ネタバレ! 「怪獣王ゴジラ」の感想。
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*ネタバレ!
*日本の初代「ゴジラ」に関するネタバレもあります。
1954年の初代ゴジラを編集して、アメリカで独自に撮影したシーンを付け足してアメリカで公開された「アメリカ版ゴジラ」
ハリウッドは、未だに白人(アメリカ人)が主人公ではない映画をアメリカでメジャー公開しない。
日本が舞台の話でも、何が何でも、主人公だけは白人男性じゃないと駄目っていうのは、何とかならんのか。
で、この「アメリカ版初代ゴジラ」こと「怪獣王ゴジラ」である。
日本の初代ゴジラの出来の良さに目を付けたアメリカの配給会社が、そのフィルムを切り刻み、アメリカで撮影したシーンを付け加えて、アメリカで公開したバージョンである。
なぜ、わざわざそんな事をしたのか。そんなに日本の初代ゴジラが良かったのなら、なぜ、それを直接アメリカのスクリーンで上映しなかったのか?
答えは簡単である。
主人公が白人男性じゃないからである。
それは今でも変わっていない。
なぜ、ハリウッドは世界中の優れた映画を自国の配給網に直接乗せずに、わざわざリメイク(作り直)して配給するのか。
主人公が白人男性じゃないからである。
まあ、それはともかく、この「アメリカ人によるアメリカ人のための再編集版初代ゴジラ」とは、いかなるものか。
あらすじ
アメリカの新聞記者スティーブ・マーティンは、エジプトのカイロに飛行機で向かう途中、大学時代の友人である芹沢博士に会うため、日本に立ち寄る。 空港で突然、警察によって身柄を拘束されたマーティン記者は、海上保安庁に連れていかれ、そこで「東京湾で突然船が沈没した」という謎の事件を知らされる。
以後マーティン記者は、ゴジラの出現と消滅までの一部始終を、アメリカの新聞社に報告することになる。
予想していたよりは、大まかなアウトラインに関してはオリジナルのストーリーに近かった。
メインのストーリーはオリジナルに近く、山根博士、娘の恵美子、恵美子の恋人の尾形、芹沢博士などの設定は変わらず、大まかな流れもオリジナルに準じた形で進む。もちろん、あくまで「大雑把な流れは変わらない」というだけの話で、細かく見ると相当改変されている。
アメリカ人が主人公と言っても、新聞記者として事件の顛末を傍観し、新聞社に報告するだけの役目である。ストーリーに積極的に関わって行くのはオリジナル同様、山根博士を始めとする日本人たちである。
主人公がアメリカの新聞社に送った記事という体裁で、所どころに主人公の説明ナレーションが入る。
予想していたよりは、オリジナルの絵が持つ「力」が残っていた。
改変によってオリジナルの画面が持つ凄みのようなものの大半が失われているのではないかと心配したが、特撮部分には充分に「凄い」と言える力が残っていた。
しかし、やっぱり編集し直されたことによるダメージは大きい。
当りまえだが、オリジナルのフィルムを切り刻んで、アメリカで勝手に撮影したシーンを無理やり貼り付けた事により、ストーリーのアウトラインは同じでも、オリジナルの持つ魅力の相当部分が失われている。
とくに私が重要だと思ったのは(つまり罪が重いと思ったのは)以下の2点である。
- 「核の象徴としてのゴジラ」という要素が抜け落ちている。
- 一番最後の山根博士の「これが最後のゴジラとは思えない、人類が核実験を続ける限り再びゴジラが現れるだろう」という有名なセリフが「脅威は去った。偉大な男と共に。世界は救われた」になっている。
核の象徴としてのゴジラという大事な要素がスッポリと抜け落ちている。
ストーリーのアウトラインそのままに、見事にゴジラのテーマ性が骨抜きにされている。
一説によると「核の申し子としてのゴジラ」というテーマ性がすっぽり抜け落ちてしまったのは、偶然そうなった訳では無く、アメリカ側の意図的な判断でそうなったらしい。
