映画「ウォッチメン」を観た
映画「ウォッチメン」を観た
Netflix にて。
脚本 デヴィッド・ヘイター、アレックス・ツェー
監督 ザック・スナイダー
出演 ジャッキー・アール・ヘイリー 他
ネタバレ注意
この記事にはネタバレが含まれます。
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ひとこと感想
ロールシャッハが際立っていた。
私は前の記事で、
「現在のスーパーヒーロー物の主流は『大きな物語』だが、私個人は『小さな物語』としてのヒーロー映画を観たい」
という趣旨を書いた。
本作品も例に漏れず、人類の存亡をかけた『大きな物語』だ。
唯ひとり、ロールシャッハだけが最初から最後まで一貫して個人の動機だけで行動していた。
まるでハードボイルド小説の主人公のようだ。
その潔(いさぎよ)さが気持ち良かった。
とくに、映画の最後でロールシャッハが「俺を殺せ」とドクター・マンハッタンに対して言うシーンには心を動かされた。
中盤の、刑務所でのタフガイっぷりもカッコいい。
ロールシャッハの『ハードボイルド感』に焦点を当てたヒーロー映画があったなら、ぜひ観たいと思った。
設定に関して
映画を観たあと、いつものように本作品に関して調べてみた。
どうやらドクター・マンハッタン以外のヒーロー達はスーパーパワーを持たない生身の人間らしい。
では、オジマンディアスの『弾丸よけ』能力も、スポーツ選手や武道家のように肉体の鍛錬によって獲得した『通常能力』なのだろうか?
そこまで人間離れした能力は、何であれ『スーパーパワー』の範疇だと思うのだが。
過去回想
登場人物全員の過去回想シーンをいちいち丹念に入れ込むのは、いかがなものか。
映画業界は、そろそろ過去回想シーンに頼らない人物描写の方法を考えた方がいい。
過去シーンが入ると、物語の切れ味が鈍(にぶ)る。
ちょっと前の最先端
この作品の大枠は『もし、アメリカ現代史の中にヒーローが実在していたら』という、歴史改変されたパラレル世界だ。
歴史改変の違和感を強調するためか、あるいは「そもヒーローとは何ぞ?」という自己言及(メタ)視点を強調するためなのか、本作品のヒーロー・コスチュームは、意図的に『はずしたデザイン』になっている。
端的に言って「微妙にダサい」
微妙にカッコ悪いコスチュームのヒーローたちが大真面目に会話する様子を見て、思わず苦笑してしまった。
いや、作り手の狙いは理解できる。
ヒーローの見た目が多少カッコ悪くても、スタイリッシュなカメラ・ワークを使った力技(ちからわざ)で押し切れると踏んだのだろう。
1990年代に若き日の庵野秀明らが得意とした「ギャグすれすれのカッコよさ」というやつだ。
しかし流石に、まっ青な全裸フリチン男とハイレグ姉ちゃんのキス・シーンとか、パチもんバットマンとパチもんエジプシャンの大真面目な政治論争とかは、一線を越えていると思う。
いかにスタイリッシュに撮影しようとも、変なコスチュームが目立ち過ぎてギャグにしか見えない。
とてもじゃないが、シリアスなドラマには感じられない。
そもそも、スローモーションとCGを多用した『スタイリッシュさ』自体が、今となっては10年以上まえの流行に感じる。
これ見よがしで、古くさい。
ヒーローにコスチュームは必要か?
もし仮面ライダーが『仮面』を被っていなかったら、もし仮面ライダーが『変身』しなかったら、それを仮面ライダーと呼べるだろうか?
もちろん考えるまでもなく、そんなものを仮面ライダーとは呼べないだろう。
いくら本郷猛が超人的な能力を発揮しようとも、着ているのがユニクロのパーカーじゃ、彼を仮面ライダーと呼ぶわけにはいかない。
やはりスーパーヒーローには専用のコスチュームが必要なんだな、と、この映画を観ながらボンヤリ考えていた。
しかし、あまりにケバケバしかったり違和感のあるコスチュームも考えものだ。
その辺のバランスが難しい。