日記のような小説、小説のような日記
日記のような小説、小説のような日記
11月13日(金)
これからしばらくの間、出来る限り毎日、日記を付けていこうと思う。
ひとつには、エリック・ホッファーの『波止場日記』を読んで、それに影響されたから。
もう一つの理由としては、文章を書く訓練をしなければいけないと思ったからだ。
歳を取ると『ああやっぱり人間とは、生物とは、衰えていく存在なのだな』と実感する。
「食が細くなった」「疲れやすい」「反射神経が鈍くなった」
などの現象が自分の体に出はじめていると感じる。
肉体的な衰えを喜ぶ人間は居ないだろうが、肉体以上に私が恐れているのは『知的能力の衰え』だ。
だいぶ前、私がまだ青年と言って通用する年頃の事だったと思うが、『将棋の棋士のピークは27〜28歳で、それ以降は、経験でカバーしていくしかない』というような内容の記事を目にした。
瞬発的な『閃き』によって理想の一手を打つ能力は20代後半で頂点に達し、それ以降は、衰えていく一方の『閃き力』を、経験の豊富さでカバーして何とか若手に対抗するしかない、という話だった。
なるほど、冷静に考えてみればそうかもしれない、と思った。
歴史的な発見や発明の多くは、科学者たちが20代の頃に閃いたアイディアを基本にしているという話も良く耳にする。
人間の知性や感情を司る『脳』も、人間という生物が有する『器官』の一つに過ぎない。
早い話、脳味噌も、心臓や肝臓や胃や腸と同じ『内臓』だ。
数学の方程式を解くことも、音楽の作曲も、小説を書くことも、人間の肉体的な営みの結果であるという点で言えば、息をしたり汗をかいたり小便をしたりするのと何ら変わらない。
ならば、加齢とともに胃腸の消化力が衰え、心臓の力が衰え、肌にツヤが無くなり、足が遅くなるように、脳の力だって衰えていくのだろう。
歳を取れば、知性も感情も衰える。
知性も感情も、100メートル走と同じ『肉体の活動』だから。
しかし私には、どうしてもやりたい事が幾つかある。
自分の脳味噌には、まだまだ全力で働いてもらわなければいけない。
むしろ今まで以上に知力を発揮し、感情をコントロールしなければいけない。
ならば、それらの『肉体的能力』を、訓練によって維持し、全盛期の頃を取り戻さねばならない。
他の年配者が毎朝ジョギングをして体調を整えるように、私も毎日の反復訓練によって脳を鍛え直そう。
だから、毎日、日記を書こうと思う。
(2020年)