青葉台旭のノートブック

映画「ウィンド・リバー」を観た。

角川シネマ日比谷で「ウィンド・リバー」を観た。

公式サイト

監督 テイラー・シェリダン
出演 ジェレミー・レナー 他

ネタバレあり。

この記事にはネタバレが含まれます。ご注意ください。

銃について(ネタバレ防止の余談)

主人公の持っていたバレルとレシーバー部分がピカピカのレバー・アクション・ライフルが気になって調べてみた。
どうやら、マーリン社という銃器メーカーのM1895SBLというモデルらしい。
この銃、すごく印象に残るよね。

調べていくうちに「imdb.com」ならぬ「imfdb.org」なんてサイトがあるのを知って、ちょっと笑ってしまった。
いろいろ調べてみると、主要人物たちの銃は以下のようなものらしい。

コリー・ランバート(ジェレミー・レナー)
マーリンM1895SBL、レミントンM700、ルガー・スーパーブラックホーク
ベン署長(グラハム・グリーン)
スミス&ウェッソンSW1911Eシリーズ
ジェーン・バナー(エリザベス・オルセン)
グロック17
その他いろいろ
ヘッケラー&コッホHK416、ヘッケラー&コッホUSPなど。

こうしてみると、登場人物の所有する銃器に、はっきりと製作者側の意図が読み取れて面白い。

主役のコリーや部族警察の署長、つまり地元の人間はウィンチェスター・ライフル、コルト・シングルアクションアーミー、コルト・ガバメントなどの伝統的なアメリカの銃(のコピー商品)を使い、FBI捜査官などの他所者はヨーロッパの近代的な銃を使うという色分けだ。

地元組が持っているのは古いアメリカの銃そのものではない。
本家メーカーの特許切れの後に作られた他社製コピー商品であり、昔からある青黒い酸化皮膜処理鉄ではなく現代的な銀ピカのステンレス製であり、また最新式のピカティニー・レールなどを組み込んで再デザインされた『現代の』銃だ。

これは、ウィンド・リバーという地域が現代にありながら過去に属する土地という暗示であり、そこに住む男たちは銃に対して特別なこだわりを持ち、銃=暴力によって正義を執行する、物事を解決するという古い開拓時代のアメリカの価値観と、近代的な法治国家アメリカの価値観の両方を持っている(そして、その二つの価値観によって引き裂かれている)という暗示だ。

主人公が弾薬のハンド・ロード(火薬の詰めなおし)をしているシーンがあったが、あれは45-70の強装弾を自分で作っているという描写なのだろうか?
主人公はアメリカ合衆国魚類野生生物局の職員だ。どうやら大型肉食獣を射殺して生息数を調整するのが仕事のようだから、強力なライフル弾とそれを連射できる銃を常に持ち歩いているという設定なのかもしれない。

それにしてもコルトのライバルS&W社謹製ガバメントの何と美しいことよ。

ちなみにスノーモービルはボンバルディア社のスキードゥという車種らしい。

以上、ネタバレ防止の雑談でした。

以下、ネタバレします。

物静かな映像表現が良かった。

CGを使えば何でも表現できてしまう昨今、いたずらにケレン味を追い求め、鬼面人を威(おど)すようなハッタリ映像ばかりの映画も少なくない中、この映画の映像的な語り口は静かで端正で、必要最小限の情報で構成されていて落ち着いて観ていられた。

そして、アクション・シーンを最小限に抑え、その数少ないアクションシーンを「突然の暴力」として描く手法に好感を持った。

社会派ミステリーか、否か。

この映画を分類するとすれば「社会派ミステリー」ということになると思う。

正直言って、映画を観た直後、私は「『社会派』の部分と『ミステリー』の部分が上手く融合できていない」と思ってしまった。

「これ、別にインディアン居留地じゃなくても成立する話だよね? 別に被害者がアメリカ先住民の少女じゃなくても良くね?」と。

(注意:この文脈で『インディアン』という言葉を使うのはインドの皆さんに対して申し訳ないので嫌なのだが、正式名称が『Indian Reservation』なので本記事でもそれに準ずる。勘弁してほしい。
直訳すると『インディアンのために予約された土地』という事か。
『アメリカ先住民のために予め約束された土地だから、白人が入植したり開墾したりできない』という意味だろう)

