのものが、まさに目の前で起きているだけなんだ」と思えば、難しい事は何も無いと思う。
しかし、それにしても異世界の冒険は退屈だ。
塔の床が溶けて奈落に落ち、気づいたら黄金の門と遺跡のある岬を見下ろす草原に居たというファースト・シーンで、まず驚いた……絵面(えづら)のあまりの凡庸さに。
それ以後の一連のシーンを見て、とりあえず宮崎監督が『海の民』でない事だけは分かった。
たかが魚を捌(さば)いて内臓を取り出すだけで、いちいちそんなに驚くかよ。
この主人公が何歳の設定かは知らないが、俺は小学校高学年の時にはアジくらいなら自分で捌いてエラと内臓を出していたし、サザエやアワビの殻を石で割って生きたまま食べてたぞ。
話が前後するが、食べ物つながりで言うと、ジャムをたっぷり塗った食パンに齧(かじ)りつく場面で「じゅる、じゅる」という咀嚼音が、かなり大きな音量で挿入されている事に気づいた。
たしかに、その咀嚼音によって観る者の食欲が刺激され、本能的に「旨そうだなぁ」と思ったのは事実だが、反面、音が大きすぎる・態(わざ)とらしすぎるとも思った。
キリコが施す呪術(まじない)のたぐいも、いちいち態とらしくてシックリ来ない。
4. 塔の崩壊からエンドロール
- 塔が崩壊する
- 主人公たちが命からがら脱出する
- 家族再会
- 「2年後に戦争が終わって僕らは東京に帰った」という主人公のナレーション
- 本をカバンに入れて部屋を出て玄関ホールを見下ろすと家族が居る
- 満2歳になった赤ん坊
- フェードアウト、しかしバックは黒じゃなくて空色
- テーマ曲、エンドロール
これだけの事を最小限の秒数の中に凝縮して、最大限の感動を引き出す。
まさに神業だ。
素晴らしい。
今日、気づいた事:
現実世界に帰還すると同時に異世界が崩壊すると、なぜか感動が増す。
* * *
以上、「君たちはどう生きるか」の感想でした。
以下、思いついた事を順不同につらつら書いていきます。
王道ファンタジー
それにしても分からないのは、この映画を難解だと評する人の多さだ。
王道すぎる程の王道ファンタジーだと思うのだが。
- 心に何かしらの欠落を抱えた少年が
- この世ならぬ存在に誘(いざな)われて
- 1度はその誘いを断るが
- 2度目の誘いには応じて
- 異世界に足を踏み入れ
- 冒険をして
- 魔王を倒し
- ヒロインの愛を得て
- 帰還し
- 大人への一歩を踏み出す
ハリウッド脚本術サンプル集の1ページ目に出て来そうなほどの王道ファンタジー。
しかもテーマはフロイト先生お得意のエディプス・コンプレックス。
神殺し(≒象徴的な父殺し)の果てに母親の愛を得る話。
これ以上は無いってくらい教科書どおりのストーリー・ラインだ。
しいて変則的なところを挙げるとすれば、実母・継母両方の愛を同時に得るという欲張りな展開か。
しかも実母と継母は姉妹。
しかも、実母はタイムスリップしてるから若返っていて美少女。
おそらく世界初の、ダブル母親姉妹ヒロイン美少女ハーレム異世界ファンタジー。
情報量えぐっ
この情報量の多さが、難解だって言われる原因なのかな?
