青葉台旭のノートブック

ドラクロワ「民衆を導く自由の女神」について

まさか山田五郎がYouTubeチャンネルを開設しているとは思わなかった。

YouTubeチャンネル

山田五郎といえば、我々の世代にとってはタモリ倶楽部のお尻評論家だが、このYouTubeチャンネルは『炉端で大学生の孫娘に昔話を語るお爺ちゃん』みたいな感じだった。

その山田五郎チャンネルにあった「民衆を導く自由の女神」の回を観て、目から鱗だったので記す。

YouTube動画

自由の女神

以前から私は不思議に思っていたのだが、ニューヨークにある「自由の女神」は、なぜ(日本語で)「自由の女神」と呼ぶのか?

英語では『Statue of Liberty』
直訳すると『自由の像』
どこにも『女神』という要素が無い。
もちろん、実物を見れば確かに『女神像』なんだから、意訳して『自由の女神』で問題ない訳だが……じゃあ、逆に、なぜ元の英語が『Goddess of Liberty』じゃないのか?

山田五郎の動画を観ているうちに、これが『Statue of Liberty』である理由が分かった。

ああ、なるほど、これは『概念のキャラクター化』だから、単に『Liberty』だけで表されているのか、と。

概念を萌えキャラ化したものだから、概念を表す単語それ自体が、キャラの名前になっているんだ。

キャラの名前だから”The”などの冠詞も必要ない。

要するに彼女の名前は『リバティちゃん』だから、ニューヨークにあるのは『リバティちゃんの像』だから、『Statue of Liberty』で正しい訳だ。

さらに、山田五郎の動画を観ていて、この『自由』という概念を萌えキャラ化した『リバティちゃん』には、別の名があると学んだ。

その名も『マリアンヌ』

なんでマリアンヌという名前なのかは分からないが、とにかくこの『自由という概念をキャラ化』した女性は、マリアンヌという名前で呼ばれている。

そして、この『自由という概念の擬人化=マリアンヌ』は、読みひと知らずのパブリック・ドメイン(公的所有された著作物)だから、フランス人なら誰でも二次創作して良い、と。
ちなみに、ニューヨークにある自由の女神も、フランス人が作ったものだ。

神には神のルール。人には人のルール。

ここからが本題。

私が山田五郎の動画を観て、何にハッとさせられたのか、という話。

まず、本動画の題は「なぜ丸出し?『民衆を導く自由の女神』ドラクロワ」だ。

ドラクロワの絵の真ん中でフランスの三色旗を振っているのが自由の女神(またの名をマリアンヌ)である事は大前提として、なぜ、彼女はオッパイをモロ出ししているのか?

山田によれば、以下のような理由らしい。

「伝統的なヨーロッパ絵画に於(お)いて人間のヌードを描く事はタブーだったが、神々(神話的人物)を描く場合にはヌードが許されていた」

ギリシャ・ローマ時代の彫刻の多くは神々や神話的英雄を表したものであり、彼らは皆な裸体で表現されている。
それを範としたヨーロッパの伝統的絵画でも、神話的人物を描くときに限りヌード表現が許されていた。

やがて時代が下ると、それまで『神話的人物なら裸を描いてもOK』だったのが逆転して、『裸で描かれているのだから、この人物は神様に違いない』という受け取られ方になった、と。

だから、ドラクロワの絵に出てくる女性が庶民的なスカートを履いていようとフリジア帽子をかぶっていようと、とにかく上半身裸でオッパイ丸出しなのだから、彼女は女神様なんだよ……こういう認識が、芸術の作り手と受け手の間で広く共有されていた、と。

つまり、こういう事だ。

そのキャラクターが人間なのか神なのかで、受け手側のモードが変わる。ゲームのルールが変わる。

好景気なら悲劇を、不景気なら喜劇を。

私は『リビング・デッド、リビング・リビング・リビング』で、登場人物に『景気の良い時代には、人々は重厚な悲劇を求める。逆に、景気の悪い時代には、人々は気軽に楽しめる喜劇を求める』 といった趣旨の事を喋らせた。

これはフィクションのセリフだが、私自身の肌感覚として、確かに(現実社会でも)こういう傾向は有ると思う。

そして、ミクロ的視点で見れば景気の良い年も景気の良い業界もチラホラと有るのだろうが、全体の傾向をマクロで見たとき、日本や世界を取り巻く状況を楽観している人は少ないと思う。

現代の人々は、たとえ今月の収入が多少増えたとしても、何か漠然とした不安を抱えながら日々を過ごしているように思える。

だから、せめてエンターテイメントの中だけでも気軽に楽しめてワッハッハと笑えるコンテンツを消費したい、と思っているのではないだろうか?

実際には、重厚長大な悲劇的物語も、それなりに需要がある。

しかし、実際にエンターテイメント業界を見回してみると、必ずしも喜劇ばかりが流行している訳でもない。

重厚長大で壮大な悲劇的コンテンツもしばしば製作され、中には大ヒットを飛ばしている物もある。

これは、どういう事だろうか?

ここで私が思ったのは、前述の山田五郎の動画で知った『人々を描いた絵と、神々を描いた絵では、鑑賞する側の受けとめ方が違う』という法則だ。

今ここに、現実世界で傷つき疲弊した一人の男が居たとしよう。
彼は、こう思う。
「現実世界は辛く厳しいものなのだから、せめてフィクションの世界くらいは、明るく楽しいものであって欲しい。フィクションの世界に浸っている時まで、辛く厳しい現実を突きつけられるのは真っぴら御免だ」と。

しかし、その『辛く厳しい物語』が、現実の自分に近い人々の身に起きた事ではなく、天上の神々に起きた悲劇だったら、どうだろうか?

それを鑑賞する人間の心には、むしろある種の『高揚感』が発生し、それは『癒し』にさえ成り得るのではないだろうか。

それは何故か?

おそらく、人々が芸術作品を鑑賞するとき、『人の物語』と『神の物語』とでは鑑賞者の心の中で発動するルールが違うからだ。

2021-04-09 10:27