リビング・デッド、リビング・リビング・リビング

発生。(その20)

 閉じた目蓋まぶたごしに光を感じた。
 速芝はやしば隼人はやと少年が目を開けると、駐車場にクルマが入って来るのが見えた。SUVとかいうタイプだ。それほど大きくはない。
「あのクルマも市内から逃げて来たのかな」
 隼人がつぶやくと、隣に座る叔父・風田かぜた孝一こういちが低い声で答えた。
「我々と同じ発想をした人間がもう一組、この街に居たわけだ。俺としては、これ以上同じ考えの人間が居ない事を祈るばかりだが、な」
「キャンプ場に来る人間が増えて欲しくないってこと?」
 助手席の隼人が、運転席の叔父に聞いた。
「今の状況では、どこであれ『人間の集まる場所』は危険度リスクが上がる。第一に、噛みつかれるリスク。第二に……人間同士の『摩擦まさつ』のリスク」
「人間同士の摩擦って、どういう意味?」
「小学生の隼人くんにこんな事を言うのは心苦しいが……これから人間同士が欲望をむき出しにして争う時代が来るかもしれない。他人ひとを見たら泥棒と思え、という時代がね。……いや、泥棒ならまだ可愛いもんだ。それよりもっとひどいことを平気でする連中が現れる可能性も、充分にある。本当に信用できる人間でなければ、近づかない方が良い」
「……」
「嫌な話をして、すまんな。……分かって欲しいんだが……隼人くんは俺に残された唯一の血縁者だ。たった一人の家族と言っても良い。生き残って欲しいんだ。だから危険を回避するすべを身に付けて欲しいんだよ」
 その時、駐車場の向こう側に駐車した小型SUVのルームライトが点灯した。車内の人間がライトに照らされて暗闇に浮かび上がった。
「おい……あれ、警察じゃないか?」
 運転席に初老の男。助手席に若い女。たしかに運転席の男が着ているのは警察官の制服のように見える。
 運転席の男と助手席の女は、互いの手元を見ながら何やら話しているようだった。手に何を持っているのかまでは分からなかった。
「でも変だな。なんでパトカーじゃないんだろう」
 叔父の言葉に隼人もうなづいた。
 自家用車に制服の警官。隣には若い女。物凄く違和感がある。
「まさか覆面パトカーって訳でもないだろうし……」
 風田はハンドルに寄りかかるようにしてしばらく何かを考えていたが、「よしっ」と決断したように言って助手席の隼人に顔を向けた。
「俺、あの警官と話をしてくるわ」
「だ、大丈夫かな?」
「『他人は信用するな』なんて言った矢先やさきだが、他人と交流した方が良い場合もある。妙に引っかかる部分もあるが、警察官の制服を着ている事や、隣に座っている女の様子から考えて危険な人間ではないだろう。ならば、ぜひ情報交換したい」
 風田は運転席のドアを開け、車外に出た。
 ドアを閉めて、ゆっくりと警察官と若い女の乗る小型SUVの方へ歩いて行った。