神殺し(≒象徴的な父殺し)
これは異世界の創造主を(象徴的に)殺す話だ。
創造主は「大叔父」と呼ばれ、血縁者である主人公を自らの後継者に指名する。
象徴的には、大叔父は「父」であり、主人公は「息子」である。
主人公が大叔父の指名を辞退することで世界は崩壊する。
物理的に父親を殺さなくても、父親からの「後継者指名」を断れば、それは実質的(=象徴的)な「父殺し」として機能するって訳か。
この解決の仕方を見たとき、私は「ああ、いつも通りの宮崎らしい解決だな」と思った。
平和主義者の宮崎は、「困難や葛藤を、暴力によって解決する」という作劇法を嫌う。
彼の過去作品の中にも「暴力による解決」が多少はあるかも知れないが、おそらく極端に少ない。
今回のクライマックスを(象徴的な)父による「後継者指名」と、息子による「拒否」にしたのも、平和主義者ゆえの事だろうと思った。
しかし、その直後に、あるアニメのラストが頭に浮かんだ。
「装甲騎兵ボトムズ」だ。
「ボトムズ」は1980年代リアル系ロボット・アニメ全盛期に作られた広義のスペース・オペラであり、同時に「ブレード・ランナー」から強い影響を受けたSFノワール・アニメでもある。
個人的には、初代「ガンダム」と同じくらい好きなアニメだ。
あらすじを簡単に説明すると……
「銀河大戦末期、兵士キリコ・キュービーは、極秘作戦に参加し、カプセルの中で眠る美女と出会う。
やがて戦争が終結し、帰還兵となったキリコは、スラム街で美女と再開する。
運命の女を追いかけて銀河を放浪するうち、自分が銀河全体を揺るがす大きな陰謀の渦中に居ることに気づく」
……といったものだ。
この物語の結末が、「君たちはどう生きるか」にそっくりなのだ。
「裏で全ての糸を操っていたのは『ワイズマン』と呼ばれる存在だった。
銀河そのものを裏で操るほどの、神にも等しい強大な能力を有するワイズマン。
その正体は、超古代文明が建造したスーパーコンピューターに宿る人工知能であり、キリコこそが、その後継者の資格を持った銀河唯一の人間だった。
冒険と放浪の果てに、辺境の星でワイズマンが宿るスーパーコンピューターに謁見するキリコ。
ワイズマン(=神)が言う。
「我が後継者となれ。銀河を支配する神となれ」
しかしキリコは拒否し、あろう事か、神の宿るスーパーコンピュータのメモリーを片っ端から破壊していく。
ついに神は死ぬ。
「神(父)の後継者に選ばれた主人公が、それを拒否し、神は死ぬ」という結末。
この類似性は何だろうか? と考える。
答えは自明だ。
それが現代社会において主流の価値観だからだ。
自由な意思を持った個人である事は、王になる事よりも、神になる事よりも尊い。
そのためなら王を殺しても良いし、神を殺しても良い。
むしろ自由な個人の確立のために、神は必ず殺さなければいけない。
なるほどなぁ、これが近代ヒューマニズム以降の新たな父殺しテンプレというわけか。
ここまで考えて、ひとつだけ「ボトムズ」に無くて「君たちはどう生きるか」に存在する要素に気づいた。
現実世界に戻る決心をした主人公に、重ねて念を押す大叔父のセリフだ。
「本当に良いのか? どうせ炎に焼かれる世界だぞ」
主人公は「それでも良いから、現実世界に帰る」と言う。
この一連の会話を聞いたとき、私は「こいつ、そこまで覚悟を決めてるのか」と驚いた。
ちょっと胸を打たれた。
「管理されたユートピア=ディストピア」
↑↓
「貧しくとも自由な外の世界」
という対立構図を軸にした映画は、古今東西、枚挙に暇(いとま)がないだろう。
いわゆる「ディストピアもの」というジャンルだ。
しかし、
「たとえ外の世界が滅亡する運命にあるとしても、管理された美しい世界で永遠に生きるよりはマシだ」
という所まで突っ込んだ作品は、この「君たちはどう生きるか」だけだと思う。
この会話を聞いたとき、私は、優等生の御為(おため)ごかし以上の何かを……理屈を超えた宮崎固有の情念のようなものの片鱗を感じた。
まだ片鱗ていどではあるけれど、ひょっとすると、これこそ私が宮崎に対して「物足りないと思っていた何か」なのかも知れない。
まあ別に、このテーマに拘(こだわ)る必要は無いけれど、宮崎の中にもドロドロとした情念みたいなものが有るのだなと分かってホッとした。
「なんだ、秀才の宮崎くんも、やれば出来るじゃないか」
といった感じだ。
余談だけど、大叔父とかいう人物って見た目が白人っぽいから、婿養子なのかな?
明治初期に日本に来た所謂(いわゆる)雇われ外国人が、地方の名士の娘と恋に落ちて、そのまま居ついたって設定なのかな?
