映画「シン・ウルトラマン」を観た
映画「シン・ウルトラマン」を観た
TOHOシネマズ六本木にて。
脚本 庵野秀明
監督 樋口真嗣
出演 斎藤工 他
ネタバレ注意
この記事にはネタバレが含まれます。
ネタバレ防止の雑談(その1)
若い頃は、封切り日にワクワクしながらゴジラやガメラを観に行って、出演者や監督の舞台挨拶を楽しんだものだが、歳を取ってからは「まあ、気が向いた時に劇場に行けば良いか」と思うようになった。
ちなみに、ブログ記事のPVを上げようと思ったら、とにかく誰よりも先に観に行って、誰よりも早く記事をアップするのが良い。
これ、ブログ運営者の豆知識な。
平均1日PVが15くらいの俺が言うんだから間違いない。
今回も「来週あたりに観れば良いか」と思っていたのだが、YOUTUBE のレコメンドに「シン・ウルトラマン」の感想動画が次々に上がって来る。
それが嫌でも目に付く。
居ても立ってもいられず、封切り翌日に見てきた。
せっかくだからIMAXで観ようと思ったら、どの劇場も、どの回も、すでに満杯。
まあ、当然か。
せっかくの怪獣映画、せっかくの大スペクタクル映画だ。
なるべく大画面で観たい。
TOHOシネマズ六本木のスクリーン7に丁度いい席が空いていたので、そこを予約して観て来た。
……のだが、画質の荒さがちょっと気になった。
客席数521+2、スクリーン・サイズ 8.4m x 20.2m の大劇場・大型スクリーンで、東宝スコープならぬ「TCX」という東宝独自規格の上映システムなのだが、そのスクリーンの巨大さに映写技術が追いついていない感じを受けた。
以前はそんな風に思わなかったのだが、ひとたびIMAXだのドルビーシネマだのを観てしまうと、ちょっと差をつけられているな、と感じてしまう。
本作品の撮影にはプロ用撮影機材だけでなく iPhone なども多用されていると聞くから、劇場側の技術不足が原因と断じ切る訳にも行かないが。
元々の撮影データ自体が低解像度だったという可能性もある。
ネタバレ防止の雑談(その2)
芸術作品を「描かれている内容の面白さ」と「表現自体の面白さ」の二つの層に分けて考えてみよう。
例えば音楽なら、
「内容」とは「モーツァルト第〇〇番」の楽譜の事で、
「表現」とはその楽譜を個々の演奏者がいかに演奏するか、という事だ。
西洋絵画において19世紀半ばまでは、そこに何が描かれているかという「内容」こそが大事だった。
個々の「表現」の差は、「内容」をリアルに描く技術の差でしかなかった。
ところが19世紀に写真が発明され、絵画のリアル志向に終止符が打たれて以降、徐々に「表現それ自体」の面白さに注目が集まるようになる。
いかに純粋な表現だけで人々を驚かせ楽しませるかという方向に、画家たちの興味は徐々に移っていった。
印象派→野獣派→表現派→抽象画と、時代が下るにつれどんどん内容は薄くなり消えて行き、純粋な表現だけが残った。
「本当に面白い小説は、どのページから読んでも面白い」と言われる。
若い頃は、その意味が分からなかった。
起承転結のある物語、確固とした構成のある物語こそが良い物語だと思っていた。
ワクワクする導入部があって、楽しい旅の過程があって、困難があって危機があって、どんでん返しがあって、大団円がある小説こそが良い小説。
1ページ目から最後のページまで、ちゃんとストーリーが進んで行く小説こそが良い小説だろうと思っていた。
しかし今は「どこから読んでも面白い」の意味が分かる。
「結局、一番重要なのは文体の心地良さなんだ」と、今の私は思っている。
以上、ネタバレ防止の雑談でした。
以下、ネタバレ。
まずは感想(良かった点その1)
メフィラス星人に扮する山本耕史の怪演が素晴らしい。
公園のブランコに座って語る、壮大な宇宙国際政治談義。
機動隊に囲まれると「河岸を変えるか」と言って、居酒屋に移っての壮大な宇宙国際政治談義。
この違和感が楽しい。
おそらく、ウルトラセブン(モロボシ・ダン)とメトロン星人の有名な『ちゃぶ台シーン』からの着想なのだろうが、今回の山本メフィラスは、それを超えたと思う。
メフィラスとウルトラマン(神永)とのコントラストも素晴らしい。
公園のシーンでは、山本耕史が楽しそうにブランコを漕ぐ一方、ウルトラマン役の斎藤工は無表情で、ただ座っているだけ。
居酒屋のシーンでは、山本がパクパクとツマミを食べ、酒をグイグイ飲む一方で、斎藤はツマミにも酒にも手を付けない。(最後に一度だけ、お猪口をクィっと空ける)