映画の本題である少女強姦事件について、被害者がアメリカ先住民でなければいけない物語上の必然性は全くない。
犯人たちは、先住民だから彼女を強姦したのではない。人種民族に関わらず、ただ性欲の捌け口が欲しかっただけだ。

被害者の兄が人生に希望を持てず鬱々とした日々を送り、悪い仲間と麻薬に溺れるという描写がある。
居留地に押し込められた先住民の絶望感を演出したかったという意図は分かるが、これも別にインディアン居留地だけに特有の問題ではなく、世界中どこにでも存在する「取り残された地域」「過疎化が進む田舎の町や村」に共通する問題だろう。
例えば「インディアン居留地」を「古い炭鉱の町」とか「グローバル化に乗り遅れて工場が閉鎖された町」にしても、この物語は成立してしまう。
これはマイノリティ差別の問題というより、人種的多数派・少数派に関わらず、若者なら誰でも経験しうる問題だ。

そして最初と最後に取って付けたように挿入される、
「この物語は事実を元に作られた」
「アメリカの失踪者の統計データには、アメリカ先住民女性に関するデータは無い」
という字幕。

「アメリカには先住民をめぐる社会問題があるんだ! 俺たちはそれを告発したいんだ!」という映画製作者の意図は分かるが、それが物語と有機的に繋(つな)がっていないように感じた。

映画を観た直後は「ははあ、社会問題告発のためだけに舞台をインディアン居留地という設定にしたんだな」と思ってしまった。
「告発のための告発」「設定のための設定」に陥(おちい)ってしまっていると思った。

そこで、家に帰ってから映画の感想ブログやらFilmarksの投稿やらを読んだ。

大部分の記事は「アメリカの闇」だの「先住民の置かれている悲惨な状況」だのというフワッとした言葉だけでこの映画を評していた。
「アメリカ先住民というマイノリティ差別に切り込んだ映画だから素晴らしい。感動しました」といった、通りいっぺんの賛辞ばかりだった。

「この映画の舞台がインディアン居留地である物語上の必然性」をちゃんと説明してくれる記事には中々お目にかかれなかった。

「被害者の兄が将来に希望を持てず鬱々としている現実のやるせなさ」の原因を、インディアン居留地であるがゆえとして、本作品のテーマを「差別と貧困」の物語と規定する記事もチラホラあったが、前述の通り「貧しい地域に取り残され鬱々とした日々を送る若者たち」というのは世界中どこにでもある普遍的なテーマだ。どうしても先住民差別と結びつけなければいけない必然性は無い。

う〜ん……なんかスッキリしない。

私がそう思ったのと同じように「泥酔した男たちの強姦事件って、インディアン居留地は別に関係なくね?」といった趣旨が書かれている記事や感想の投稿も、一部にはあった。

俺、この映画について重大な何かを見落としてるのかなぁ……

そして色々と調べていくうちに(といっても、ネットの聞きかじりならぬ『wikiかじり』程度だが)この映画の本当の主題が見えてきた。

結論から申し上げると、この映画のテーマは「アメリカ先住民に対する差別」ではない。

いや、もちろん根っこには「先住民差別」の問題があるのだが、この映画の主題は、そんなザックリとした『差別反対』的な抽象論ではない。

この物語の主題は、アメリカ先住民という『アメリカ大陸本来の主権者』と、ヨーロッパから移住してきた白人たちが作り上げた『合衆国』という国家との間で取り交わされた約束(条約)の欺瞞性であり、そこからくる現在のアメリカ先住民とアメリカ合衆国との『ねじれた関係』の告発だ。

殺人事件でないとFBIは捜査できない。

検死のシーンで「殺人事件でなければFBIは捜査できない」というシーンがある。

また「こんな広大な土地に警察官がたった6人しか居ない」というセリフもある。

この二つのセリフに言及しているブログ記事は、いくつかあった。

私個人は、この二つのセリフに関して「ははぁ、例のアメリカ特有の『保安官制度』の事だな」と思って観ていた。
あるいは「よくあるFBIと所轄警察の官僚主義的ナワバリ争いの事か」と。

しかし私の予想に反して、FBIの捜査権限だの警察官が6人だのという設定は、物語上の困難・障害として全く機能しないまま、主人公の機転で捜査はスルスルと進んでいき、何の迷いもなく彼らは一直線に犯人まで辿(たど)り着いてしまった。