だとしたら、主人公とは血が繋がっていない筈(はず)なんだけど……その辺りの設定が気になる。
妄想=少年の目から見た現実
疎開初日、初めて母の実家の玄関に立った主人公が目にするのは、上がりかまちの向こうに広がる大座敷だ。
まるでサッカーが出来そうな……と言ったら大袈裟だが、フットサルくらいなら楽勝で出来そうな常識離れの広さだ。
継母に案内され、少年は廊下を歩いて行く。
これまた何百メートルあるんだ? という長い廊下だ。
ちょっと鼻白んでしまった。
日本屋敷に洋風の展望室が継ぎ足されている所までは、まあ監督の趣味なんだろうなと微笑ましく見ていた。
しかし、あまりに広大な座敷と長すぎる廊下を見せられて「おいおい流石(さすが)に、やり過ぎだろ」と思った。
ひょっとしたら、この家自体が異世界の建物なのかも知れないとも勘ぐった。
異世界の旅は、もう始まっているのかも、と。
またカットが切り替わった。
縁側を歩く主人公を庭から真横に覗くカメラ・アングルだ。
今度は、常識的なスケール感の中に家が収まっていた。
ああ、なるほど、少年からみた世界と現実の世界との間に、微妙な乖離がある訳か。
ありふれた現実が、空想がちな幼い子供の目にはファンタジーに映る、という二重映しの設定で今回は行くんだな、と。
つまり、
〇解釈その1
観客が目にした通りの出来事が実際に起きた。(ファンタジー世界は実在する)
〇解釈その2
ファンタジー世界の出来事は全て、主人公の妄想力によって脳内で再構築された現実世界の出来事だった。
この2つの解釈が、どちらも可能なように話を進めて行くつもりなのだろうと予想した。
実際、見終わってみると「ファンタジー世界の出来事は全て、主人公の妄想力によって脳内で再構築された現実世界の出来事だった」という解釈も可能な仕立てになっていた。
以下は、私の解釈だ。
* * *
まず始めに、下女の老婆たちは認知能力と記憶力が低下していると仮定する。
あるいは、お坊ちゃんの田舎暮らしが退屈しないよう、ホラ話を聞かせていたのかも知れない。
つまり老婆たちは、いわゆる『信頼できない語り手』だ。
そうすると、幕末に隕石が落ちたという話も、主人公の母親が1年間行方不明だったという話も嘘だった可能性がある。
大叔父なる人物は実在した、と仮定しよう。
晩年、発狂して行方不明になったのも事実とする。
莫大な金を蕩尽して、森の中に巨大な塔を建てたのも大叔父だ。
かれは塔の中に自分一人だけの楽園を作った。
大量の本を運び入れ、温室を作り、人工の池を作り、そこにインコやペリカンなど外国の珍しい鳥を放った。
やがて塔の主は発狂して行方不明になり、塔は封鎖され打ち捨てられ、廃墟となった。
塔の中で飼っていた鳥たちも放置された。
体が小さく適応力のあるインコは、塔の隙間を通って中と外を行き来して生き残り、大繁殖し、塔の中に巨大なコロニーを作った。今で言う『特定外来種』だ。
一方のペリカンは、インコほどの適応力も無く、隙間から外へ出るには体が大きすぎる。
塔内の小動物などを食べて飢えをしのいでいたペリカンも、1羽また1羽と死んでいき、ついに主人公の目の前で最後の1羽が死んだ。(ペリカンの寿命は最大80年と言われている。余談だが、現実のペリカンも貪欲な生き物だ。目の前で動くものは何でも飲み込もうとする)
マタニティ・ブルー(妊娠時の鬱症状)を発症し、さらに継子である主人公との人間関係に悩んでいた継母は、一時的に精神に変調をきたし、フラフラと塔の中に入っていった。それを追って、主人公とキリコ婆も塔の中に入った。
