ハーレム禁止の最強剣士!

怪物、老人を刺し、少女に迫る。

1、潜冥蠍せんめいかつ

 ……もう、限界だ。
 潜冥蠍せんめいかつは思った。
 体力が持たない。
 これ以上「境界面」に潜っては居られない。
 どの道、いつかは現実空間に戻らなくてはいけないのだ。
 それに「境界面」をこれだけ移動したのだから、この近辺にあの二匹のエルフどもが居る可能性は低いだろう。
 怪物は境界面からゆっくりと伸縮自在の口を……口だけを……現実世界に突き出した。
 探査音、発信。
 その反響を分析し、複雑な地形を把握する。
 人間が居た。
 エルフではない。耳の大きな魔法を使う猿ではない。
 魔法を使えない人間ならば、潜冥蠍せんめいかつの敵ではない。
 すぐ近く、捕食脚の射程距離内に年老いたオスが一匹。
 そして、やや離れた場所に……
 ……ああ……あれは……
 あれは、
 未成熟な人間のメス。
 捕食脚の届く範囲ではないが、口管を伸ばせば充分に唾液の射程内だ。
 ……喰いたい。
 何としても……
 幸い、近くにエルフの反応は無い。
 怪物は、現実と冥界の境界面を破り、素早くその巨体を人間の住む世界に出現させた。
 まずは、近くの年老いたオス。
 六本だけ残った捕食脚のうち、片側三本を伸ばして、オスの人間に突き刺す。
 毒液を注入。
 死にはしないが、すぐに全身が麻痺して行動不能に陥る。
 しかし、こいつに用は無い。
 捕食脚を、老いたオスの人間から抜いた。
 足元に折れ、ビクンッ、ビクンッと体を痙攣けいれんさせているオスは捨て置いて、向こうに居るメスの人間に向けて一直線に口管を伸ばす。
 顔でも、腕でも、体のどの部分でもいい。
 唾液が体の一部に掛かるだけで、激痛で猿どもの行動力が著しく低下するのは、今朝ほどのエルフとの戦いで証明済みだ。
 逃しは、しない。
「ひっ」
 若い人間のメスが息を飲む。
 驚きと恐怖で、体が硬直している。
 その少女の脳髄を吸っている自分を想像するだけで、潜冥蠍せんめいかつの全身に快感が走った。

2、エステル・パナデッロ

「アラツグ・ブラッドファングさんて、超セクシーよね」
 住宅街を縦横に走る赤土の路地を歩きながら、エステルは独りつぶやいた。
 去年の夏、初めてアラツグの稽古を目撃した朝を思い出す。
 その日、朝の弱いエステルにしては珍しく夜明け頃に目が覚めた。
 尿意を感じて、共同女子便所に行こうと寝巻きのまま中庭に出た。
 少年剣士が……アラツグ・ブラッドファングが居た。
 上半身裸になり、いかにも重そうな長剣を黙々もくもくと振っている。
 並みの大人より、優に頭ひとつ半は高い身長。
 岩をノミで荒く削ったように硬く、それでいて、しなやかでもある筋肉の束が、剣を振るたびに
 時々、拳、肘、膝、蹴りなどを織り交ぜながら、架空の敵に対して剣を振るう少年の姿に、エステルは我を忘れた。
 気がつくと、いつの間にか素振りを止めてアラツグがこちらを見ている。
 ハッ、と我に返ると同時に尿意が戻り、エステルは小走りに女子便所へ向かった。
 便所の扉を開くとき、振り返ってチラリと中庭のアラツグを見ると、少年は、こちらに背を向け再び素振りの稽古を始めていた。
 それ以後、エステルは時々早起きをして中庭をのぞき見るようになった。
 意外にもアラツグの朝稽古は毎日行われている訳では無かった。
 三日に一度の割合か。
 稽古の無い朝はアラツグの起床は、ずっと遅い。
 一度、寝坊をしたアラツグが回廊を便所に向う姿を見たことがあるが、ぼさぼさの黒髪をきながらボーッと歩くさまは、これが、あの朝稽古の少年剣士と同一人物かと思うほど、だらしなく見えた。
「ま、どんなにセクシーでも……」
 住宅街を歩きながら、十四歳の少女は考える。
「結婚相手としちゃ、剣士稼業は最低よね。いつ死ぬか分からない仕事に就いてる夫なんて、まっぴらだわ。母さんもそう言ってたし。やっぱり都市国家の役人か、両替商、大商家の勤め人あたりが最高よね。真面目で、収入が安定していて、性格が面倒くさくない男が良いわ。まあ、結婚適齢期までの遊び相手としてなら、アラツグ・ブラッドファングさんみたいなセクシーで危険な香りのする男の人は、最高でしょうけど」
 ふと、前方を歩く老紳士が目に入る。
 エステルとの距離は三十レテムくらいだろうか。
 やせ細ってはいるが、杖を振り振り、薄手の春用マントをなびかせながら歩く後ろ姿は、なかなか矍鑠かくしゃくとしてる。
 身だしなみも良い。
 きっと、この辺りに隠居している商家の大旦那さまに違いない。
 老紳士が路地の角を曲がった。
 自分と同じ方向だ。
 ひょっとしたら、同じ「バルトの雑貨屋」に行く途中かもしれない。
 エステルも角を曲がる。
 ここからは百レテム近くにわたって両側に塀の続く、長い直線の路地だった。
 向かって右側は別の町に移転した大きな窯元の跡地。移転するまでは都市国家サミアとその都下の町々に必要な煉瓦れんがを一手に生産していたらしいが、今は再開発の目途めども立たずに放置されている。
 左側は公営の有料庭園だ。
 閉鎖した窯元にしろ有料庭園にしろ、出入り口は反対側で、つまり、この長い直線の道は「裏側」に位置し、延々と高い煉瓦塀れんがべいが続くだけで、勝手口の一つさえ無かった。
 道の両側に延々と続く塀。自分と、前を歩く老紳士以外、人っ子ひとり見当たらない。
 昼間ぴるまに歩いても気味の悪い場所だが、雑貨屋へ行く近道なのだから通るより仕方が無い。