 * * *

 ルームライトの消えたSUVの運転席で、大剛原おおごはら栄次郎えいじろうはこちらに向かってくる男をジッと見ていた。
 中肉中背。スーツを着ているようだ。顔は暗くて良く分からない。年齢の見当も付かなかったが、歩き方からして老人ではあるまい。
 大剛原親子の乗るSUVまであと十メートルとせまった所で、いきなり男にヘッドライトの光を浴びせ、運転席の外に飛び出し、ドアを盾にして拳銃を向けた。
「動くな! それ以上近づいたら撃つ!」
 光の中に浮かびあがった男の姿をあらためて見た。
 年齢としは30歳前後だろう。少し疲れた様子だが、どこにでも居るサラリーマンと言った感じだった。いきなり銃を突きつけられて驚いたらしく「うわっ」と情けない声を出して、あわてて両手を頭の上にげた。
「あ、怪しいものじゃありません! あの、警察の人ですよね? し、下の街の様子がどうなっているのか聞きたくて……きゅ、救助とか、やってるんスか? だったら俺たちも助けてほしいんだけど……」
 大剛原は心の中で溜め息をいた。
(やれやれ……善良な……というより能天気な『市民』さん、か。市内の警察組織は壊滅したというのに、私の制服を見て頼りになるとでも思ったのか)
 それでも警戒を解かず、銃口を向けたままクルマのヘッドライトを消してドアを閉め、男と三メートルの距離まで近づいた。
「まずは、そちらから名乗なのってもらおうか。免許証も見せて」
 左手でベルトの懐中電灯を抜き、スイッチを入れ、男の顔を照らした。
 男はポケットから運転免許証を出しておそる恐る大剛原に手渡した。
風田かぜた孝一こういちさん、ね。……で、風田さん、こんな季節外れの古びた無料キャンプ場で、何やってるの?」
 分かり切ったことをわざと聞いてみた。この風田という男も大剛原と同じ発想をしたに違いない。人口の集中する市内は危険だと一早いちはやく気づき、夜間に移動するリスクを避けて、この山の上のキャンプ場で一夜を明かすことにしたのだ。
(案外この男と私は似た者同志どうしかも知れんな。思考回路が似ているのかも知れん)
 風田は両手を挙げたまま、夕方から今までの出来事を全て話した。
 ガソリンスタンド前のハンバーガー屋で見た大学生カップル。スタンドの店員と通りがかりの主婦。甥の少年を追いかけるサラリーマンと交番の警察官。家から飛び出てきた姉妹と、彼女たちを追う両親。街のあちこちで繰り広げられる惨劇。
「なるほど」
 自分たちと似たような話だな……大剛原は思いながらも、念のため話のを取っておくことにした。
「君のクルマの中を確認させてもらおう。話が本当なら少年と少女たちが同乗しているはずだ」
 銃口を揺らして「行け」という合図をする。
「分かりました」
 風田と名乗った男は手を挙げたまま後ろを向き、ハイブリッド・カーの方へ歩いて行った。大剛原もその後ろにいて歩く。
 確かに助手席には小学生の少年、後部座席に小学生の少女と高校の制服を着た少女が座っていた。彼ら一人一人から話を聞いた。風田の言った事とほぼ一致した。
(危険は無さそうだな……)
 ようやく大剛原は拳銃をホルスターに収めた。
「今度は俺から聞いてもいいですか?」
 風田が両手を下ろしながら言った。
「街はどうなっているんです? これから、どうなるんです? どこへ行ったら救助してもらえるんですか?」
「ふむん……」
 大剛原は少しのあいだ考え、風田の問いに答えた。
 警察署が〈噛みつき魔〉と化した警官たちの巣窟になっている事と、自分が同僚の妻を銃殺した事は黙っておいた。
 風田と似たような体験を話し、「現状、警察の力は期待できない」「警察であれ消防であれ自衛隊であれ、誰かが救助に来るという情報は無い」「自分は娘を連れて単独行動をしている」……この三点を付け加えた。
「そうですか……」
 風田は「予想していたが、残念だ」とでも言うように肩を落とし、溜め息をいた。
 風田と別れて自分のクルマへ戻りながら、大剛原は今聞いた事を頭の中で反芻した。
(猫が人間に噛みつくのか……)
 少年が見たという、猫に飛びつかれた警官とサラリーマンの話は新しい情報だった。
(それが本当なら、厄介な事だ……猫は木に登り、塀を超え、雨樋あまどいを伝い、家々の細い隙間すきまに忍び込む。そして何より素走すばしっこい。まともな猫なら人間が近づけば逃げていくが、噛みつこうと向かってくる猫を普通の人間が撃退できるものか、どうか)
 SUVに戻り、運転席のドアを開けた。自動的にルームライトが点灯し、助手席に座る娘の顔を照らした。
 中に入り、ドアを閉める。車内に闇が戻った。
「どうだった?」
 暗闇の中で結衣が聞いてきた。
「悪い連中では、なさそうだ。新しい情報も手に入ったしな」
「どんな情報?」
「これからは猫に近づくな。警官が猫に噛みつかれて人を襲うようになったらしい」
「猫って……それ、本当なの?」
「連中が言うには、だ」
 風田たちから聞いた話を父親は娘に伝えた。
「今の今まで、猫を恐ろしいなんて思ったこと無かったけど……」
 全てを聞き終えた直後、娘がうめいた。
「ある意味、人間より怖いかも」
「そうだな」
「このキャンプ場、大丈夫かな」
「あの風田という男が言うには、家猫は人里離れた場所では生きていけないんだそうだ。それから標高のある場所でも。どこまで本当か分からんが、な。キャンプ場ここは、せいぜい『小高い丘』程度の場所だが、それでも下界まちよりはだろう。……しかし万が一という事もある。クルマの外に出る時には用心したほうが良いかもな」
「用心って言われても……私、正直言って『猫から逃げる』自信なんて無いわ。まして撃退するなんて」
「そうだな。なるべく外へ出ないのが一番だ」
 言いながら、ある事に気づいた。
「そうか、それで、あのハイブリッド・カーは便所に近い場所に駐車しているのか。案外、抜け目の無いやつだな」
 特徴の無い風田の顔を思い出して言いながら、エンジンを始動させ、ゆっくりとハイブリッド・カーに近づき、真横に停める。
 助手席の向こうでハイブリッド・カーの窓が下りていくのが見えた。大剛原も助手席の窓を下ろす。風田がこっちを見ていた。
「最近、年齢としのせいか小便が近くなってな」
 大強原が言い訳をした。 
「少しでも便所の近くが良いと気づいたんだ」
 風田はニヤリと笑い「わかった、わかった」と言った風に手を振って窓を閉めた。
 それから親子はそれぞれのシートをリクライニングさせ体を横たえた。
 しばらくの間、二人とも黙っていた。
「トイレ行ってくる」
 結衣が言った。
 ドアを開けようとする娘を父親が制止した。
「ちょっと待て。これを持って行け」
 ホルスターから拳銃を出し、娘に渡す。
「ポケットの中に手を入れて、いつでも出せるように常にグリップを握りながら歩くんだ。ただし引き金には指を掛けるなよ」
 結衣がうなづき、車外へ出て、田舎風のデザインの公衆トイレへ向かった。
 十分ほどしてトイレから帰って来た結衣が助手席の窓をノックした。大剛原はロックを解除した。
 結衣がドアを開けるとルームライトが点灯した。中に入り、ドアを閉め、鍵を掛けた。
 再び暗闇に戻った車内から、ふと駐車場の入口を見た。こちらに向かって走ってくる人影が見えた。