終始ニヤニヤ笑いで壮大な宇宙の政治を語る山本から目が離せない。
「マスター、御愛想」
「割り勘で良いか?」
これを言っているのが実はメフィラス星人だと思うと、最高に楽しい。
まずは感想(良かった点その2)
ウルトラマンの神々しい御尊影を拝める。
敵怪獣や星人すらも、二の次、三の次。
幼き日に観た、あのウルトラマンの御姿を現代の技術で再現する、観る。
それだけでも楽しい。
こりゃ、一種のアート映画だな
庵野秀明という人は、基本的にはエンターテイナーというよりアーティストなんだな、と。
監督の樋口真嗣には、ある程度エンターテイメント志向があると思う。
ただ、そのエンターテイメント志向が、ひたすら怪獣とメカに向けられているのが弱点か。
人間ドラマを撮るのが、ちょっと不得意。
一応『シン・ゴジラ』と同様の、『大国同士の複雑な覇権争いの中で、日本はどう立ち回るべきか』というサブ・ストーリーが設定されている。
本作では、それに加えて、さらに上の層に『宇宙の先進国である星人同士の覇権争いに巻き込まれる未開民族・地球人』という、同様の構造を設定している。
「国際的な政治力学に翻弄される日本」と「宇宙の政治力学に翻弄される地球」の入れ子構造になっている訳だ。
最後に地球の国々がエゴを捨てて一致団結し、日本が音頭を取る形で叡智を結集して困難を乗り越えるというラストも『シン・ゴジラ』に近い。
とはいえ、全体を貫通して真っ当なストーリーを語る意思は、希薄だ。
ストーリーなんて、どうでも良い。
ひたすら、あるべきウルトラマンの姿を大画面に焼き付けたいという、『ウルトラマン表現』に特化した映画。
内容(ストーリー)を追ってはいけない。
表現(ウルトラマン)だけを無心で楽しめ。
一種のオムニバス映画
昔、初代ウルトラマンの実相寺昭雄監督エピソードだけを詰め合わせて2時間の劇場版にした映画があった。
本作『シン・ウルトラマン』は撮り下ろしでありながら、その構成を真似ている。
もちろん意図的に、だ。
そういう構成も含めての『初代ウルトラマンの再現』だ。
この映画が、初代ウルトラマン実相寺詰め合わせ映画を真似た『擬似オムニバス』スタイルだとして、じゃあ、個々のエピソードは何かといえば、これも往年の『空想科学』の再現だ。
『科学』と銘打ちながら、実際には科学的というよりは空想的だ。
一種の寓話、ファンタジーと言った方が相応しい。
そういう寓話的な話作りで表現したかったのは、1960年代のレトロ感だろう。
1950年代にアメリカのSF雑誌で活躍した短編作家たち(ブラッドベリ、フレデリック・ブラウン、若き日のP・K・ディックなど)が書いた、SF的というよりは寓話的な短編作品の数々、そのテイストをテレビに持ち込んだ『トワイライト・ゾーン』、その日本版を目指して作られた『ウルトラQ』、それに続く『ウルトラマン』の雰囲気を、話作りに於いてもマネしたかったのだと思う。
1950年代〜60年代的な「センス・オブ・ワンダー」
藤子不二雄が言うところの「少し不思議」な物語だ。
話運びも意図的にレトロ
例えば、現代の感覚からすると、ザラブ星人にしろメフィラス星人にしろ、禍特隊本部に現れるその登場のさせ方が、あまりに唐突すぎる。
いかに宇宙人だからと言って、こんな前振り無しの唐突な登場は、現代の作劇法に於(お)いては絶対に許されないだろう。
しかし昔の子供向け『空想科学』30分番組では、当たり前に起きていた飛躍だ。
そういう飛躍や、話運びの雑な感じも含めて、レトロ・テイストを狙っている訳だ。
隊長役の西島秀俊が妙に無表情でセリフが棒読みだったのも、おそらく意図的なものだ。
昔の映画を観ると、セリフの発声方法が現代とは全く違う事に気づく。
今回の西島の発声は、それに倣(なら)っているのだと思う。
昔のウルトラマンも、個々の話自体は大したことなかった
初代ウルトラマンを改めて観れば分かるが、個々のエピソードは必ずしも良質な物ばかりじゃなかった。
子供心をくすぐられる楽しさは有るにせよ、たわい無いB級SF的なエピソードが多い。
その、たわい無さ・B級感も含めて、『シン・ウルトラマン』は原作の忠実な再現を目指している。
ここまで書いて、急に気づいた。
ああ、そうか……これは庵野秀明と樋口真嗣にとっての『マーズ・アタック』か。
バットマンで一躍売れっ子監督になったティム・バートンが、そのご褒美にワーナーに作らせてもらった個人趣味全開の映画。