数時間後、妻と息子が塔内で行方不明になったと聞かされた父が塔の出入り口に駆けつける。
主人公が出入り口を通って、いったん姿を表す。しかし『継母を探さなきゃ』と言って再び塔内に入ってしまった。
長年廃墟だった塔が、ついに限界を迎えて倒壊する。
塔内に巨大なコロニーを形成していた数百数千のインコが一斉に外へ飛び立つ。
主人公は、継母(とキリコ婆)を連れて、からくも脱出した。
* * *
以上、二次創作めいた解釈を披露して申し訳ない。
私が言いたかったのは、
「ファンタジー世界なんか最初から無かった。全ては、妄想がちな主人公の目を通した現実世界の出来事、主人公の妄想によって再構成された現実の出来事だった」
という余白を充分に残した物語設計になっているという事だ。
なんでこんな二重の設計になっているかといえば、一つには、それがファンタジー児童文学の定石・お約束だからだろう。
もう一つの理由は「ファンタジー世界に行かなくたって、気の持ちよう一つで、人は変われる。成長できる」という余地を残すためだろう。一種の自己啓発だ。
青鷺は主人公のダークサイドの投影(かも知れない)
「ファンタジー世界の出来事は全て、主人公の妄想によって再構成された現実の出来事だった」という解釈を、もう少し掘り下げてみたい。
そうだと仮定すると、青鷺は主人公の別人格という事になる。
いや、青鷺に限らずファンタジー世界の住人全員が彼の別人格という事になる。
青鷺自身は、実在したのだろう。
継母が鏑矢(かぶらや)を使って追い払っているからだ。
鏑矢なら、比較的安全に鳥を追い払える。
由緒ある家の娘として、彼女が弓道を嗜(たしな)んでいたという設定は充分に有り得る。
実在する青鷺に、主人公は自分自身を投影する。
嫌な自分、ネガティブな自分、ダークサイドの自分を、だ。
それは、主人公がネガティブな気分に飲み込まれそうになった時に、決まって青鷺が現れる所から分かる。
自分自身のネガティブな側面の投影が青鷺だとすると、しきりに「母親に会わせてやるから、塔の中に来い」と誘うのは、どういう事だろうか?
いくら主人公が子供だからと言って、死んだ母親が2度と帰って来ない事ぐらい理解できるだろう。
年齢設定が何歳なのかは知らないが、それくらいの分別は有りそうな年齢に見える。
母が死んだことは分かっている。2度と会えないことは、理性では承知している。
それでも会いたいという止(や)むに止まれぬ感情が、青鷺すなわち自分自身のダークサイドをして「会わせてやるよ」と言わせているのだろう。
ひとことで言えば「未練」だ。
ならば「塔の中へ入れ、そうすれば母に会わせてやる」の意味は?
少年も、塔が倒壊寸前の非常に危険な場所だという事は知っている。
そこへ行けば天国の母に会えると、もうひとりの自分である青鷺が言う。
これは、ひょっとしたら自殺願望の現れかも知れない。
いっそ、倒壊する建物の下敷きになって死んでしまえば、天国の母に会える……という。
そんな青鷺(=彼自身のダークサイド)も、物語前半では嫌らしく恐ろしく主人公に迫って来るが、(妄想の)冒険を共にするあいだに、じょじょに打ちてけて行き、物語のラストでは親友のような関係になる。
これは恐らく、
「欠点あっての人間だ。だから自分自身の欠点やネガティブな感情、すなわち自分の中のダークサイドを前向きに認めなさい。上手く付き合って行きなさい」
という教訓だろう。
仮面ライダーごっこ・主人公の年齢は?