じゃあ、何だったのさ?
あの「殺人事件じゃないとFBIは介入しない」だの「地元警察は6人だけ」って設定。

……しかし後になって、この二つのセリフは物語上の機能として発せられたものではなく、この映画のテーマと密接に関係して発せられたものだと気づいた。

最大のヒントは、いきなりのメキシカン・スタンドオフにあった。

クライマックス直前、採掘場の警備員たちが、いきなり警察官たちに銃を突きつけるシーンがある。

正直に申し上げると、この突発的なシーンを観て「うわっ、カッコ良い!」と痺れてしまった。

その一方で「あれ? このシーン、確かにカッコ良いけど、なんかチョット無理くりじゃね?」という疑問も感じていた。

「採掘場の警備員つっても、しょせん、たかが民間人でしょ? 胸にバッヂをつけた警察官に堂々と銃を向けるかな? さすがに変じゃね?」と。

公権力である警察官に銃を突きつけたら、問答無用で射殺されるでしょ、普通。

マフィアとかの反社会的勢力ならともかく、いくら追い詰められていたからってカタギが警察官に銃を向けるなんて、どう考えても自殺行為じゃないですか。

あのシーンで、ヒロインが「私はFBI捜査官だ、私はあなたたち全員に命令できる唯一の人間だ、だから銃を下ろしなさい」としきりに叫んでいた。
このセリフにも、私は首を傾げた。

「いや、FBIだろうと所轄警察だろうと、警察官なら銃を下ろせって命令できるっしょ? 民間人なら命令に従うでしょ?」と。

どうなってんの?

それが引っかかって、私は『インディアン居留地』についてネット検索してみた。

そして、この「民間人が平然と警察官に銃を向ける」というのが、この物語の最重要ポイントである事を知った。

この物語の最重要ポイントはこれだ。

「インディアン居留地とは単なる特別区などではなく、独立した一つの国家であり、先住民はアメリカ市民ではなく、部族国家という独立国の国民である」

これが……この『タテマエ』こそが、そして、その『タテマエ』によって形成された合衆国とアメリカ先住民との歪んだ関係こそが、この映画の本当のテーマだ。

私はこれまで不勉強で、てっきりインディアン居留地というのは単なる特別区だろうくらいにしか思っていなかった。
アフリカ系アメリカ人がそうであるように、アジア系移民がそうであるように、南米系移民がそうであるように、アメリカ先住民もまた合衆国市民なんだろう、と思っていた。
「差別は有るにせよ、合衆国市民である事には間違いないんでしょ」と。

しかし他のマイノリティ系アメリカ人とアメリカ先住民との間には決定的な違いがあった。
前者が立派な合衆国市民であるのに対し、後者は厳密な意味での合衆国市民ではないという点だ。
前者はアメリカ合衆国という国家に帰属し、国家に税金を納め、その見返りに治安維持を始めとする各種行政サービスを受ける権利を有するのに対し、後者は(タテマエ上は)あくまで『インディアン居留地』という独立国の国民であり、合衆国に対する納税の義務を負わない代わりに、本来なら当然受けられるはずの治安維持を始めとする各種行政サービスを受ける権利もない、という事だ。

合衆国から行政サービスを受けられない代わりに、一応の独立国として、彼らは自らの手で居留地の治安を維持する権利を持つ。
しかし、権利と義務は常に表裏一体だ。インディアン居留地において彼らが独自の警察を持つ権利があるということは、逆に言えば彼らは自らコストをかけて警察署を作り、装備を揃え、警察官を教育して居留地内に配置する義務を負うということだ。

そして農業資源の乏しい寒冷地や砂漠地帯に追いやられた彼らに、独立国として自らフルスペックの行政組織を維持する体力は既に無い。

そういう前提でこの映画を見ると、最初から最後まで、登場人物のセリフ一つ一つ、行動一つ一つが全く違った意味を持ってくる。

「殺人事件でないとFBIは手が出せない」
「この広大な土地には警察官が6人しかいない」
というのは、要するに「インディアン居留地独自の警察機構(部族警察)には、十分な法執行能力が無い。しかし、だからと言って合衆国の警察権力は殺人事件でもない限り『独立国である(というタテマエの)』居留地内で起きた事件に介入できない」という意味だ。
単に田舎の警察だから人手が足りないという意味ではない。
インディアン居留地の自治政府は、その能力に見合わない過剰な統治義務を背負わされている。
合衆国政府と合衆国民は、それを知っていながら見て見ぬ振りをしている。