そう言われてみれば、困惑顔で劇場を後にする感覚は、あの時の『マーズ・アタック』に近い。
人間ドラマの演出に、締まりが無い
あえてレトロを狙った演出は、良しとしよう。
実相寺オマージュの、物の隙間から人物を覗くようなカットもいいだろう。
それにしても『シン・ゴジラ』に比べ、カメラのアングルやカットの秒数に、緩さが感じられる。
『シン・ゴジラ』最大の魅力は、ミリ単位で追い込んだ(ように思える)カメラ・アングルと、1コマ単位で追い込んだ編集にあると思う。
本作は、その『シン・ゴジラ』に比べると、アングルにせよ編集にせよ、かなり締まりが悪く、雑だ。
『シン・ゴジラ』と似たような事をしているだけに、その落差が歴然としていて、残念だった。
メフィラス星人とゼットン
メフィラスとゼットンのデザインは、ちょっと頂けない。
ひと昔まえの流行だ。
成田デザインを忠実に再現したウルトラマンとのバランスが取れていない。
ウルトラマンの掛け声
あの有名な「デァーッ」という掛け声が無かった。
まあ、判断はそれぞれだろうが、私なら掛け声も再現するかな。
困惑
いつも通り、家に帰ってからネット上で感想記事を漁った。
毀誉褒貶いろいろな記事が投稿されているが、本作品に関して、困惑している人も多かった。
呆然として気持ちの整理がつかない、というか。
彼らと同様、映画館を後にする私の心の中にも、
「肯定も出来ないし、否定も出来ない」
という複雑な感情が湧き上がっていた。
やっぱり『内容』も大事なのかな
上で述べたように、最近の私は、芸術作品を鑑賞するとき『内容』より『表現』を大事にしている。
例えば、最近ハードボイルド小説を読んでいるのだが、ハードボイルドは古典的な推理小説と違い、淡々と話が進んで行く。
複雑なトリックがある訳でもなく、大きなドンデン返しがある訳でもなく、ただ淡々と探偵の捜査が進む。
起承転結が曖昧で、ストーリーの起伏に乏しいハードボイルドの何が良いかと言えば、描写だ。
ハードボイルドとは、ひたすら描写を楽しむジャンルだ。
『シン・ウルトラマン』を、ひたすらウルトラマンの御尊顔を愛でる映画だと思えば、悪くない作品だと思う。
ウルトラマンという美しいオブジェをいかに表現するか・描写するかに、ひたすら全振りした映画として、とても良く出来ている。
そういう意味では、私も大いに楽しんだ。
しかし一方で、映画館を出たとき何だか物足りない気持ちになったのも事実だ。
年に映画を何百本も観る映画マニアや業界関係者は忘れているのかも知れないが、『映画館へ行く』という行為は、一般の人々にとっては『お出かけイベント』だ。
前日におやつを買う所から遠足のワクワクが始まっているように、映画体験は前日に座席をネット予約した所から始まっている。
そして当日の朝、友人や恋人と待ち合わせをして、電車や自動車に乗って繁華街やショッピング・モールのシネコンへ行き、ポップコーンやコーラを買い、座席につく所も含めての映画体験だ。
大きな期待を胸に人は映画館に行くのだから、それに相応しい濃厚な映画体験が無ければ失望してしまう。
観客の期待に応えるのも、エンターテイメント産業たる映画業界の役目だろう。
では観客は何を期待して映画館に行くのか?
おそらく『感情』だ。
スカッとする、楽しい、嬉しい、ハラハラする、ドキドキする、恋をした気分になる、怒る、悲しむ、怖がる。
この感情の揺れを求めて人は映画館に行く。
そして、その感情をコントロールするためには「ストーリー」が必要だ。
ストーリーが無ければ、観客は感情の拠り所を失う。
純粋な「表現」だけでは、アートたり得たとしても、エンターテイメントたり得ない、という事か。
美術館の展示なら良い。
ウルトラマンの美を愛でるだけで満足できる。
映画館で上映するなら感情が必要だ。
感情を励起するためには、起伏のあるストーリーが必要だ。
『シン・ウルトラマン』には、それが無い。
だから、今いち食い足りない。
結論
- 山本耕史、最高。
- ひたすらウルトラマンを愛でるだけのアート作品としても、最高。
- 映画体験としては薄い。食い足りない。ストーリーが細切れで起伏に乏しく、感情が揺さぶられない。
これが美術館で開催された『シン・ウルトラマン展』だったら、充分に満足できただろう。
映画館で上映された劇映画としては、物足りない。
映画館を出るとき「いま観たのは美術作品、いま観たのは美術作品」と自分に言い聞かせると良いかも知れない。