 * * *

 老紳士が、その長い路地の三分の二ほどにかった時……異変は起きた。
 老紳士の直前、赤土の地面に黒いのようなものが突如現れ、それが見る見る広がっていく。
「な、何? あれ……」
 その不可解な現象に、足が止まる。
 突然、地面に広がる黒いから、異様な、そして大きな何かが出現した。
「虫……?」
 確かに昆虫か、あるいは水中に生息する甲殻類に似ている。
 
 鎌首をもたげたその高さは優に二レテム半か、ひょっとしたら三レテム以上あるかもしれない。
 ミミズか何かのように不定形に伸び縮みする口? の、周りには、多関節の脚か腕のようなものが何本も生えている。
 先端に鋭い爪を持つその脚だか腕のうち何本かは、何らかの原因で失われているように見えた。根元の部分に、それらしき傷跡が幾つかある。
 化け物が、その多関節の先端に付いている鋭い爪を老紳士に突き刺した。
 そしてすぐに老人の体から引き抜く。
 老人は、赤土の地面に倒れ、その場でビクンッ、ビクンッと体を痙攣けいれんさせた。
 直後、化け物の口らしき器官がエステルめがけて一直線に伸びる。
「ひっ」
 エステルの口から悲鳴が漏れた。
 足がすくんで動けない。
 
