随筆・雑多なもの

ジブリに選択肢は二つ。「宮崎駿風キャラ」を続けるか、続けないか。

ポスト宮崎駿のゆくえ

「君の名は。」のヒット以降、新海誠監督をして「ポスト宮崎駿」と称する記事をいくつか観た。
 私は、新海監督の作品に関しては「君の名は。」しか見ていないが、ポスト宮崎駿と呼ぶに相応しい作風という感じはしなかった。
 念のために言っておくが、これは、どちらが上とか下とかの話ではない。
 お互い「作風が違う」という事を言いたい。
 そもそも、誰であろうと一人の作家に対し、別の作家の名前を借りて「ポスト○○」などという名前で呼ぶというのは、どちらにとっても失礼な話だ。
 もちろん、良識ある監督なら、そのような事を公の場で面と向かって言われれば、困惑気味に「光栄です」と答えはするだろうが、内心、相手がどんなに尊敬する監督であっても「違うんだけどなぁ」と思うのではないだろうか。
 新海誠に限らず、老若男女問わず広い支持を受けられそうな長編アニメ映画の監督に対し、日本のエンターテイメント業界が、何かというと直ぐに「ポスト宮崎駿」という称号を与えたがるのは、いかがなものか。
 まあ、それだけ宮崎駿が引退したあと業界にポッカリと開いた穴が大きいという事なのだろう。
 作風の話ではなく「100億稼げる長編アニメ映画監督」のポジションを、今、日本の映画業界は必死で探しているということか。
「ポスト宮崎渇望論」という訳だ。
 しかし「100億稼げる長編アニメ映画監督」というポジションを、宮崎駿(と、その後継者)一人に任せるというのは健全ではない。
 業界を(経済的にも文化的にも)健全にするためには、そういう監督を日本全体で最低5人は揃え、彼らをローテーションさせることで、毎年の興行プログラムを平均化させるべきだろう。
 日本の映画界全体もそうだが、ジブリ自身も同じだ。
 組織なら、すなわち「多くの人間によって構成され、彼らの生産能力を集約して価値を生産し続け、それを再分配する」存在であり続けるならば、たった一人のカリスマの価値生産能力に依存し続けるべきではない。
 複数の優秀な価値創造者で年単位のローテーションを組み、それが複数の世代に渡って継承されていく仕組みを早急に作るべきだろう。

ジブリの選択肢は、二つしかない。「宮崎駿『風』アニメを作り続けるか」「宮崎駿『風』アニメを脱するか」

 早い話、誰もが心の中で思っている事として「宮崎引退して、ジブリどうすんだ?」という事だ。
 ジブリのもう一人の柱である高畑勲が、これから何本映画を作れるかは分からないが、御年81歳、エルビス・プレスリーと同い年の映画監督一人の肩に、ひとつの映画製作プロダクションの命運を背負わせるのは、さすがに大変ではないか。
 やはり、ジブリとしても監督の若返りは必要だろう。
 誰が言い始めたのか、その原典は分からないが……ある分野において、その代名詞になる程の大きな存在があった時、その分野に挑戦する若者たちに発せられる決まり文句がある。
「○○を作る方法は二つしかない。△△のように作るか、△△と違うものを作るか、だ」  例えば、こんな風に使われる。
「スーパーカーを作る方法は二つしかない。フェラーリのように作るか、フェラーリと違うものを作るか、だ」
「スマートフォンを作る方法は二つしかない。スティーブ・ジョブズのように作るか、スティーブ・ジョブズと違うものを作るか、だ」
 この決まり文句に従えば、ジブリに対しては、以下のようになる。
「ジブリ映画を作る方法は二つしかない。宮崎駿にように作るか、宮崎駿と違うものを作るか、だ」

スティーブ・ジョブズは死期を前にして、後継者にこう言ったらしい。「スティーブ(ジョブス)なら、どうする……とは考えるな」と。

 つまり、アップルの創設者は、自分の後継者に対してこう言いたかった訳だ。
「俺は俺。お前はお前。お前の好きにしたら良い」と。
 本来、組織という物は、その中心人物が高齢化することを予測して何年も前から次の中心人物を用意しておくものだ。
 後継者選びに失敗して、長い低迷期に入ったり、組織そのものが消滅してしまった例はいくらでもある。
 後継者に対して、去りゆく者が残す言葉にも二種類あるだろう。
「俺の後を継げ、俺のやった通りに、お前もやれ」
「俺ならどうするか、は考えなくて良い。お前の好きにやれ」
 去り際に宮崎駿が、このどちらのセリフを言ったのかは定かではない。
 ジブリが今後そのどちらの道を行くつもりなのか、今のところ見えてこない。

