青葉台旭のノートブック

映画「カラー・アウト・オブ・スペース―遭遇―」を観た。

映画「カラー・アウト・オブ・スペース―遭遇―」を観た。

Amazon Video にて。

Amazonのページ

ラヴクラフトの短編小説『宇宙からの色』を映画化した作品。

ネタバレ注意

この記事にはネタバレがあります。

ネタバレ防止の雑談。原作小説の日本語タイトルについて。

ラブクラフトの書いた原作小説の題名も同じ「The Colour Out of Space」だ。

この短編小説の日本語訳は、

  • 創元推理文庫「ラフクラフト全集4」では『宇宙からの色』と題されている。
  • 現在、私が読んでいる新潮文庫版「インスマスの影―クトゥルー神話傑作選―」では『異次元の色彩』と題されている。

おそらく『Out of Space』という熟語をどう解釈するか、各々の翻訳者で意見が分かれたのだろう。

これが『Outer Space』ならば簡単な話で、直訳すれば『外側の宇宙空間』だから、『(我々の生活圏の)外側に広がる宇宙』という意味になる。
例えば、現代の日本が舞台の物語ならば、『我々の生活圏』とは地球の大気圏内のことだから、『Outer Space』は、大気圏の外側に広がる宇宙を指すし、物語の設定が近未来で、地球人類が太陽系の各惑星に植民地を作っているという設定ならば『Outer Space』は『太陽系の外側の宇宙空間』すなわち『遥か彼方の恒星系』という意味になる。
つまり、物語本編の文脈から訳語を見つけやすい。

しかし、これが『Out of Space』という熟語になると、どうだろうか?
一つは、『Outer Space』とほぼ同義、『我々の生活空間の外側』という解釈があるだろう。
その一方で、『宇宙それ自体の外側』という見方もできる。『全く別の次元』『異空間』『異世界』という解釈だ。

創元推理文庫版と新潮文庫版で題名が違うのは、おそらくこういう事情だ。
墓の下で眠るラブクラフトを起こして確かめでもしない限り、どちらが正解かは分からない。

ひとこと感想

以下、ネタバレ。

ニコラス・ケイジ

まずは、ニコラス・ケイジについて語らねばなるまい。

『マンディ 地獄のロード・ウォリアー』を観たときにも感じたのだが、普段は疲れた中年オヤジ(あるいは初老オヤジ)なのに、時々、思い出したように演技がヤケクソになる。

この『疲れた中年オヤジ』『ヤケクソ』『疲れた中年オヤジ』『ヤケクソ』の繰り返しは、意図的した演技なのか? はたまた彼自身のリアル人生から意図せずに滲み出たものなのか?

観ているこちら側としては、いったいどういう心構えで居れば良いものやら分からず困惑してしまう。

並の俳優なら、こんな演技をされたら観客は物語に集中できなくなると思う。
しかし、ニコラス・ケイジだと不思議と許せてしまう。やはり彼は『生まれながらのスター』という事か。

要するに『ニコラス・ケイジ=何をやっても許される人=やっぱり、この人ある種の天才』なのだろう。

そんなニコラス・ケイジを観ながら、私たちは困惑しつつもクスッと笑って『ニコラスぅ〜』などと画面にツッコミを入れるわけだが、その一方で、ふと『共演者は、やりにくいだろうな……』とも思ってしまう。

総じて、本作の共演者たちはプロの役者として真面目に役柄と向き合い、それぞれ自分の演技プランを持って演じている。
そんな役者たちの真摯な演技を、ニコラス・ケイジ一人が全部なぎ倒して、かっさらって行く。

正しい、正しくないで言えば、周りの役者たちの方が正しく、間違っているのはニコラス・ケイジの方なのだが、映画の『華』として観た場合、存在感を出しているのは『疲れ切ってヤケクソな』ニコラス・ケイジのほうだ。

何だかんだ言って、ニコラス・ケイジは映画人たちに愛されていると思う。
良い企画・脚本と巡り合い、彼がハリウッドのメイン・ストリームでもう一花咲かせることを願うばかりだ。

ストーリー

1920年代に書かれた原作小説を2019年現在の物語に移し替えるための『翻案』部分は有るものの、おおむね原作小説に忠実であるように思えた。

話の大筋は『隕石に乗って宇宙から飛来した謎の生物が、人里離れた森に住む家族に寄生して徐々に肉体と精神を侵していく』というもので、『遊星よりの物体X』などと同じ宇宙侵略SFの一種だ。

言うまでもなくラブクラフトの原作小説がまず先にあり、のちにハリウッドのSFホラーがその影響を受けて作られるようになった、というのが正しい前後関係なのだが、2020年現在、この映画を観て『今さら宇宙侵略もの? 物体Xの何番煎じだよ?』と持ってしまうのも、また事実だ。

原作小説には『森の生態系そのものが侵されていく』という大きな恐怖があり、その象徴として『木々や草花の色と形が異様に変化していく』描写があって、それが今でも強い印象を読者に残す。
正直言って、本映画作品はその描写が控え目で、食い足りなかった。
生物の変容が、せいぜい一家の庭先と家畜小屋でしか起きない。

『森全体の色と形がグロテスクに変わってしまった……このままでは世界そのものが異様な生態系に変質してしまう』という原作小説の恐怖を、この映画では感じられなかった。

そういう、『このままでは世界の生態系が取り返しのつかないほどに変容してしまう』という恐怖が充分に描き切れていれば、『ダムが建設され、上水道を通じて人々がその水を飲んでいる』というラストシーンの恐怖も倍増したと思う。

2020-11-10 09:15