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禄坊家(その14)

 半分より少しせた月が、ゆるく流れる雲と地上の世界をボンヤリ照らしていた。
 月の下で、空も、地上も、薄青色に弱く光っていた。
 少し高くなっている玄関ポーチの敷石の上に腰かけて、美遥と亜希子は薄青の夜空と薄青の庭を眺めていた。
「ねえ……美遥おねえちゃん……『ういるす』ってあに?」
 七歳の少女が、十八歳の少女を見上げてたずねた。
「さ……さあ……」
 美遥が目をらしてはぐらかした。
「お祖父ちゃんとお祖母ちゃんも、『ういるす』になっちゃったの?」
「そう……かもね」
「『ういるす』治る? お祖父ちゃんとお祖母ちゃんの、『ういるす』治る?」
「そ、そうだね……た、たぶんね」
 その時、ガラガラという引き戸を開ける音が後ろから聞こえてきた。
「なあんだ……あんたたち、まだ、ここに居たの?」
 振り返ると、玲が戸口とぐちに立っていた。
 手に湯気の立つマグカップを持っていた。
「玲、あなた、何を飲んでいるの?」
 美遥が驚く。
「紅茶? コーヒー? そんな、勝手に飲んで良いの?」
「良いって、良いって」
「だって、食料品の無駄遣いはするな、って、風田さんが……」
「成り行きで私たちのリーダーになったからって、何でもかんでも風田さんの言う事を聞かなきゃならないって道理は無いでしょ」
「そんな……」
「ああ、そうだ、あんたたちのも持ってきてあげるわ」
「ええ? 良いよ別に……」
「亜希子ちゃんは、飲みたいよねぇ?」
「うん、亜希子ほしい~」
「あはは……美遥、あんたより亜希子ちゃんの方が正直だわ。良い女は正直じゃなくちゃねぇー、亜希子ちゃん」
「うん。亜希子、正直な良い女の子なの~」
 玲は戸を開けて家の中に戻り、下駄箱の上に自分のマグカップを置いて、奥へ消えた。
 しばらくして戻って来た玲は、左手の指にマグカップを二つぶら下げ、右手に湯気の立つ薬缶やかんを下げていた。
「さあ、これを持って」
 二つのマグカップをそれぞれ一つずつ美遥と亜希子に渡す。
 受け取った二人のカップに、右手の薬缶やかんからお湯を注いだ。
「さ、白湯さゆ?」
 注がれたカップの中身を見て、美遥が驚く。
「そう……ただのお湯。水道水……これなら、リーダー閣下に言われる筋合いは無いでしょう?」
「ま、まあ、そうだろうけど……」
「どう? 亜希子ちゃん……おいしい?」
「うーん……ただのお湯~」
「あはは……亜希子ちゃんは、そこも正直だなー。でも、私はそんな亜希子ちゃんが好きだよ」
「亜希子も玲おねえちゃん好き」
「ありがとう」
 そこで亜希子がファァーと大きなあくびをして目をこすった。
「あらら、亜希子ちゃん、眠くなっちゃった?」玲がたずねる。
「うん」
「まあ、聞くところじゃ、亜希子ちゃんは亜希子ちゃんで大変だったみたいだしね。疲れたんでしょう……じゃあ、もうそろそろ寝なさい」
「うん。そうする」
「玲おねえちゃんが部屋まで送ろうか?」
「大丈夫。亜希子、ひとりで行ける」
 立ち上がって、ほとんど飲んでいない自分のマグカップを玲に渡し、玄関の引き戸を開けて家の中へ入った。
「大丈夫かな?」
 美遥がつぶやいて、玲が「大丈夫でしょ」と答える。
「ここは勝手知ったる我が家……ならぬ、お祖父ちゃんの家だからね。女子の部屋には人数分の布団も敷いてあるし、適当に寝るでしょう?」
「それも、そうか」
「亜希子ちゃんて、可愛いよねぇ……なんか、妹が出来たみたいで新鮮だよ……たしか美遥も、私と一緒で一人っ子だったっけ?」
「うん」
「やっぱ、東京の両親の事とか、気になる?」
「そりゃあ……」
「美遥は、これからどうするつもり? 今朝けさ言った通り、東京を目指す?」
「うーん……でも、風田さんの様子だと、この屋敷にしばらく滞在するみたいじゃない?」
「風田さんは風田さん、私たちは私たちでしょう? 成り行きで一つのグループにまとまっているだけで、これからずっと一緒にいる保証も、必要もない……例えばの話、明日、私と美遥だけグループから抜け出して東京を目指したって良いわけだし」
「ええ? 玲? そんなこと考えてるの?」
「例えばの話よ。現実には……じゃあ移動手段をどうするのか、とか、本当に私たち二人だけで東京まで行きつけるのか、とか考えると、しばらくは動かずに様子を見るのが賢明だとは思っている。でもこのグループだってこの先どうなるか分からないし、いろいろ選択肢は考えて置いたほうが良いと思ってさ」