少し私の自分語りにお付き合い願いたい。
私が小学校3年生の時の出来事だ。
* * *
ある晴れた日の午後、私とS君とM君の同級生三人組は、人も自動車も滅多に通らない静かな路地で「仮面ライダーごっこ」をやっていた。
三人とも自転車を持っていたから、サイクロン号やハリケーン号など空想上の「バイク」に乗る資格はある。
ただ、たいへん残念なことに、変身ベルトはS君しか持っていなかった。
V3のダブル・タイフーンだ。
S君は「ガキ大将」という程ではなかったが、われわれ三人の中では一番のリーダー気質で、つねに遊びの主導権を握っていたいタイプだった。
当然のように、仮面ライダーV3役は常にS君で、私とM君は、常に悪の組織デストロン役だった。
S君は「へん〜しん! ぶい、すりゃー!」などと宮内洋の声真似をして腰のダブル・タイフーンを回し、終始ご満悦だ。
一方の私とM君は、デストロン戦闘員の真似をして「ヒーッ、ヒーッ」と叫んだり、怪人の真似をして「死ねぇ! 風見志郎!」などと殺し文句を叫んだり、S君が「とぅっ! とぅっ!」などと言いながら繰り出すパンチやキックを受けていた。
しかし、怪人役ばかりでライダー役の回って来ないごっこ遊びに、そうそう熱中してもいられない。
僕とM君は、だんだん飽きて来て、演技も御座(おざ)なりなっていった。
一方のS君は、相変わらずご満悦でライダーV3を演じている。
ボルテージが上がって来たのだろうか? 突然、S君がハリケーン号(自転車)に跨(またが)り、全速力で通りを走り出した。
さも、「俺のハリケーンは時速600キロだぜ! デストロンよ! ついて来られるかな?」と言った感じで、時々チラチラ僕らを見ながら路地を全速力で走って行く。
僕とM君は、そろそろ馬鹿馬鹿しくなってきた頃合いで、全力で自転車を漕ぐS君をぼうっと見ていた。
興に乗ったらしいS君は、とうとう路地の突き当たりを曲がって、建物の陰になっている別の通りに入り、 僕らの視界から消えた。
それから10秒も経過した後だろうか、建物の陰から再びS君が姿を現した。
こんどは、こちらへ向かって全力で自転車を漕いでいる。
ご満悦だったさっきまでの表情とは打って変わって、まるで鬼にでも追いかけられているような必死の形相だ。
僕らの居るところで止まると思いきや、全力のまま目の前を通過して、そのまま今度は路地の反対側まで行って角を曲がり、また僕らの視界から消えた。
僕らの前を通過する瞬間、S君は「〇〇と△△と□□(同じクラスの女子3人組)が、こっちへ来る!」と叫んだ。
(ああ、なるほど……)
全速力で自転車を漕いで逃げて行くS君の背中を見送る僕とM君の口元には、皮肉とも嘲笑とも憐れみとも呆れともつかない微妙な笑みが浮かんでいた。
良い気になって路地を飛び出したS君は、そこでバッタリ、女子3人組と出会ってしまったのだろう。
S君の腰には、「うぃーん」とモーター音を立てて回転するダブル・タイフーン。
こんな物を女子に見られたら、明日にはクラス中の女子に……下手をすると学年中の女子に知れ渡ってしまう。
最短でも来年の3月まで……場合によっては卒業するまで「小学3年にもなって腰に変身ベルトを巻いてライダーごっこに興じる幼稚な男」という十字架を背負って生きて行く羽目になる。
大急ぎで自転車を180度ターンさせ、腰の変身ベルトを絶対に見られないようにしながら全速力で女子たちから逃げるS君の姿は、想像に難(かた)くない。
やがて路地の向こうから女子3人組が現れた。
なにかを喋りながら、ゆっくりこちらへ向かって歩いて来て、僕らの前を通り過ぎ、S君が逃げて行った方向へ曲がって僕らの視界から消えた。
女子たちが目の前を通ったとき、あいさつの1つも交わしたか、交わさなかったかは憶えていない。
心の中に、ある種の余裕というか、S君に対する優越感が有った事は憶えている。
何しろ、僕らの腰には変身ベルトが無い。
側(はた)から見れば、少年が2人、路地で自転車に跨ってダベっているだけだ。
ついさっきまで「仮面ライダーごっこ」なんて幼稚な遊びに興じていたとは誰も思わないだろう。
(Sのやつ、自分ばっかりライダー役をやっているから、バチが当たったんだ)というドス暗い痛快さも正直あったと思う。そう記憶している。
S君が戻って来たのは、それから大分(だいぶ)経った頃だ。
変身ベルトは腰から外され、自転車の前カゴに入っていた。
その日の遊びが、そこでお開きになったのは言うまでもない。
* * *
話を「君たちはどう生きるか」に戻す。
なんで長々と自分語りをしたかと言えば、主人公の年齢設定が分からなかったからだ。
上に書いた私の経験でもわかる通り、小学校3年生(8〜9歳)という年齢は、ぎりぎり仮面ライダーごっこに興じられる程度の空想力は持ち合わせているが、同時に「こんな幼稚な遊びに興じている所を女子に見られたら恥ずかしい」という現実感覚も持ち合わせている。
成長するにつれて徐々に現実感覚を獲得して行き、それに反比例して空想力は減退して行く。それが人間というものだろう。
「女子に見られて恥ずかしい」という感覚には、『性の目覚め』も微かに感じられる。
同世代の女子に興味を持つということは、それだけ母親へ興味が薄れるということだ。
「君たちは〜」の主人公は、見た感じ小学校高学年のようだ。
小学3年生ですらだんだん「ごっこ遊び」がキツくなる年齢なのに、あれほどの空想力を小学校高学年の少年が発揮できるだろうか?