3、アラツグ・ブラッドファング

「ああ、とうとう追い付いちゃったよ」
 アラツグが、路地の角を曲がって別の路地に入ったと同時に、向こうの角を曲がるエステルの姿が見えた。
 少女の姿は、すぐに住宅の塀の陰に消えた。
「こうなりゃ、いっそ話でもしながら雑貨屋まで歩いたほうが、変に意識しなくなるかも知れないな」
 少女が見えなくなった角まで、小走りで行く。
「まったく、あの薬屋が変なこと言わなければ、こんなに意識することもなかったのに。こちとら、女の子の扱いに関しちゃ、ズブの素人だっちゅうの。俺を惑わすなよ。おっさん!」
 その時、不思議な音色の極低音を、アラツグの並外れた聴力が捕らえた。
「何だ?」
 音源は、たった今エステルが曲がった路地の先だ。
 角を曲がった。
 異様な光景が、目に飛び込んできた。
 アラツグの前方二十レテムほどの場所に、エステルが立ちすくんでいる。
 その、さらに四十レテム先には……
「何だ? あれは!」
 巨大な昆虫のような化け物が、狭い路地をふさいでいた。
 化け物の足元に、老人。
 赤土の路地に倒れ、全身を痙攣けいれんさせている。
 化け物の口が鋭く伸びて、少女に迫っていた。
 その光景を見た瞬間しゅんかん
 待機状態にあったアラツグの
 アラツグ自身の中に眠っていた「本能」が、「理性」から肉体の全制御権を奪取。
 しかし「理性」が眠ってしまう訳ではない。
 闘争本能の支配下において、五感全てと第六感を通じて得られる有りとあらゆる情報を分析させ、本能がるべき最善の行動を提案させる。
 情報収集。
 化け物の武器は、おそらく二種類。
 比較的近距離射程の多関節の腕と、現在、エステルに迫っている管状の器官を使った中距離攻撃。
 化け物の足元で痙攣けいれんしている老人の様子から、腕の攻撃には何らかの神経毒のようなものが含まれる。
 提案。
 その一。エステルの存在を無視すれば、化け物に先制攻撃が可能。生存及び、勝利の確率高し。
 その二。全力で走れば、管状器官の第一次攻撃の射線からエステルを外す事が可能。ただし、その場合、第二次攻撃をける事は不可能。
「エステルを助ける!」
 アラツグの本能/理性複合意思決定系が決断。
 ここまでの経過時間、アラツグが化け物を目撃してから、数千分の一瞬。
 アラツグ、大地を蹴って走る。
 後ろからエステルを抱きしめ、かばうようにして右の塀際へいぎわへ。
 直後、化け物の口管から未知の液体が発射された。
 しかし、既にその射線上にエステルは居ない。
 化け物の口管は、しばし戸惑うように宙を彷徨さまようが、すぐにアラツグとエステルの生体音を探知。向きを変え、二人に伸び迫る。
 けるか?
 いや、避けられない。
 避ければ、エステルに、あの正体不明の液体が掛かってしまう。
「左手を犠牲にする!」
 あの液体が人間の肉体にどのような作用を及ぼすのか全く不明だが、最悪、右手だけで闘う。そう決断する。
 今度こそ、至近距離から確実に仕留めようとでも言うのか、化け物はアラツグたちのぐ近くまで口管を伸ばしてきた。
 そう、手を伸ばせば届く距離にまで。
 アラツグ、振向きざま、左手のひらを口管の先端、その直前へ。
 広げた手のひらで液体を防ぐ。
「ぐっ!」
 激痛が左手を襲った。
 瞬間、アラツグの本能が、自身の神経伝達系を組み替え、左手の痛覚を一時的に遮断。
 反射的に収縮しようとする左手の筋肉に強烈な「意思の信号」を送り、本能による制御を取り戻す。
 そのまま左手で、細く伸びきった化け物の口管、その先端直後を握った。
 管の内側には、のこぎりようの細かい歯の列が見えたが、管の先端ぎりぎりを持てば、噛み付かれる事も無い。
 右手で剣の柄を逆手に持って抜き、左手で掴んでいる口管を一閃。その先端を叩き切る。
 断ち切った口管から体液が流れ落ちた。
 化け物、苦痛に悶えながら、先端の無い口管を縮める。
 切り取った口管の先端を捨て、縮んでいく管を追うように、アラツグが化け物めがけて走る。
 走りながら、情報分析。
 ヤツの攻撃器官は体の前部に集中しているように見える。
 つまり、何らかのを後ろに背負って、前方への攻撃に集中するのが、この生物の捕食パターンと予測できた。
 加えて、食物連鎖の頂上付近に居座る肉食生物の常として、防御が弱い。
 先端に毒爪を持つ腕……その多関節の形状から類推される動作範囲……あの攻撃器官には、あまりに死角が多すぎる。
 潜冥蠍せんめいかつの捕食脚、既に失われているのは、向かって右上部の二本、左上部の一本、左下部の一本。
 すなわち、右上部の防御が一番弱い。
 捕食脚の射程範囲ぎりぎりで、右上方向に跳躍し、路地の右側をふさ煉瓦レンガ塀に飛び乗ると、高さ2レテム半、幅十五セ・レテムの塀の上を全力で走った。
 両側を塀で囲まれた狭い路地ゆえ、潜冥蠍せんめいかつは方向転換もままならない。
 塀の上を走るアラツグ、長剣を潜冥蠍せんめいかつの溶解液を受けた左手に持ち換えた。
 先ほど襲った激しい痛みの割には、手のひらの損傷が少ないことに気づいていた。
 せいぜい、皮膚の炎症程度か。
 潜冥蠍が捕食脚二本を塀の上のアラツグに凄い勢いで伸ばす。
 アラツグ、塀の上で急制動。
 このまま同じ速度で走っていたらアラツグが通過していたであろう空間を、二本の捕食脚が切り裂く。
 捕食脚が伸びきった、そのタイミングを見計らって左手に持った長剣を縦に一閃、二本まとめてたたった。 
 怪物の捕食脚は、あと四本。アラツグがすり抜けようとしている向かって右側、すなわち怪物から見て左側に生えている捕食脚は残り一本。
 その一本の攻撃をけながら再度跳躍。化け物の背中に降り立つ。
 潜冥蠍せんめいかつは、自分の背中に乗ったアラツグに向けて、懸命に捕食脚を伸ばそうとするが、届かない。
 
