青葉台旭のノートブック

映画「THE BATMAN -ザ・バットマン-」を観た

映画「THE BATMAN -ザ・バットマン-」を観た

TOHO シネマズ新宿にて。

公式ページ

脚本 マット・リーヴス、ピーター・クレイグ
監督 マット・リーヴス
出演 ロバート・パティンソン 他

通常版とIMAXレーザー版のどちらにしようか迷ったが、今回はIMAXレーザー版で鑑賞することにした。
ズーンという重低音が雰囲気を醸し出していて良かった。

ネタバレ注意

この記事にはネタバレが含まれます。

ネタバレ防止の雑談

いわゆるアメコミ映画は、私の得意分野じゃないと思う。

今までに観た劇場用長編映画を思いつくまま列挙してみる。

  • クリストファー・リーヴ主演のスーパーマン1〜4(1〜3はテレビのロードショー番組で、4は映画館で観たと記憶しているが、もう詳しい内容は忘れてしまった)
  • ティム・バートン監督のバットマン1〜2
  • シューマッカー監督のバットマン(第1作のみ)
  • サム・ライミ監督スパイダーマン三部作
  • アメージング・スパイダーマン(第1作のみ)
  • キャプテン・アメリカ(第1作のみ)
  • アベンジャーズ(第1作のみ)
  • バットマンVSスーパーマン
  • ノーラン監督のバットマン三部作
  • ニンジャ・バットマン(Netflixアニメ・日本製)
  • ジョーカー
  • ウォッチメン

これくらいだろうか。
それから、アメコミ原作ではなく映画オリジナルだが「ダークマン」とか「ロボコップ」とか「アンブレイカブル」なんかも、広義のアメリカ産ヒーロー映画になるかも知れない。

幼稚園〜小学校時代の私はテレビっ子だったから、1970年代に大量に作られた日本の子供向けテレビアニメ・特撮を浴びるように観ていた。
私が好きだったアニメ・特撮番組のジャンルは、以下の3つだった。

  1. 巨大ロボットもの(マジンガーZなど)
  2. 等身大ヒーローもの(仮面ライダーなど)
  3. 巨大ヒーロー/怪獣もの(ウルトラマンなど)

今でも、この3つのジャンルに関しては良く考える。
この3つのジャンルに関して、いずれ何らかの形で答えを出したいと思っている。

巨大ロボット、変身ヒーロー、怪獣、この3つに共通する特徴は何だろうか?
それは「存在自体の馬鹿馬鹿しさ」だ。

これら3つのジャンルの主役たち(巨大ロボ・変身ヒーロー・怪獣)について考えれば考えるほど、それらが如何(いか)に非現実的で馬鹿馬鹿しい存在かを思い知らされる。

上記3つのジャンルで物語を作ろうとしたとき『ジャンルの現実感の無さ・馬鹿馬鹿しさとどう向き合うか?』が、重要なキーポイントになるかも知れない。

代表的なアプローチは二つあると思う。

1つは、リアリティの無いものに強いてリアリティを与えるため、世界観や設定を徹底的に大真面目に作り込む方法。
2つ目は、「細けぇ事は良いんだよ! あたま空っぽにして楽しめよ」と開き直る方法。

巨大ロボットものを例に取ると、前者が「リアル・ロボットもの」で、後者が「スーパー・ロボットもの」だ。

以上、ネタバレ防止の雑談でした。

以下、ネタバレ。

結論

良い点・悪い点の両方がある映画だった。
私は充分に満足できた。
プラス・マイナスで言えば、プラスの方が大きかった。

良かった点

画面から醸(かも)し出される暗くカッコ良い雰囲気。これに尽きる。

やっぱり私が好きな変身ヒーローの路線は、こっち方面だなと改めて自覚した。

ひとことで言えば『ホラー風味・怪奇風味の変身ヒーロー』だ。

初代仮面ライダーをアマゾン・プライムでポツリポツリと観ているのだが、その怪奇趣味の色濃さにちょっと驚いた。
驚くと同時に「そうだよ、このムード、このテイストだよ」と、幼き日の私が変身ヒーローの何処(どこ)に魅かれていたかを思い出した。

