青葉台旭のノートブック

映画「ブラック・フォン」を観た

映画「ブラック・フォン」を観た

U-NEXT にて。

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脚本 スコット・デリクソン、C・ロバート・カーギル
監督 スコット・デリクソン
出演 メイソン・テムズ 他

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ひとこと感想

とても面白かった。

完成度の高い映画だった。

広義のホラー・ジャンルに含まれる作品だが、ホラー(=怖さ)で観せる映画というよりは、ストーリーそのものの完成度で観せる映画という感じがした。

鬼からの逃走

ちょっと前に書いた映画「バーバリアン」の感想記事で、私は日本の民話「地蔵浄土」を連想したと書いた。

同じように、「ブラック・フォン」を観終えた後、これは「鬼から逃げる」民話の類型なのかな? と思った。

「ヘンゼルとグレーテル」とか「ジャックと豆の木」とか、日本民話なら「三枚のお札」のような、人を食らう怪物(オーガ・鬼・山姥・魔女など)から少年・少女が逃げる民話の類型だ。

例えばジャックと豆の木には、居眠りをする人喰い鬼の横をすり抜けて逃げる場面がある。
本作にも、まんまその通りの場面があった。

「鬼からの逃走」民話の構造を抽出すると、

  1. 人喰い怪物の家に迷い込んだ少年・少女が
  2. 人ならざるもの(神・精霊・幽霊・あるいは怪物の妻など)の助けを借りて
  3. 怪物と知恵くらべをして(怪物をだまして)
  4. 怪物の家から逃げる

という話になろう。

さらに単純化すると、

  1. 人喰い鬼の家に囚われる
  2. 超常的存在の助けを受ける
  3. 人喰い鬼との知恵くらべに勝つ(=だます)
  4. 逃げる

この4つの要素になる。

民話を、何千年ものあいだ親から子・子から孫へと語り継がれブラッシュアップされ続けて来たエンターテイメントの原型として捉え、上記の要素を現代風にアレンジして話の中に入れ込むと、多くの人に支持される良質な物語になる可能性が高い。

時代が変わっても、人間の本能や欲望は大して変わっていないだろうから。

いっそ、ホラーを現代の民話と言っても良いか。
爺ちゃん婆ちゃんが、炉端を囲む孫たちに聞かせていたハラハラドキドキの怖い話……その末裔がホラーという訳だ。

SFスペクタクル巨編や壮大なファンタジー巨編は、吟遊詩人が王侯貴族の前で歌った叙事詩の末裔、と言った所か。

イーサン・ホーク

  • いまを生きる→美少年
  • ガタカ→美青年
  • それ以降→ホラー映画に登場する情けない父ちゃん
  • お腹まわりがプニョプニョな殺人鬼←今ここ

実は、妹は物語の本筋に全く貢献していない。
……と、エンドロールが流れる頃に気づいた。

主人公の少年は、自力で(幽霊たちの助けを借りて)犯人を殺し、家から脱出している。

じゃあ、この映画に「妹」は必要なかったのか? と問われれば、
いや、やはり必要であったと私は答える。
妹の存在が無ければ、単なる変わり種ワン・シチュエーション・スリラーの域を出なかっただろう。

閉じ込められた少年と、田舎町を自転車で走る妹。
2人の姿を交互に映すことで、この映画は視覚的な広がりを得たと思う。

原作

原作は、ジョー・ヒルの短編集「20世紀の幽霊たち」に収録されているらしい。

「20世紀の幽霊たち」は、日本語訳が出版された時に買って読んでいる。
……が、内容は全く覚えていない。
わりと面白かった、という印象だけが残っている。

この映画の公開に合わせ、タイトルを「ブラック・フォン」に変えて、別の会社から出版し直されたという事だ。

買って読んでみようか。

追記(2022.11.18)

妹について。

上の章で、私は次のように述べた。

「妹は物語の本筋に全く貢献していない」
「主人公の少年は、自力で(幽霊たちの助けを借りて)犯人を殺し、家から脱出している」

書きながら、自分自身の解釈に一抹の違和感を覚えていた。
「この映画のクリエーター達(脚本家・監督)が、そんな不自然な構造の物語を作るだろうか?」という、メタな違和感だ。

「作者の気持ちを考えよ」などという読み方を、私は好きになれない。
まずは物語を素直に楽しむべきだ。
作者の『裏の意図』を深読み(=メタ読み)するなんてのは邪道だ、と思う。

しかし今回は、私の脳内にあるメタ読み機能のスイッチが入ってしまった。

本題に戻る。
妹について、だ。

最初は、『兄が黒電話を通じて幽霊たちと話しているシーン』と『妹が予知夢を観るシーン』を交互に挿入する演出に関して、単に兄妹の絆を強調する演出だろう、くらいに思っていた。

観終わった後、ふと別の解釈を思いついた。

『黒電話が霊界通信機として機能したのは、妹の能力が『無意識に』発動し、それが黒電話に憑依していたからではないか?』

まず大前提として、「霊界の声を聴く」という巫女(=霊媒師・預言者)の能力は、母から娘へ伝えられる女系の能力であり、男子(息子)には受け継がれない、という設定がある。

これは新海誠「君の名は。」をはじめとして多くの物語に使われている設定なので、すんなり受け入れられる。

一方で、ならば何故、本来この能力を持たないはずの兄が黒電話を通じて死者と会話できたのか? という疑問が残る。

ここで私は、「兄と幽霊たちが黒電話で通信するのと相前後(あいぜんご)して、妹は夢の中で幽霊の生前の姿を見ていた」とも取れる構成に着目した。

兄と幽霊たちの通信は、妹の能力によるものではないか?

だとすれば、これは妹の無意識による作用だろう。
だからこそクライマックスまで犯人の家を特定できなかったのだ。
そう解釈すると、物語の筋が通る。

さらに追記(2022.11.18)

もっと単純に、こういう解釈もできる。

『神さま(=意思を持った超越的な善)は実在する。通常、神が人間の世界に積極的に干渉する事はないが、つねに人々の営みを暖かく見守っている』

『妹の純粋な気持ちに心打たれたのか、それとも単なる気まぐれかは分からないが、とにかく神さまは、この兄妹を霊界から援助することに決めた』

こっちの方が、シンプルな解釈かな?

全知全能であるはずの神が、全面的に人間を援助せずに(そんな事をしたら、どんな難問も一瞬で解決できてしまうのでドラマが成立しない)、そっと控えめに善人を助ける、というのも民話・伝承の定番だろう。

さらにさらに追記(2022.11.18)

全ては兄妹の妄想だった、という解釈も可能だな。

兄は兄で、妹は妹で、それぞれ別々に「自分の内なる声(ある種のイマジナリー・フレンド)と会話していただけ」という読み方も可能だ。

2022-11-18 00:14