「コイツは、この化け物は、背後を防御する手段を一切持っていない」
 その瞬間、潜冥蠍せんめいかつの尻尾の先端が高速で微振動を始めた。
 微振動をする尾の先の空間に黒い円盤のようなものが出現する。
 危険だ!
 アラツグの理性が、その黒い円盤を情報分析不可能なもの、すなわち最も危険なものと判断した。
 逃げるか?
 いや、逆だ!
 この謎の円盤の発生源を根絶する!
 アラツグは長剣を両逆手持ちに変えると、化け物の胴体中央部の関節、その甲羅と甲羅の境目、やや左の位置に、剣を突き立てた。
 そのまま、甲羅の境目に沿って左から右へ、突き立てた剣に全体重を乗せてのように動かした。
潜冥蠍せんめいかつが身悶える。
 胴体の前半分と後ろ半分、その境目さかいめの肉と中枢神経を断ち切られ、徐々に移動脚と尻尾から力が抜けていく。同時に、背後の空間に広がっていた黒い円盤も、徐々に小さくなり、消えた。
 もはや、潜冥蠍せんめいかつは「境界面」に逃げることも、いや、歩くことも、鎌首をもたげて起き上がることさえ不可能になっていた。
 赤土に毒液と体液をまき散らしながら、のろく力なく地面で打ち回っている。
 口管も、アラツグがその先端を切り落したからか、縮こまったままだ。
 怪物の近くに倒れて体を震わせている老人を見た。
 まだ息がある。
 怪物の毒による中毒症状が治るものなのか……それは分からなかったが、老人が生きている以上、怪物を完全無力化して彼を助けるべきだ。
 潜冥蠍せんめいかつの危険を排除する目的で、アラツグは残った捕食脚の全てを一本ずつ長剣で叩き落としていった。
 全ての毒爪を無力化した後、とどめをすために、力なく横たわる潜冥蠍せんめいかつの先端、口の辺りを見た。
 おそらく口の奥にこの生き物の中枢器官が有るのだろうと、当たりを付ける。
 化け物は全身を堅い甲殻で覆っている。
 口の周辺部は柔らかい肉が露出する数少ない部位ぶいだ。
 剣の先端で口をついてみる。
 さっきまでアラツグとエステルに毒液を噴射して激痛を与えようとしていた武器のの果てが、力なくピクン、ピクン、と反応した。
 アラツグは、周囲を見回す。
 痙攣けいれんしている老人のマントが目に入った。
 老人のマントを外し、左手を使って、長剣を持った右手を剣のつかごとマントで巻きにした。
「こんな物で、あの毒液を防げるかどうか……無いよりはだが」
 万が一、切り口から体液が噴出したとき体に掛からないように、突きたてた刃と自分の胴体の位置関係を調整する。
 もう一度、切っ先を怪物の柔らかい肉に押し付ける。
「これで終わりだ」
 つぶやいて、アラツグは怪物の口へ、その柔らかい肉の奥深くへ長剣を根元まで突き入れた。
 ビクンッ、と大きく一回、怪物の体が震え、切り口から体液が噴き出て老人のマントを濡らす。
 アラツグが怪物の体内深くに刺し入れた長剣の刃をひねった。
 怪物から、最後の力が……生命力が……消失した。
 敵の体から剣を抜いて、手に巻いたマントを外し、いまだビクビクと痙攣けいれんしている老人の所に行く。
 老人の肩を持って、怪物から十レテム以上離れた場所まで引きずった。
 それから、エステルが込んでいる所へ向かう。
「大丈夫かい?」
 アラツグがたずねる。
「ええ……何とか。でも、ちょっと腰が抜けて立ち上がれないわ。ブラッドファングさん、支えてくれないかな?」
 エステルが、甘えたように言った。
「いや、ダメだ。俺の体や衣服には、あの化け物の血液やら何やらが付いている。万が一、それらに毒性があった場合、君にも害が及ぶ」
 脅威がほとんど去ったと認識したアラツグの闘争本能が、徐々に待機状態に戻っていくのが、自分自身で分かった。
 同時に、本能によって抑え込まれていた左手の痛覚神経が再び機能し始める。
 突然、今まで味わったことも無いような激痛がアラツグを襲った。
「痛てぇえええー!」
 奇怪な生物が死骸をさらす静かな住宅街の路地に、アラツグの叫び声が響き渡った。

青葉台旭

前のページ

もくじ

小説リスト

ホーム

次のページ