要するに、この映画の問題提起とは「 もはや誰が見ても独立国として十分な能力が無いと分かっているのに、(タテマエ上)独立国家なみの権利=義務を背負わされているという悲劇 」だ。

ラストの字幕

ラストの「アメリカの失踪者の統計データには、アメリカ先住民女性に関するデータは無い」という字幕も同じ文脈だ。

合衆国は『外国』であるインディアン居留地に対して……『外国人』である失踪した先住民の少女たちに対して、コストを払って統計データとる義理がない。

一方、居留地の部族政府にはコストをかけて統計をとるだけの体力がない。

なぜ警官に銃を向けたのか

アメリカ合衆国内に『人工的に作られた』『擬似的な』独立国家……それがインディアン居留地の真の姿であると知ると、あのクライマックス直前の不自然なメキシカン・スタンドオフにも納得が行く。

この場面こそが、この映画における『アメリカ先住民に関する問題を告発する』という社会派の側面と、サスペンス・エンターテイメントとしての側面が見事に融合した場面であるとわかる。

採掘場はアメリカ合衆国の企業の持ち物であり、(タテマエ上の)独立国家であるインディアン居留地の中にありながら、そこだけはアメリカ合衆国に帰属する場所だ。
部族警察に対し治外法権が適用される。

つまり、採掘場の土地は合衆国の領土であり、警備員たちは合衆国市民であり、そして彼らにとって部族警察は「従うべき我らがUSAの警察官」ではない。「合衆国の領土に侵入してきた外国人」だ。
だから、平気で部族警察官たちに銃を向ける。
その裏にあるのは「俺たちは合衆国市民だ。ここは合衆国の企業の土地だ。奴らインディアンは正規の合衆国警察官じゃない。奴らが勝手に作った部族警察だ。俺たちは奴らに従わなくても良いんだ」という驕(おご)りだ。

それは例えば、日本で罪を犯した米兵が在日米軍基地に逃げ込んで日本の警察が手出しできなくなるという構造に近い。

だから、ヒロインは盛んに「私はFBI、私に従え」と叫んでいたのだ。

彼女は心情的には少女強姦事件を捜査する部族警察の味方だが、形式的には採掘場の職員たちに命令できる唯一人の「合衆国連邦警察所属の白人警官」だからだ。

なぜ、こんな体制になっているのか。

なぜ、アメリカ合衆国当局と先住民たちの関係は、こんなにも特異なのか。

それは、合衆国という国家を作り上げた初期のヨーロッパ移民たちが、実は『他ならぬアメリカ先住民こそ新大陸の真の主権者である』と 知っていた からだ。

先住民とは、アメリカに入植した白人たちにとって、たまたまそこに住んでいた人たちというだけの存在ではない。
この広大で肥沃な新大陸という土地の本来の所有者であり、交渉し取引をする相手だ。

(先住民の)部族とは、『白人国家アメリカ合衆国』にとって、条約を結ぶべき主権国家であり、のちには戦争を仕掛け領土を奪い取るべき敵対国家だった。

ただ、悲しいかな、かつてのアメリカ先住民はバッファローを追いかけて各地を転々とする狩猟民族であり、ヨーロッパからやってきた農耕民族と違い『土地』という概念、ひいては『国家の領土』という概念に乏しかった。

狡猾な白人に良いように手玉にとられ圧倒的に不利な条約を結ばされ領土を騙し取られていったのだろう。
そして条約を結ばない部族があれば、白人たちは戦争を仕掛けて圧倒的な武力で制圧し、戦いに勝利した後にはペナルティと称して領土を奪っていったのだろう。

現在のインディアン居留地とは、何度も不平等条約を結ばされ、何度も戦争を繰り返し、そして負け、その度に大幅に領土を奪い取られ、ついに完全な独立国でもなく合衆国の一部でもない宙ぶらりんな状態になってしまった、かつての主権国家の成れの果という事だ。

この映画は、主に合衆国の市民たちに対して「いつまで彼らを宙ぶらりんにしておくつもりですか?」と問題提起しているわけだ。

中ぶらりんが駄目なら、どうすれば良いのか。

真ん中が中途半端で駄目なら、思い切って右へ寄せるか、思い切って左に寄せるかしかないのだが……

つまり、完全な独立国家になるか、あるいは完全に合衆国に併合され、合衆国への忠誠および納税の義務と引き換えに合衆国市民としての権利や行政サービスの恩恵を受けるか、という事だが……