言われてみれば確かに、オリジナルのプロットの変更を最小限に留めながら「核」というテーマ性だけを抜くというのは、意図せずにそうなったというよりは、むしろ用心深くその部分だけを故意に無力化したと考える方が自然かもしれない。確信犯という事か。
なぜ、そうなったかと言えば、1950年代のアメリカはソ連との熾烈な軍拡競争に邁進していて「反核」というテーマは映画においてタブーだったから、という説がある。
オリジナルには「被災者の少女に医者がガイガーカウンターを突きつける」という大事な描写がある。
ゴジラが東京を破壊した翌日、避難所に逃げて来た被災者の少女に医者がガイガーカウンターを突きつけると、ガイガーカウンターの針が反応し、それを見た医者と助手をしていたヒロインの恵美子が顔を見合わせて「駄目だ……」みたいに沈鬱な顔になる、というシーンがある。
つまり、その被災した少女はゴジラによって放射能を浴びせられ、パッと見ると健康そのものだが、その体は既に放射能に冒されている、という痛ましい描写だ。
アメリカ版では、このシーンを冒頭に持ってきて、しかも主人公の新聞記者のナレーションをそれに重ねている。
ゴジラが放射能をまき散らしているという説明も何もない冒頭の段階で、しかも主人公の「けが人は病院に運び込まれた」という ナレーションが被さって、結果として、「少女にガイガーカウンターを突きつける」という象徴的なシーンが、単に「少女が医者から治療を受けている」というシーンにしか見えなくなってしまっている。
一番最後の山根博士のセリフが、アメリカ人記者の楽観的なナレーションに置き換わっている。
一番最後の山根博士の「これが最後のゴジラとは思えない、人類が核実験を続ける限り再びゴジラが現れるだろう」という有名なセリフが「脅威は去った。偉大な男と共に。世界は救われた」になっている。
最後の最後のセリフで、物語そのものの意味が180度変わってしまっている。
これでは、この物語の思想的な中心となる部分が完全に殺されてしまっている。
このゴジラという物語のキモは「核実験によって生み出されたゴジラという怪物を倒すには、核兵器以上に強力な武器を使うしかない、しかし一度でもその兵器を使ったら最期、それは軍拡競争に利用され、さらなる悲劇を生んでしまう」という事のはずだ。
つまり「目の前の悲劇を食い止めることそれ自体が、さらなる悲劇を生んでしまう。しかし、未来の悲劇を食い止めるために秘密を守れば、今、目の前で苦しんでいる人々を救う事は出来ない」という苦悩こそが、この物語のまさに「核」のはずだ。
だからこそ秘密を知っている恵美子は苦悩し、オキシジェン・デストロイヤーの開発者である芹沢博士は設計図を燃やし、ゴジラを倒すために一度だけ新兵器を使い、その新兵器によって自分自身の命を絶ったのだ。
そして最後に山根博士が「これが最後の一匹とは思えない。人類が実験を続ける限り、再びゴジラは現れるだろう」という言葉が、観る者に重くのしかかって来るのだ。
「もうオキシジェン・デストロイヤーは無い。芹沢博士も居ない。さあ、お前ら、2匹目のゴジラが現れたらどうする? 今すぐ核実験を止められるか?」と、突き付けてくるのだ。
ところがアメリカ版「怪獣王ゴジラ」の最後のセリフ「脅威は去った。偉大な男と共に。世界は救われた」では、物語の意味が完全に反対になってしまう。
「やっぱ、超兵器って素晴らしいよね。強力な敵が現れたら、その敵を倒すためにもっと強力な武器を作れば良いのさ。オキシジェン・デストロイヤー最高! 芹沢さん、あんたの勇敢な自己犠牲で世界は救われたよ! カミカゼ最高!」
みたいな話になってしまっている。
結論。
意外にも、大まかなプロットはオリジナルとそれほど変わっていなかった。
正直、観る前は「ハリウッドの事だから、白人の主人公が日本人のヒロインと恋人同士になって最後にキスをする、ってくらいのデッチアゲをしてるのかな?」といった疑心暗鬼があった。
しかし、おおまかな話の流れはオリジナル通りに進み、白人の主人公はあくまで傍観者に徹するという作りだった。
そして、大まかな話の流れが変わっていないにも関わらず、ゴジラという物語の一番大事な「魂」の部分は完全に殺されていた。