日本の変身ヒーローの歴史を紐解いて行くと、幾つかの源流があると分かる。
戦前から戦後にかけて書かれていた江戸川乱歩の『明智小五郎/少年探偵団』物も、その1つだ。
怪奇趣味は、その頃からの伝統だ。

話を本作「ザ・バットマン」に戻す。

本作の素晴らしい雰囲気を言葉で表すと、

  • 1970年代アメリカン・ニューシネマ的な都市の荒廃感
  • バットマンが本来持っていた怪奇趣味・ゴシック趣味・ホラー趣味

以上2つの掛け合わせだと思う。

本作の雰囲気を、もっとダークに、もっとホラーに、もっと怪奇趣味に振ったような変身ヒーローこそが私の求めているものなのだなと、この映画を観て自覚した。

悪かった点

話づくりは雑だと思った。

バットマンとリドラーの頭脳戦が、稚拙で雑だ。

この映画のレビューをネット検索すると、しばしば「3時間は長すぎる」という意見に出会う。

私は3時間という絶対的な長さが問題なのではないと思う。
問題なのは「3時間を長いと感じさせてしまう話運びの不味(まず)さ」だ。

良くもあり、悪くもあった点

これは良し悪し半々なのだが、とにかく全編ずっとクライマックスのようなカッコ良い映像が続く。

そのカッコ良い映像に当てられて中盤まではワクワクと胸踊らせながら見ていたのだが、さすがに中盤以降、段々と飽きが来てしまった。

やっぱり緩急は大事だな、と。

雑感

以下、思いついた事を順不同でつらつら書き連ねる。

連続猟奇殺人ものとしては、描写が控えめ

連続猟奇殺人ものとして見た場合、殺人シーンが暗闇、遠景、間接描写に終止していて物足りなかった。

殺人の直接描写が無い。

なぜかと言えば、これがスーパーヒーロー映画で、かつ、多量の資本を注ぎ込んだブロックバスター映画だからだ。

春休みのチビッ子たちにも観に来て欲しいから、全年齢対象にせざるを得ないという縛りが発生する。

まあ仕方のない所だろう。

最初から最後までバットマン

問い:仮面ライダーの見せ場は何だ?
答え:変身シーン

本作では、バットマンが最初から最後まで、ずーっとバットマンだ。

だから変身ヒーローものの見せ場である「変身する」という行為が無い。
別に、ポーズを取ってベルトの風車を回せとは言わないが、お坊っちゃんブルースが闇の騎士バットマンに切り替わる象徴的なシーンは必要だと思う。

最初から仮面ライダーが仮面ライダーの姿で活躍する『仮面ライダー』なんて有り得ない。
最初からウルトラマンがウルトラマンの姿で活躍する『ウルトラマン』なんて有り得ない。

ところが本作では、バットマンが最初からバットマンの姿のまま、いきなり犯罪捜査を始める。
警官に混じって殺人現場に行き、堂々と正面玄関からナイトクラブに入り、ヤクザの親分と直談判する。
それは無いだろうと思う。

『なぜ変身ヒーローは変身するのか?』
この問いに対する答えが、私の中で明確になった。
逆説的に、本作が教えてくれた。

第1にはギャップの快感、いわゆる『ギャップ萌え』だ。
変身前と変身後の落差が快感となり、観客は『いよっ、待ってました』と喝采する。
『変身』が担っているこの機能については、以前から気づいていた。

そして今回バットマンを観て、『変身』の第2機能に気づいた。
『スーパーヒーローの姿のままでは、人間ドラマが成立しづらい。とくにシリアスな会話劇を失笑を買わずに成立させるのは非常に困難』
という作劇上の問題を解消する機能だ。

一般的なヒーロー物では、主人公は上映時間の8割方を人間の姿で過ごし、人間の姿のままドラマ・パートを消化し、要所要所のアクション・シーンのみヒーローに変身する。

本郷猛もハヤタ隊員も、ギリギリまで変身しない。
生身の人間の姿のまま地道にコツコツ捜査を重ね、最後の最後、強力な敵ボスが現れて初めて、
「いよいよ真打ちの登場って訳か……ならば、こっちも本領発揮だ」
とばかりに風車ベルトやベータカプセルを見せる。それでこその変身ヒーローだ。