アメリカ市民でもアメリカ先住民でもない私に何かを言う権利は無いだろう。

おそらく、アメリカ先住民たちの志向も時代とともに変わっていくのだろうし、また世代ごとにも変わっていくだろう。

いずれ近いうちに先住民たちが自(おのず)と何らかの結論を出す気がする。

それにしても国家とは強欲で狡猾で残酷だ。

かつての白人国家アメリカ合衆国がアメリカ原住民にした仕打ちを知るにつけ、人とは何と残酷で、人の集団とは何と残酷で、国家とは何と残酷で、つまりは世界とは何と残酷な場所なのだろうと思ってしまう。

それは200年前の合衆国建国当時でも現在でもあまり変わらない気がしている。

そして、現状、国家の強欲さ狡猾さ残酷さに対抗できる唯一の手段もまた国家である、国家しかない、あるいは連携し同盟を結んだ複数の国家群でしかない、というのも皮肉だが否定できない事実だ。

発端となった事件

人間の残酷さといえば、私がこの映画で一番心に刺さったのは、先住民うんぬんかんぬんという話ではなく、実は少女を強姦した採掘場の職員たちの残酷さだ。

一応この話は実話ベースという事になっているが、こんな事件が本当にあったのだろうか?
いくら酔っ払って帰って来たからといって、会社の社員寮で、同僚の目の前で、彼の恋人を強姦するだろうか?

これは本当にあった話なのかどうか……はともかくとして、今でも世界中のあらゆる場所で強姦事件が絶えないのは間違いない。

他人の尊厳を蹂躙してまで自らの欲望を優先してしまう人間が居る……人間は根源的にそういう業を持って生まれてくる、人間とはそういう欲の深い、業の深い生き物である、という事実と我々はどう向き合えば良いのか……

この映画の主張は案外シンプルだ。
「警察官の数を増やせ」だ。

つまり、しっかりとした警察機構を作り、連邦警察だの部族警察だのという官僚的縄張り主義をやめ、インディアン居留地であろうとなかろうと法と文明の光であまねく照らせ、という主張だ。

なるほど、男たちが少女を強姦したのは単に「酔っ払っていたから」という理由だけではないのかもしれない。
犯人たちは、いま自分のいる場所が現代アメリカでありながら法の及ばない未開の地である……何をやっても見つからない、何をやっても許される場所であるという無意識の計算をしたかもしれない。

これが都会の高級住宅街のど真ん中であれば、彼らもパトロールを恐れて罪を犯さなかったかもしれない。

だとしたら、都会の高級住宅街だろうと人里離れたインディアン居留地の採掘場だろうと同じように警察官がパトロールをすれば、一定の抑止効果は得られるかもしれない。

ここにも「国家の必要性」という問題が立ち上がってくる。

現状、少女の人権と尊厳を守る存在があるとすれば、それは国家という名の強力な法執行機関である、それしかない、という事だ。

インディアン居住地自身が力をつけて名実ともに完全な独立国家になるのが良いのか、それともいっそ完全に合衆国の庇護下に入ってしまうのが良いのかは、部外者である私には分からない。

ただ言えるのは、国家の無いところには法治もなく、国家という名の法執行権力が及ばぬ土地には、人の尊厳に対する残酷で悲惨で容赦のない攻撃が必ず蔓延(はびこ)るだろうという事だ。

最後に補足

私は、これまで「アメリカ先住民」と大雑把なくくりで呼んでいたが、実際には「アメリカ先住民」などという統一された民族は存在しないということを付け加えておく。

200以上もある居留地には、それぞれ別々の部族が住んでいて、それぞれ独立した部族政府を持っている。

当然、それぞれの居留地、それぞれの部族の事情は様々であり、ある程度の規模と財源を持った居留地・部族もあれば、独立政府を運営するだけの体力がほとんど残されていない居留地・部族もあることは容易に推測できる。

400年前に「戦国時代」という名の大部族間抗争を経て、300もの部族政府(藩)を連合させ「徳川幕府」という名の巨大部族連邦政府を樹立し、260年ものあいだ安定的に政体を維持したのちに、アメリカ合衆国海軍ペリー艦隊の襲来を受けた我々とは事情が違う。

2018-08-22 19:41