宮崎駿映画の「絵柄」は、宮崎駿映画の「ストーリー」に高度に最適化されている。

 あの、現在のアニメーションの基準からするとシンプルとも言える独特のタッチのキャラクター・デザインと、絵本のような独特のタッチの背景描写……すなわち宮崎映画の「絵柄」は、宮崎駿の創り出す「ストーリー」と密接に結びついている。
 それが宮崎駿映画の「強み」でもあるのだが、しかしそれは逆に言えば、こういう事だ。
「宮崎駿以外の監督が『宮崎絵』を使いこなすのは難しく、逆に『宮崎絵』以外のタッチで宮崎ストーリーを語るのも難しい」
 にも関わらず、過去のジブリにおいて、たとえそれが宮崎駿自身の監督作品でないものであっても、頑なに「宮崎絵」に固執していたように私には思える。(重鎮である高畑勲監督作品は除く)
 例えば、一つの思考実験として「ポスト宮崎駿」と称される新海誠監督の「君の名は。」のキャラクターデザインを、宮崎駿が担当したという仮定を考えれば良い。
「君の名は。」では、男女の体が入れ替わるたびに女の体に入った男が「自分の胸を揉む」というアクションが、ちょっとスケベな定番ギャグとして劇中に何度も登場する。
 この軽い下ネタでさえ、あの格調高い「宮崎絵」では機能不全を起こしてしまうのではないだろうか。
「アスベル」のような見た目の瀧が、「ナウシカ」のような見た目の三葉の体の中に入って自分の胸を揉むというシーンが有りうるだろうか?
 また「君の名は。」には、スマートフォンを弄る場面が何度も出てきたが、宮崎のキャラクターデザインでは、スマートフォンを操るのは無理……とまでは言わないが、かなり違和感が出てきてしまうのではないだろうか。宮崎絵で対応できるのは、良くて「ガラケー」までのような気がしてならない。
 当たり前の話だが、これは良い悪いの話ではない。向き不向きの話だ。適材適所という問題だ。
 そうだ。人間に適材適所があるように、絵柄とストーリーのマッチングにも適材適所があるはずだ。
 過去のジブリ作品において、宮崎駿以外の監督作品の場合、例えば外部からキャラクターデザイナーを招くなどして他の絵柄を使うという選択肢もあったように思う。
 にもかかわらず、なぜジブリは、若い世代の監督たちにも「宮崎絵」を与えてきたのだろうか?

宮崎駿自身の監督作の中にも、一つだけ「宮崎絵」がマッチしなかった作品がある。

「もののけ姫」を観た時、私は、正直言って居心地の悪さを感じた。
 ちょっと、このテーマは、宮崎駿でさえも消化しきれていないのではないだろうか、と思った。
 今まで自分が作って来た作品とは毛色の違う作品を作りたいと思うのはクリエーターとして当然の事だと思うが、正直、出来上がった成果物としての「もののけ姫」に関しては、宮崎駿自身が、作りたい物を消化不良のまま出してしまったのではないか、という思いを拭い去れなかった。
 その最たるものが、宮崎駿のデザインするキャラクター(の外見)とストーリ-のミスマッチ感だった。
 実写映画に例えれば「ミス・キャスト感」とでも言えば良いのだろうか。
 そのせいで私は映画のあいだ中、終始、居心地の悪さを感じ続けることになった。
 後日、「もののけ姫」の着想は「マッドメン」を始めとする諸星大二郎の漫画群から来ているという話を聞いた時、思わず膝を打った記憶がある。「ああ、なるほど……だったらキャラクターデザインを諸星大二郎に任せちゃえばよかったのに……」と。
 何度も言うが、これはどちらが上とか下とかの話では無い。
 絵とストーリーの「相性」すなわち「適材適所」の話だ。
 それから、諸星大二郎の絵柄で充分な興行収入を得られたかどうか、それも分からない。

これからジブリは「宮崎風の絵・宮崎風の話」で行くのか、行かないのか

 組織として、株式会社として、「ブランド」として、ジブリはこれから何処へ向かうのか。
 一つには、ブランドとしてすでに確立されている「みんながジブリに期待する宮崎風の絵柄と話づくり」をこれからも延々と継承し、「宮崎ライクな作品」を作り続けていくことだろう。
 それは組織として、営利企業として、必ずしも悪いことではない。
 フェラーリというブランドは、「みんながフェラーリに期待するもの」を作り続けることが組織としての存在意義であろうし、株主・取引先・従業員などの利害関係者たちのために、「みんながフェラーリに期待するフェラーリ」を作り続けるだろう。
 伝統あるブランド企業は、みんな、そうだ。
 映画業界で言えば、ここ十年くらいのディズニーがそうだろう。
 ストーリーにしても絵柄にしても、ディズニーの映画は一見、多種多様なように見えて、実はプロダクションの「縛り」が強いという話を聞く。
「大人も子供も安心して楽しめるディズニー色」というブランド・イメージから大きく外れないように会社側でストーリーをコントロールしているらしい。
 もちろん、良い面ばかりでもない。
 ブランドとしての縛りを自ら作るという事は、構成員の創造の自由度をある程度制限していくという事だ。
「女の体に入った主人公が自分の胸を揉む? それはウチのカラーじゃないから却下」という事が内部であっても、それは仕方が無い。
 もう一方で、宮崎駿が引退したのを節目に「脱宮崎駿」を打ち出して、若手のクリエーターたちに自由に映画を作らせ、また、外部の演出家やキャラクターデザイナー、アニメーターなどを積極的に活用して「宮崎風であろうが無かろうが、良い映画を作る」
 という路線に転換する手もある。
 ジブリには二つの道しかない。「宮崎風の映画を作り続けるか」「宮崎風でない映画を作るか」
 ただ一つ言えるのは「宮崎風の絵柄」というのは、じつは恐ろしく使いこなすのが難しい特性を持っているということだ。宮崎駿自身が自分のストーリーテリングのために生み出した宮崎専用カスタム・モデルだ。凡庸な例えで申し訳ないが「シャア専用MS」みたいな物だ。性能は良いのかもしれないが、汎用性はそれほど高くない。
 ナウシカの絵では「寝起きにボサボサの頭で、いきなり自分のおっぱいを揉む」という描写は出来ない。つまり「君の名は。」は作れない。