ひとことで言うと、
「会話劇は変身前に済ませておけ。変身後は格闘アクションに集中しろ」

洋の東西を問わず実際にスーパーヒーローを作っている現場のクリエーター達がこの事に気づいてくれたらなぁ、と思う。

ただし、例外もある。
今回、キャットウーマンことセリーナは、最後の最後までバットマンの正体を知らずに別れた。
それが二人の関係とラスト・シーンを爽やかにしたと思う。
セリーナにとってバットマンが謎の男のままでいるためには、彼女の前でブルースは仮面を脱げない。
これは仕方のない所だろう。

二人の会話劇が、犯罪現場検証シーンに比べて違和感が無かったのは、いつも人知れない空間で二人きりで会っていて、その瞬間だけリアリティのレベルに齟齬が無かったからか?
二人の間に適度な距離感があったから?

ヒーローが出ずっぱりである事の弊害をもう1つ。
「飽きる」

前項で書いた「ずっとクライマックスだと飽きる」に通じる話だが、最初から最後までバットマンの姿だと、観ている我々の感覚もだんだん麻痺してくる。

むしろブルース・ウェインが私服のままバイクに乗ってセリーナを追いかけたり、私服のままナイトクラブに潜入するシーンの方をカッコ良く感じてしまったくらいだ。

キャット・ウーマンのマスク

こそ泥キャット・ウーマンのマスクが目出し帽、という解釈は良いと思う。

目出し帽である事それ自体は良いのだが、「あのデザイン、何かに似ているなぁ」と気になった。

あ、これ、ねずみ小僧次郎吉だよ。
よりによってキャット・ウーマンなのにマウス・ボーイかよ。

そう気づいて以降、バットマンが大勢の警官隊に囲まれるシーンが出て来るたびに『御用だ、御用だ』という岡っ引の声が脳内に響いて困った。

バットマンのスーツ

バットマンのマスクとスーツに関しては、今回の物が一番好きだ。

まず素直に歴代バットマンの中で一番カッコ良いデザインだ。

それから今回のスーツは、過去のスーツに比べて明らかに関節の可動域が広い。
だからアクション・シーンがカッコ良い。

あえてストロークを長くとった大振りなパンチを『ドスッ、ドスッ』と相手に叩きつけるアクションが今回の特徴なのだが、これも関節の可動域を大きくしたスーツが有ればこそだろう。

マスクも今までのバットマンの中で一番スリムに見えるのだが、あれはマスク自体の厚みをギリギリまで削ぎ落としているからだろうか? それとも、俳優の骨格が元々スリムなのだろうか?

ちなみに初代ウルトラマンのマスクは可能な限り小顔に見せるため、装着したスーツ・アクターが息をするのも困難なほどキツキツに造られていたらしい。

俳優といえば、今回のバットマン/ブルース・ウェインはイケメンやなぁ。
ロバート・パティンソンって、なんか熊のヌイグルミっぽい名前だなと思ったら『ライトハウス』の若い方か。
『ライトハウス』の時は汗臭そうなモモヒキ兄ちゃんの役だったが、やっぱ俳優って役によって変わるんだな。

無精ヒゲのバットマンというのも、なかなか味わいがあった。

手のひらがスタンガンになっているというのは良いアイディアだ。

胸のマークがバット・ラング(ブーメラン)というのは、意見の分かれる所だろう。

マントがウイング・スーツになるというギミックも意見の分かれる所だろうが、私は「なるほど確かに」と思った。
マントの揚力で滑空したければ、理にかなっているのは今回の飛び方だろう。

車がカッコ良い。

今回のバットマンは、自動車もバイクもリアル寄りだった。
そこに好感を持った。

バイク

本作に限らず、毎回バットマンを観るたびに思うのだが、マントを着けてバイクに乗るのは止めてほしい。
危なっかしくて、見てられない。

別に無理してバイクに乗らなくても……などと私は思ってしまうのだが、ダークナイト=騎士=馬に乗っているイメージなのだろうか?