肥後守で弓矢を作るシーンも、「分かる、分かるよぉ……男子なら一度は、お手製の武器を作りたくなるもんだよね」というワクワク感を覚える反面、「小学校高学年にもなって、そんな物が現実には何の役にも立たないと気づかないのか?」とも思ってしまう。
まあ、でも「中二病」って言葉があるくらいだからな。
そういう空想力っていうのは、ギリギリ中学2年生くらいまでは機能しちゃうのか。
ニルスのふしぎな旅
昔「ニルスのふしぎな旅」というアニメがあった。
原作はスェーデンの児童文学だ。
動物虐待癖のある悪ガキのニルスが、妖精に呪いをかけられてネズミほどのサイズになってしまう所から、物語は始まる。
魔法によってミクロマン程の大きさに縮小されてしまった主人公ニルスは、その副作用として、動物と会話する能力を得る。
そして、すったもんだのあげく、空飛ぶガチョウと共に雁の群れに加わり、彼らと旅をするという話だ。
最終回、長い旅を経て精神的に成長を遂げたニルスは、無事に妖精の呪いを解いて元の姿に戻り、両親との再開を喜ぶ。
しかし同時に、旅の仲間たち(=動物)と会話する能力を失ってしまう。
このビターな終わり方が、子供心に印象的だった。
旅の仲間とはもう2度と会えない、会っても話が通じないという悲しさに涙しながら、「そうか……そりゃ、そうだよな」という奇妙な納得感と清々(すがすが)しさも感じていたように記憶している。
* * *
1980年代、世界中の神話・伝承を研究し尽くしたハリウッドの理論家たちは、ある結論に到達する。
「この世界に、面白い物語パターンは1つしかない……『少年が旅に出て、数々の冒険を経て成長し、故郷に帰って来る』物語だ」
ここで言う『少年』とは、『欠落や未熟さを抱えた、それゆえに成長の余地がある存在』の象徴だ。この特性さえ持っているなら、主人公は少女でも構わないし、老人でも構わないし、動物やエイリアンやロボットでも構わない。
この物語パターンは、「通過儀礼の物語」とも言い換えられる。
大人になるのは怖い。
大人になって、世界という大海に放り出されるのは怖い。
しかし、人は皆いずれ大人になる。嫌でも大海に放り出される。
ならば、せめて大海を泳ぐ能力を身につける場所と時間が欲しい。
あるいは、充分な能力が身につくまでの一時(いっとき)だけ、自分を守ってくれる魔法が欲しい。
そして、魔法の力に守られた少年は、冒険の旅に出て、苦難のすえ立派な大人になる。
ひとたび大人になってしまえば、もう魔法の力は必要ない。
だから魔法は失われる。
大人になるという事は、子供時代に自分を守ってくれた魔法を、意識的にであれ無意識的にであれ捨て去るという事だ。
冒険を終えた主人公に、青鷺が「(異世界での冒険の事は)すぐに忘れる」という。
おそらく、いずれ遠からぬ未来、主人公は青鷺と会話できなくなるだろう。
成長して旅を終えたニルスが、親友だったはずのガチョウと会話できなくなったように。
青鷺が人間の言葉を喋(しゃべ)っていた理由が、主人公の心のダークサイドが投影されていたからだとしたら、それも当たり前だ。
過酷な世界から自らの精神を守るため、無意識の防御反応として、自らのダークサイドを外部化し青鷺に投影したのだとしたら、立派な大人へと成長しつつある主人公にとって「喋る青鷺」などは、もはや無用の長物だ。
喋る青鷺などという本来あってはならない物に拘(こだわ)り続ければ、それは、むしろ成長の足枷になる。
子供は、過酷な世界に飲み込まれないように、ぬいぐるみを抱きしめ、ぬいぐるみと会話する。
しかし、いずれ成長して大人になった暁には、ぬいぐるみを捨て去らねばならない。
まあ、自転車の補助輪みたいなものだ。
補助輪が無ければ、子供は自転車に乗る事ができない。すぐに転んで怪我をしてしまう。
