青葉台旭のノートブック

日記のような小説、小説のような日記

日記のような小説、小説のような日記

12月4日(金)

久しぶりの日記。
前回が11月26日だから、1週間以上の間が空いてしまった。
今日から再び毎日つけようと思う。
どんな些細な事でも良いから書いていく。

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最近知ったこと。
田舎町に住んで真っ赤なスポーツカーに乗っていると、周囲の人々から「ちょっと変わったやつ」あるいは「粋がっているやつ」と思われてしまう。

むかし、山口百恵が「真っ赤なポルシェ〜」と歌っていた。
やはり「真っ赤なスポーツカーに乗る」という事が、「粋がっている・強がっている」象徴として歌われていた。

しかし、「あいつ、真っ赤なスポーツカーに乗ってるんだぜ」と陰口を言う人たちも、スポーツカーに乗っているというだけで人格すべてを否定するほど狭隘ではない。
どんな派手な車に乗っていようと性格が良ければ田舎の社会でも認められる。
本人の居ない所で、ちょっと陰口を叩かれる以上の実害は無い。

狭い社会なので、色や形が目立つ車に乗っていると、必要以上に目立ってしまうというだけだ。

ただ、人間関係で失敗したり何か問題を起こした場合、
「あんな派手な車に乗ってチャラチャラしてるから、そんな事になるんだ」
と、地味な車に乗っている人の2倍批判される可能性は有るかもしれない。

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先日、江ノ島に行った。
「湘南の海辺」に行ったのは、初めてかも知れない。

鎌倉には行った事がある。
しかしその時は神社仏閣を巡っただけで海岸までは足を延ばさなかった。

私が江ノ島に行った日は良く晴れてポカポカ陽気で暖かかった。
橋で結ばれた島の対岸には長い砂浜があって、波が無く穏やかで、ウィンド・サーフィンに興じる人が居たり、港にヨットが並んでいたり、ヤシの木が生えていたりして、12月ながら南国情緒を感じた。

「なるほど、これが名高い湘南海岸か」と思ったが、その一方で物足りなさを感じた。

磯の香りが無い。

例えば、海辺の田舎町までドライブして、どこか適当な場所に駐車してドアを開け自動車を降りると、普通ならその瞬間にツンッと磯の匂いが鼻をつく。

ところが、どういう訳か、湘南の海岸にはあの匂いが無い。

どうしてだろう?
波の無い穏やかな海だからだろうか? それとも『磯の香り』というくらいだから、あれは岩場特有の匂いで、湘南海岸のような砂浜の続く海岸には無いのだろうか?

江ノ島に行った後、湘南電車に乗って藤沢に行き、そこから小田急に乗って二つ三つ内陸の駅で降り、住宅地を散策した。
頭上をプロペラの対潜哨戒機が通り過ぎていく。
以前、別の町で見上げたときは、飛行機の高度が高くて、機体も小さく見えたし、エンジン音も遠くに聞こえた。プロペラ機が空をゆっくり横切る姿は、牧歌的だった。
しかし、今回は印象が違った。
アメリカ空軍厚木基地が近いためだろうか、飛行高度が低くエンジン音も大きく聞こえて、多少の威圧感を覚えた。
ああ、なるほど、飛行場の近くに住むというのは、こういう事なのだなと思った。

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最近、デジタル・カメラに関して気づいた事。
田舎に住むなら、なるべく高画質のカメラを買え。
都会に住むなら、なるべく小さなカメラを買え。

大自然を撮影するなら、高画質であればあるほど良い。
大自然の写真は『絵画』的だ。

都会を撮影するなら、持ち運びしやすく、目立たない方が良い。
都会の写真は、スナップショットだ。
二度と来ない瞬間を切り取るものだ。
それには機動力が必要だ。

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先日「アメリカの大衆文化は衰退しているのではないか」と書いた。
アメリカの文化が衰退しているのではなく、それ以外の国々(とくにアジア諸国)の大衆文化が実力を付けて来たため、相対的にアメリカの優位が薄れているのかもしれない。

ある国の国力(政治力・軍事力・経済力)と文化力との相関関係。

アメリカは絶対王者の地位から降りようとしているのか?

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秋は秋で、冬は冬で情緒がある。

12月の頭というのは秋なのだろうか? それとも冬だろうか?

木々の葉が落ち、どんよりと暗い灰色の雲が空を覆う。
それはそれで風情があって良い。
ちょっと寂れた感じの田舎町をドライブしていて、そう思った。

やはり、春夏秋冬それぞれに良さがある。
しかし、あまりに暑すぎたり、逆に寒すぎたりするのは嫌だ。
激しすぎない程々の温度差が良い。

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先日、ダイハツのトールを運転した感想を日記に書いた。
「小さなボディに広々とした室内」という長所のために若干乗り心地が犠牲になっていると書いた。
そういえば、タクシー専用車種として開発されたトヨタ・ジャパンタクシーの乗り心地は、それほど悪くなかったな、と思い出した。

同じ「後席スライドドアの背高ハッチバック」とはいえ、ダイハツ・トールよりもジャパンタクシーの方が車格が上だからだろうか?