ネットでレビュー記事を漁ると『バイクが格好悪い』という意見をチラホラ見かけるが、バイク乗りなら、あの格好良さが分かると思う。

あれは、超未来スーパーメカとしての格好良さじゃなくて、1970年代クラシック・バイクの格好良さだ。

バット・モービルも同様だ。
あれは超未来スーパーメカではなく、1970年代V8アメリカン・マッチョ・カーの発展型だ。

もちろん、これら登場メカのクラシカルな雰囲気は、今回の世界観である、
『1970年代の荒廃したアメリカの都市+ゴシック・ホラー』
に合わせたものだ。

アーカム

バットマンに関してウェブ検索すると、かなりの頻度で「アーカム」という言葉に行き当たる。

とくに「アーカム・アサイラム」の名前をよく目にする。
日本語に訳すと「アーカム精神病患者収容所」という意味か。

今回も、アーカム家およびアーカム精神病院の名が登場した。

アーカムというのは、ホラー作家ラブクラフトの『クトゥルー神話』に出てくる架空の地名だ。

バットマンの世界観はクトゥルー神話と繋がっている、という設定なのだろうか?
偶然だとは考えづらいのだが。

地名と言えば、ゴッサム(Gotham)の語源はゴシック(Gothic)だと思う。

やはり、バットマンとゴシック趣味・ホラー趣味・怪奇趣味は、切っても切れない関係にあるという訳か。

小さな物語から大きな物語へ

最近の記事で、私は以下のような事を繰り返し書いて来た。

「現在のスーパーヒーロー物の主流は『大きな物語』だが、私個人は『小さな物語』としてのヒーロー映画を観たい」

国家存亡の危機といった『大きな物語』ではなく、個人的な動機からギャング団のボスを追い詰めるだけの『小さな物語』を観たい。

今回のバットマンは往年の犯罪映画のテイストで最後まで行くのかな? と期待した。

しかし、期待通りには行かなかった。

ギャング団のボス、ファルコーネを捕まえて一件落着、と思いきや、ここで唐突にゴッサム・シティ全市を巻き込んだ大スペクタクル=大きな物語に、風呂敷が広がってしまった。

近年のバットマン映画(ダークナイト・シリーズ)は以下のような構造を持っている。

  1. 心を閉ざした王子様が、
  2. 悪者を追いかけて街を彷徨(さまよ)う事で、
  3. 悲惨で矛盾に満ちた王国の現実を知り、
  4. 王の後継者として自分に課せられた使命を受け入れて、
  5. 臣民の前に姿を現し、自ら模範を示す事で、
  6. 彼らを鼓舞し勇気づけながら、良き方向へ導いて行く

本作品も、この構造を忠実に倣(なら)っている。
思った以上に、『ダークナイト・シリーズ』の血を色濃く受け継いだ後継者であると分かる。

ネット上では本作品のキャッチコピーが、「まるで『ジョーカー』の続編であるかのような誤解を与える」と批判されているらしい。

実際、映画を観れば分かるが、類似性に関して言えば『ジョーカー』というより、まるで『ダークナイト・シリーズ』の生き別れた弟のような作品だ。

それはそれで一本筋が通っているから、決して間違いじゃない。
いや、むしろ、そっちが正解なのだろう。

私自身は、大スペクタクルじゃない小ぢんまりとしたスーパーヒーロー物を観てみたい。

なぜ、アメコミ・ヒーローは『大きな物語』を描きがちなのだろうか?
国家の存亡をかけた大スペクタクルになりがちなのだろうか?

ひょっとしたら、アメリカには怪獣映画が存在しないからではないか?
という仮説を立ててみる。

怪獣映画を要素分解すると、
「強いキャラクター+大スペクタクル絵巻」
になる。
ここで言う「強いキャラクター」とは、物理的な力が強いという意味ではなく、強烈なキャラクター性を持って物語の中心になる存在、という意味だ。

もちろん、アメリカにも、巨大災害や世界大戦を扱った大スペクタクル映画は無数に存在する。
しかし『怪獣』に匹敵する強いキャラクター性と大スペクタクルを両立させた映画は、ほとんど無いと思う。

その代わりに、という訳でもないだろうが、日本の怪獣に相当する存在として、アメコミ・ヒーローやヴィランを主役に据えた大スペクタクル絵巻が作られているのかも知れない。