初めて自転車に乗った子供の操縦を補助し、転倒と怪我から守ってくれる魔法のアイテム……それが補助輪だ。
しかし、充分に練習を積んで自転車を自在に操れるようになった暁には、それは真っ先に取り外されるべきパーツだ。
ふと、初代ガンダムの最終回を思い出した。
なるほど、連邦が総力を挙げて開発した超高性能モビルスーツは、アムロにとって、過酷な現実を生き延びるために天から降って来た魔法のアイテムというわけか。
「君たちはどう生きるか」の主人公にとっての青鷺、ニルスにとってのガチョウというわけだ。
そして青鷺も、ガチョウも、ガンダムも、成長した主人公にとっては、無用の長物どころか、これ以上ずるずる関わるべきではない、有害な存在なんだ。
だから、成長したニルスはガチョウと会話が不可能になり、青鷺は遠回しに「俺のことは早く忘れろ」と言い、アムロはコアファイターを捨てたんだ。
とすると、アムロに捨てられたコアファイターの計器が「ピコーン、ピコーン」って点滅しているのは、
自分を捨てて去り行くアムロに向かって、ガンダムが、
「ええんやで。これで、ええんやで」
って言ってるという事か。
うわ、やべ、うるっと来た。泣けてきた。
啓蒙主義
児童文学とか、児童向けアニメとかって、どうしても啓蒙主義的要素が入って来ちゃうよね。
まあ、しょうがないのかな。
啓蒙主義によって捨てられちゃう面白さっていうのも、確実にあるとおもうんだけど。
ファンタジーが、古代から連綿と続く神話・伝説の末裔であるとするなら、なおのこと。
平和主義者
宮崎駿は、自作の中で発生した葛藤が暴力で解決されることを嫌う。
葛藤が暴力で解決されないという事は、単に「数ある解決法の中で、暴力による解決が除外された」という話ではない。
そもそも暴力では解決し得ない質の葛藤を発生させる必要がある、という事だ。
それが、宮崎作品に不思議な味わいを与えている。
今回「君たちはどう生きるか」を作るにあたって、ついに宮崎は、
「もはや葛藤自体が、必要ないんじゃね?」
……という境地に達したように思える。
葛藤なんて無くたって良いし、あった所で、解決する必要もない、と考えているように見える。
絵について。その1
背景画が、私の知っている宮崎映画と少し違うように感じる。
まあ、気のせいかもしれないし、描き手の癖の違い程度の事かも知れない。
絵について。その2
私は以前、以下のようなブログ記事を書いた。
「ジブリに選択肢は二つ。「宮崎駿風キャラ」を続けるか、続けないか。」
お暇だったら、リンク先の記事を読んで欲しい。
要約すると、
- アニメーター宮崎駿の絵は、ストーリー・テラー宮崎駿の物語と、非常に強く結合している。
- 宮崎が引退した後のジブリは、二つの選択肢を迫られる。
あくまで宮崎風の絵でアニメを作り続けるか、それとも思い切って宮崎風の絵を捨てるか。
私個人の意見を言えば、宮崎引退後のジブリは「脱・宮崎」を目指した方が良いと思っている。
リンク先の記事は、宮崎が既に引退したものとして書いた。
引退宣言を撤回して再び映画を撮ることは想定の範囲内だったが、まさか絵筆を握らずに脚本・演出に専念するとは思わなかった。
結果として、宮崎風でありながら、あきらかに宮崎ではない絵が現れた。
ひとことで言うと、「じゃっかん『萌え』が入って来ている」
個人的には、良い驚きだったし、宮崎引退後のジブリが少し楽しみになって来た。
絵について。その3
この映画について、私が一番不満だったことを、最後に大声で言わせてもらう。
「四六時中カッと見開かれている主人公の目が、キモいんだよ!」
驚いた時に目を見開くのは、別に問題ないんだよ。
あの主人公って、なんで、あんなに年がら年じゅう目を見開いているの?