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世の中には、
「人生の目標を達成して余生を過ごしている人」
「人生の目標を諦めてしまった人」
「人生の目標を達成しようと戦っている人・途上にある人」
という3種類が居る。

スポーツに例えると、
「勝って試合を終えた人」
「試合に負けた人」
「現在、試合中の人」
である。

私は、3番目だ。

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良い映画を観たい、良い小説を読みたい、天才スポーツ選手の華麗なプレイをこの目で見たい、カッコ良い自動車やバイクや電車や戦闘機の動く様子を見たい。

……というのは、煩悩なのだろうか?

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むかしバブルの絶頂期に、ある小説家のエッセイを読んだ記憶がある。
その小説家いわく「日本は文化的に幼稚で、それに対して欧米の国々には古代ローマ帝国から連綿と続く成熟した文化がある」という事だった。

しかし2020年現在、アメリカ・欧州各国が抱える様々な問題と彼らの対処の仕方を見ていると、「本当にそうだろうか?」と思ってしまう。

彼らだって我々と同じ人間だ。
幼稚な人もいれば成熟した人もいる。彼らの社会には、それなりに良い点もあり、また問題も抱えている。
そういう意味では、我々日本人と大して変わらない。

しかし、時代は移ろう。

いま我々は「ローマ帝国時代から連綿と続いてきた」ヨーロッパ・アメリカ文明の終焉を目の当たりにしているのだろうか?

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「民主主義は絶対正義」で「独裁は絶対悪」は本当なのだろうか?

それとも、この世に完全など無く、あらゆる物はいずれ制度疲労を起こして腐敗していく運命なのだろうか?

中国の隆盛、かの国の市民たちが一党独裁という自国の体制をそれなりに納得して受け入れている現実、コロナを巡る欧米各国のドタバタ、個人の権利と自由を制限する国ほどコロナに上手く対処できるという現実を目の当たりにすると、そんな風に思ってしまう。

私個人は、現体制下の中国に住みたいとは、どうしても思えないが。

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近い将来、インドは国力を付けてアメリカ・中国と肩を並べる大国に成長するだろうか?

広大な国土に、膨大な人口を考えれば、充分に有り得る話だ。

また、個々のインド人を見れば、相当に優秀な人も多そうだ。
それは例えば、アメリカのIT企業で成功したインド移民が少なからず居ることで分かる。

ある国の経済を成長させるために必要な労働力の供給量と、その国の気候との相関関係に興味がある。
あまりに暑すぎる気候は、その国に住む人々の労働意欲を減衰させはしないだろうか?
逆に、ロシアのように寒すぎる気候の国に住む人々の労働意欲は?

誤解なきように言っておくと、私はロシア人と日本人とインド人の労働意欲の差などというものに興味は無い。
そんなものに大した差があるとは思っていない。

そうではなくて、例えば同じ日本人がロシアのような寒冷地に住んだ時と、日本のような温帯に住んだ時と、インドのような熱帯地方に住んだ時で労働意欲に差が出るのか、という問題に興味がある。
なぜなら、気候と労働意欲に相関関係があると仮定すると、その国の国力の限界値が、緯度や気候・平均気温によって決まってしまうからだ。

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都会と田舎の境界線は何処にあるのだろうか? と昔から考えていた。

都会と田舎の境界線上に住みたいと思っていた。

それは例えて言うなら「目の前に雄大な自然が広がる一方、振り返ってみると、気の利いた居酒屋、レストラン、スーパーマーケット、コンビニの立ち並ぶ繁華街が広がっている」場所だ。

例えば、新宿の東京都庁を起点にして、中央線沿いに西へ西へと歩いていく。
中野、荻窪、三鷹……どこまで歩いて行けば「都会と田舎の境界」に辿り着くのだろうか?

しかし最近「都会と田舎の境界線などという場所は無い」と思うようになった。

境界線に住むのは諦めて、半年おきに都会と田舎を行ったり来たりする暮らしが良いのかもしれない。

あるいはキャンピング・カーでも買って、ずっと旅を続けるか。

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ある老齢の映画監督が「才能が枯れるのが怖い」と言っていた。
「周りの人間たちに『あの監督も才能が枯れちゃったな』と内心で思われながら、言葉だけは『〇〇監督、さすがですね! 天才ですね!』とチヤホヤされるのが一番怖い」と言っていた。

私は、特定の分野に関して膨大な専門知識を持っている訳でもないし、暗算が得意な訳でもないし、高学歴でもないし、プロ・スポーツ選手のような高い身体能力を持っている訳でもない。
そんな私にとって、人生を切り開いていく武器は一つしかない。
感性の鋭さ・瑞々(みずみず)しさだ。
一瞬で物事の急所を突く感性の鋭さと瑞々しさだけは、絶対に失いたくない。

(2020年)

2020-12-04 08:51