大いなる力には、大いなる責任が伴う

アメコミ・ヒーロー映画が最終的に『大きな物語』に発展する理由は、それらが『ノブレス・オブリージュ』(高貴な者の責任)にまつわる物語だからかも知れない。

いや、アメコミだけでなく、また洋の東西に関わらず、古代より語り継がれてきた神話伝承を含め、広く大衆に支持される物語は、結局のところ『高貴な者よ、責任を果たせ』というテーマの下にあるのかも知れない。

つまり、
『高貴なる星の下に生まれた王子よ、心身ともに健全な大人に成長し、悪いドラゴンを倒して王国に平和をもたらし、良く領土を統治して臣民の支持を得よ』という話だ。

『高貴な星の下』は、必ずしも王家や貴族の家系だけを指すものではない。

現代の物語において主人公に与えられた属性は、

  • 突然変異したクモに刺されて超能力を身につけた平凡な高校生
  • 田舎の善良な農家夫婦に育てられた宇宙人
  • 天才科学者
  • お金持ちの息子

など、さまざまだろう。

いずれにせよ共通するのは『選ばれし者』である点だ。物語の主人公なんだから当たり前だ。

「物語の主人公よ、
 あなたは私より高い地位にある。
 あなたは私より豊かに暮らしている。
 あなたは人々の注目を一身に集める。私は誰からも顧(かえり)みられない。
 それらに不満を述べたい訳ではない。
 あなたは『選ばれし者』であり、私は選ばれなかった大勢の一人に過ぎない。
 物語の主人公よ、決して忘れるな。
 選ばれし者としての責任を。
 選ばれなかった我々全員に対し、大きな責任を負っている事を。
 その責任を果たせ。
 社会を良き方向へ導け」

これが、大衆芸術を消費する人々の切なる願いだろう。

「俺は俺、お前はお前。それぞれ好きに生きれば良い。個人主義で行きましょうや」
こんなセリフは、選ばれなかったその他大勢の大衆なら、まあ許されるかも知れない。

しかし物語の主人公・選ばれし者が、こんなセリフを吐くことは許されない。
例え物語の冒頭でこんな態度を取っていたとしても、どこかの時点で修正されなければいけない。
なぜなら主人公には、選ばれし者には、それ相応の社会に対する責任があるからだ。

残念ながら現実世界の上流紳士淑女の中には、自らの責任を全うしない者が居る。
上流社交界の中だけで綺麗事を並べ、下々(しもじも)の現実を見ようとしない人々だ。
あるいは私利私欲に走り、悪徳に手を染め、汚職に塗(まみ)れる者も居る。

だから物語には、主人公に対する悪しき反面教師として『王の偽者(にせもの)』が現れる。
正統な王として『偽の王』を倒すのも、主人公に課せられた責任だ。
正統な王である水戸黄門は、偽の王である悪代官や悪徳商人を必ず倒さなければいけない。

まとめ

おさらいしよう。

ダークナイト・シリーズ、そして本作品は以下のような物語だ。

「ゴッサム・シティという王国の王子ブルース・ウェインが、先王亡きあと自ら立派な国王として『立ち上がる(ライジング)』物語」

では、王の最も重要な職務とは何だ?

自ら銃を持って最前線に立つことか?
いや、違う。

自ら路地裏を這い回ってチンピラを殴ることか?
いや、違う。

王の義務とは、ただ一つ。
「多くの国民が見守る中、自らその姿を民衆の前に現し、その立ち居振る舞いでもって、いま国民が為すべき事を体現し、あるべき国の姿を体現する事」だ。

王とは、まさに「あるべき国の象徴」であり「あるべき国民の象徴」だ。

闇の象徴だったバットマンが、王の責任を自覚して、ゴッサム・シティという国の良き象徴として立ち上がる。

ダークナイト・シリーズのバットマンとは、そういう物語だ。

本作品も、突き詰めればそういう物語だ。

実際には、せいぜいバットマンの領地はゴッサムという地方都市1つに過ぎず、その意味で彼はキング(国王)というよりはナイト(荘園領主)なのだろうが、いずれにしろ上記のような構造の物語だ。

……あれ? という事は……
「地方領主(ナイト)であるバットマンとその領民たち(ゴッサム市民)が、所属する王国(アメリカ合衆国)の王(アメリカ大統領)に反旗をひるがえす」
っていうストーリーも、あり得るんじゃね?

2022-03-31 20:29