「もし玲が東京へ行こうって言うなら、私も同行するわ。実家がどうなっているかは、やっぱり気になるし……何と言っても玲と私は高校からの同級生だしね。気心も知れているし、今のメンバーの中では、一番信用できる」
「そりゃ、どうも」
「あくまで今のメンバーの中では、って話だけど。玲を完全に信用して良いかと聞かれたら……どうかな? 少なくとも男関係で信用できないのは間違いない」
「きついこと言うね。まあ、否定はしない。『女に真の友人は存在しない……とくに男がからむと』シャルル・ド・ゴール……」
「ド・ゴールさん、そんなこと言ったっけ?」
「チャーチルだったっけ? ルーズベルト? 何だったら棘乃森玲・談、でも良いわ。まあでも『利害が一致している間は、とりあえず味方』ってのも真実でしょ」
「なるほど……じゃあ『いい男に出会って、その男を二人で取り合うまでは』とりあえず、よろしくね」
 言いながら、美遥は玲に右手を差し出した。
「おう。よろしくな」
 引き戸の開く音がした。
 二人が振り返ると、大剛原結衣が立っていた。
「あんたたち、こんな所で何やってんの?」
 結衣が握手をしている美遥と玲を見て驚いた顔をする。
「女どうしで手なんかつないじゃって……まさか、百合ゆり……?」
「へっへっへぇ……バレた?」
 玲が、いきなり美遥の肩にガシッと腕を回した。
「良かったら結衣も仲間に入れてあげるよ」
「お断りします」
 め息まじりに答える結衣に、玲が、自分の隣の敷石をぽんぽんっと叩いた。
「まあ、座んなよ……これ、飲む?」
 玲がマグカップを差し出す。
「ただのお湯だけど。しかも亜希子ちゃんの飲み残しだけど。しかもぬるくなっちゃっているけど」
「それも、お断りします……って言いたいところだけど、もらっておくわ。のど乾いちゃったし」
 結衣が敷石に腰を下ろしながらマグカップを受け取る。
 座った結衣に、玲がたずねた。
「ねえ……あんた、これから、どうするの? これからも、ずっとこの『風田グループ』に居続けるつもり?」
「……ああ、なるほど……二人で、その相談か……玲と結衣は東京出身だもんね」
「どうするつもり?」と重ねて聞く玲に、結衣は「さあ、どうしようかな」とつぶやいた。
「正直、私は、父さんに付いて来ただけ……住んでいた警察官舎は〈噛みつき魔〉……じゃなかった……〈噛みつきウイルス〉感染者? に、占拠されちゃってる可能性が高いと思うし、私にはもう帰る家もないわ」
 言いながら、納屋と黒板塀くろいたべいの向こう……駐車場のある方向を見つめた。ブルーシートに包まれ軽トラックの荷台に放置されたままの、父親の遺体の方を。
「結局……父さんは、何のために死んじゃったんだろうな」
 つぶやいた結衣を、玲と美遥が見つめる。
「勘違いしないでね」結衣が振り返って、他の二人を見返して言った。
「禄坊くんと違って、私は隼人くんのお父さんも、もちろん隼人くん自身も恨んでは、いない……隼人くんの父親には会ったこともないし、かれ個人に恨みは無いわ。……父さんを撃ったのは頭のおかしな老人。……〈噛みつき魔〉は関係ない……ただ……」
 結衣は、膝を抱えた腕の中に自分の顔をうずめた。
「ただ……父さんの信じていたものって何だったんだろうな、って」
「結衣のお父さんの、信じていたもの?」
「父さんが最後に言った言葉、憶えている? ……『もし日本という国が存在するのなら……その可能性が少しでもあるのなら、私はまだ警察官だ。善良な市民を助ける義務がある』そう言って、わずかな可能性に賭けて、弾丸たまの入っていない拳銃を持って、父さんは車の外に出た……それなのに……日本をこんなひどい場所にしてしまったのが……自衛隊の研究……防衛省……日本政府……他ならぬだったなんて……」
 月を見上げた。結衣の濡れた瞳に、青白い月の光が反射した。
「人が居なくなっても、社会が無くなっても……世界って、相変わらず、こんなに綺麗きれいなのね……『国破れて山河在り、城春にして草木深し』……父さんの好きだったうたよ。でも父さんは『まだ日本このくにが滅びたと決まったわけじゃない』と言い、自分の信じる国と、社会と、正義のために死んだ……私は、ね……玲、美遥……」
 月を見上げたまま、結衣は言った。
「たとえ日本が滅んでしまったとしても、人口の百分の一でも、千分の一でも、万分の一でも、人間ひとが残っている限り、この土地には、いずれ新たなクニが、社会が生まれると思うの。そして、その新たなクニには、新たな『正義』が生まれるわ……私は、それを見届けたい。父さんが信じたものの、その向こうに何があるのかを知りたい……いま思っているのは、ただ、それだけ……」