放浪剣士ゾル・ギフィウスと仮面の妖魔

2-10.粘液

 ミイルンは、少年からサッと身を引き、顔をしかめながら「ルッグ、あなた、くさいわ」と言った。

 ルッグはお嬢さまを見返しながら、首を横に振った。

「いいえ、お嬢さま、違います。この部屋全体がにおっているのです。いや、それも違う……臭っているのは」
 少年は、後ろを振り向いて部屋の扉を見た。
 そこで、やっとミイルンも気づいた。
「外? 部屋の外のにおいが扉の隙間から侵入しているの?」

 ミイルンの言葉にうなづき、ルッグは、さっき掛けたばかりの鍵を外し、真鍮製のドアノブをつかむと、部屋の扉を一気に引き開けた。

 ……もの凄い悪臭をたくわえた空気が、ブワッと室内に流れ込んできて、ルッグとミイルンの顔に当たった。
 二人とも、思わず一歩、二歩、と後ずさって顔をそむけた。

(な、何なんだ? この悪臭!)
 左の袖で口と鼻を覆い、一度に多量の空気を吸わないように気を付けながら(それでも悪臭は容赦なく鼻腔を襲ったが)ルッグは、おそる恐る、喫茶室から廊下へ出た。
 少年の後に続いて廊下に出たミイルンが、げほ、げほ、とせきをしながら、その合間に「な、何なの、これは?」と小さく言った。

 廊下の、喫茶室とは反対側の壁に並んだ窓の向こう側の世界は、部屋の窓と同様に、濃霧で満たされていた。

 その乳白色の霧で塗り潰されたような窓ガラスが、徐々に黒っぽい『何か』に覆われようとしていた。
 ガラスとさんの間から、窓枠から、何かドロリとした黒い液状のものがみ出ていた。

(まずい……これが何か分からないが……何か、とてつもなく、まずい)
 ルッグは本能的に、そう直感した。

 とにかくここから逃げようと、右を見た。

 廊下の突き当り、玄関のほうへ向かう角から、何か黒いぶよぶよした塊が現れ、こっちに向かってい寄って来た。
 その、廊下を塞ぐようにして徐々に近づいて来る黒い塊の表面に、突然、人間の体が浮き上がった。

「お……嬢……さ、ま……」
 黒いどろどろとした粘液の塊から出て来た人間の上半身が、口を開き、不明瞭な発音でミイルンを呼んだ。

 二十代の若いメイドの上半身だった。
 メイドの上半身は何故なぜか裸で、下半身は、どろどろの黒い塊の中に埋もれていた。
 その黒い塊ごと、若いメイドがこちらへ向かって来る。

 裸の上半身には、首筋にも、肩にも、腕にも、脇腹にも、黒くなった襤褸切ぼろきれのような物がまとわり付いていた。
(服? あの体にまとわりついているのは、服の切れ端なのか?)
 それを見て、ルッグは何故なぜか、くその塊の中にぽつぽつと残る未消化物の欠片かけらを思い出した。

「お……嬢……さ、ま……」
 廊下をふさいで徐々にこちらへ向かって来る黒い塊から裸の上半身だけを出したメイドが、もう一度ミイルンを呼びながら『たすけて』というように右手を前へ突き出した。
 その右腕が、ちょうどひじの所から、ぐずりっ、と崩れて、赤黒い粘液の糸を引きながら落ちた。

「ぎゃあああ」

 メイドの腕が廊下のゆかにボトリと落ちたのを合図にして、ミイルンの精神はついに最後の一線を越え、彼女は、半ば錯乱さくらん状態で、黒い塊とは反対側……『喫茶室』から出て左の方へ、スカートのすそひるがえしながら廊下を走って逃げた。

「お……お嬢さま……待って……」
 呆然としていたルッグは我に返り、走るミイルンのほうを見て、その後を追いかけた……いや、追いかけようとした……
 ……その瞬間……
 窓の隙間から黒いネバネバした液状の『何か』が、意志を持って一斉にミイルンに飛びかかった。

 少女は「ギャッ」と叫んで、体にまとわりついた黒い粘液を必死に引きがそうとするが、かえって両手をねばつきにからめ取られる格好になった。そうこうしているうちに、窓枠からゆかに流れ落ちた黒い粘液は、ゆかを這って少女の足首に絡みつき身動きが取れなくしておいて、その両あしをズルズルと昇って行った。
 足首……すね……スカートの中へと、ドロドロした物体が少女の脚を這い昇っていく。

「ひぐぅ!」
 突然、少女は甲高い声で叫び、嫌悪感と恐怖の混じり合った泣き顔をルッグの方に向けた。

 ……辿たどり着いたんだ……ルッグは思った。
 ミイルンの両足首から徐々にスカートの中へ昇って行ったあの嫌らしい『生きた粘液』が、とうとう、少女の中心部分へ辿たどり着いたんだ、と……本能的に悟った。
 ……今まで、何度も何度もルッグ自身を受け入れてきた少女の体の部分に、あの黒い粘液が辿り着いたんだ、と……

「た……たすけ……て……ルッグ」

 その少女の弱々しい声を聴く前に、ルッグの体は本能的に動いていた。
 右側の、メイドを飲み込んだ粘液の塊にも、左側で助けを呼ぶお嬢さまにも、黒い液体が滲み出す廊下の窓にも背を向け、もう一度『喫茶室』に駆け戻って扉を閉め、鍵を掛けた。
 ベチャ……ベチャ、ベチャ……
 扉を閉めると同時に、何か粘液状の物がその扉の裏側に貼りつく音がした。
 間一髪、あの黒いどろどろした物に襲われるのを扉で防いだんだ、と知った。

 とりあえず助かった、と、息をいた。

 同時に『閉じ込められてしまった』とも思った。
(廊下の窓とさんの隙間から入って来たという事は、いずれこの喫茶室にも侵入して来る)

 しかし、いつまでっても、あの奇怪な『何か』が喫茶室の中に入ることは無かった。