もちろん、何らかの演出意図をもって態(わざ)と描いているんだろうけど、意味が分からない。
追記(2023.7.28)
「ファンタジー世界の出来事は全て、主人公の妄想力によって脳内で再構築された現実世界の出来事だった」
と言う解釈を、もう少しだけ掘り下げてみたい。
大叔父が生きていた可能性
ひょっとして現実世界の大叔父……明治期の大富豪だった大叔父は、この物語の舞台である昭和初期(第二次世界大戦の時代)まで生存していたのではないだろうか?
主人公は、現実の大叔父と邂逅したのではないだろうか?
発狂して行方不明になった大叔父が、実は、迷宮のような塔のどこかでホームレスのようにして生きながらえていたという可能性だ。
宮崎駿が公言している愛読書のひとつに、江戸川乱歩の「幽霊塔」がある。自ら表紙絵を描いているほどだ。
題名にもなっている作中の「幽霊塔」なる建物が、この「君たちはどう生きるか」の舞台に少し似ている。
その導入部は、以下のようなものだ。
* * *
明治時代、ある大富豪が、迷宮のような塔を建てる。
ある日、塔の中で、塔の主人である大富豪自身が忽然と姿を消す。
やがて「塔の中から大富豪の声が聞こえる」という怪談めいた噂が近隣に広がる。
ひょっとしたら大富豪は、何かの手違いで迷宮のような塔の中に閉じ込められ、今でも、その中を彷徨(さまよ)っているのかも知れない。
誰言うともなく、いつしかその塔は「幽霊塔」と呼ばれるようになった。
* * *
いかがだろう?
もし「君たちはどう生きるか」の塔のモデルが「幽霊塔」であるなら、塔の建築主である明治の大富豪すなわち大叔父が、今でも塔の中を彷徨っているという設定は、あながち的外れでもないように思う。
主人公が抱きついたのは若いキリコではなく、キリコ婆さん
ファンタジー世界に登場する若いキリコは、実は、主人公の妄想力によって脳内変換されたキリコ婆さんだったのではないだろうか?
別れ際に、主人公が若いキリコに抱きついてオッパイもふもふするシーンがある。
正直、イラッとした。
お前ぇ、なに、純粋無垢なフリして女に抱きついてんだよっ!
それやって良いのは小学校低学年までって日本国憲法に書いてるつってんだろが!
ちん毛はえてるくせして、子供特権なんか使うんじゃねぇ!
と、思っていたが、主人公の脳内で変換されて若返っているように見えただけ、実際はキリコ婆さんに抱きついていただけだとしたら?
……うん……まあ、それなら……良いんじゃないかな。
追記(2023.8.31)
スタジオ・ジブリには、いわゆる児童文学、それも欧米の作品を原作に採(と)った物が少なくない。
宮崎監督の作家的ルーツが、それら欧米児童文学であろう事も、想像に難(かた)くない。
おそらく、良いところのボンボンだった宮崎少年は、翻訳された海外児童文学を何冊も買い与えられ、それらを精神的な糧(かて)として成長していったのだろう。
では『児童文学』とは、いったい何なのだろうか?
私は、先の章で、こう書いた。
「ファンタジーが、古代から連綿と続く神話・伝説の末裔であるとするなら」
……と。
少し立ち止まって、考えてみる。
本当に、児童文学は「古代から連綿と続く神話・伝説の末裔」なのだろうか?
ふと、「現代の児童文学は、ビルドゥングス・ロマンの末裔なのではないか?」と気づいた。
若者が成長し、立派な大人になる物語。
立派な大人とは、すなわち近代的教養と近代的道徳観を充分に兼ね備えた近代市民のことだ。
それを目指して、主人公は自らを啓蒙し、成長する。
たしかに古代の神話にも、現代のファンタジー(児童文学)にも、ドラゴンやら妖精やらが出て来る。
表面的には似ている。
しかし児童文学がビルドゥングス・ロマンの末裔なら、それは中世以前の神話・伝説とは似て非なるもの……むしろ神話・伝説とは相反するもの、とさえ言えるのかも知れない。