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禄坊家(その3)

「親父……お袋……何で……」
 よたよたとした足どりでこちらに歩いてくる初老の男女を納屋の陰から見つめながら、禄坊ろくぼう太史ふとしうめく。
 誰かが禄坊の肩をつかんだ。風田かぜた孝一こういちだった。
「禄坊くん、逃げよう……残念ながら、あの二人は既に……手遅れだ」
 禄坊の答えを待たず、風田が裏木戸へ向かって走り出した。
 ……その時……
 突然、玄関の引き戸が開いた。戸の間から出てきたのは……幼い少女だった。
太史ふとしお兄ちゃん!」
 小学校一、二年生くらいに見える少女が、禄坊に向かって叫ぶ。
「ア……アキちゃん……居たのか……」
 驚く禄坊の目の前で、少女の声に反応し、男の〈噛みつき魔〉……父親……が、一瞬立ち止まった。
 そして、くるりと振り返り、少女の姿を見て、また玄関の方へ戻りだした。
「アキちゃんに何をするつもりだ……親父、やめろっ、それだけは絶対に、駄目だ!」
 女の〈噛みつき魔〉……母親……は、少女に関心が無いのか、禄坊に向かって歩き続ける。
 足元でアルテミスが禄坊の母親に向かって吠えた。……しかし猟犬は一定の距離を置いて吠えるだけで、〈噛みつき魔〉に攻撃することは無かった。
「アキちゃん! 戻れ! 家の中に戻って鍵を掛けろ!」
 禄坊は叫び、銃を構えた。
 〈噛みつき魔〉になった母親、父親、そして玄関の少女が、禄坊の構えた銃の射線上に一直線に並んでいる。……誰を狙っているのか、狙った禄坊にさえ分からなかった。
「ちぃっ!」
 無我夢中で納屋の陰から飛び出し、体を〈噛みつき魔〉たちにさらしながら、一面芝生しばふを敷き詰めた前庭の真ん中あたりまで走る。られて母親が方向転換をし、庭の真ん中に立つ禄坊へ向かって歩いた。
 庭の真ん中に立てば、自分に迫る母親、少女に迫る父親、そして玄関に立つ少女の三者それぞれが別々の射線上に位置することになる。
 それは同時に、〈嚙みつき魔〉と化した母親が、自分と裏木戸の間に立ち、逃げ道が断たれる事を意味した。
(構ってられるか!)
 少女に迫る父親を止める……それが最優先だ。
「親父ぃぃぃ! やめろぉぉぉ!」
 息子の叫び声もむなしく、男の〈噛みつき魔〉は、玄関に立つ少女への足を止めなかった。
 再び銃を構える。銃口の先には……〈噛みつき魔〉と化した父親。
(撃つのか? 親父を? 自分の父親を?)
 無意識に父親の頭部へ向けていた銃口を下げ、下半身へ向ける。
「アキちゃん! 中に入れ! 鍵をめろ! 早くっ」
 何を迷っているのか……それともパニックなのか……少女の体は動かなかった。
 一歩、一歩、禄坊の父親が少女に向かって歩いて行き、母親が禄坊へ向かって歩いて来る。
「親父ぃぃぃ!」
 食いしばった歯の間から叫び声をあげ、禄坊は引き金を引いた。
 ……ダァァァン……
 轟音が杉の林に反響こだまし、撃ち出された鉛の塊が、男の〈噛みつき魔〉の右膝みぎひざを破裂させた。
 破壊された右足に体重を乗せようとして、そのまま支えを失い、〈噛みつき魔〉は芝生の上に前のめりに倒れた。
 それでも〈噛みつき魔〉は
 腹ばいになり、使い物にならなくなった足の代わりに両腕をぐようにして、匍匐ほふく前進の要領で少女の立つ玄関へって行く。
 足を使って歩いていた時より、むしろ速いくらいだった。
 禄坊がもう一度、少女へ向かって叫ぶ。
「アキちゃん! 家へ入って鍵をめろ!」
 その禄坊に母親が迫る。
 猟銃を母親に向けた。
 その銃身の銃口付近を女の〈噛みつき魔〉が両手でガッシリとつかむ。
 もの凄い握力だった。 
 振り払おうとしても振り払えない。
「お……お袋……」
 目の前にあるのは、確かに見慣れた母親の顔だった。
 見慣れた母親の顔であると同時に、目をどろんとにごらせ、口の周りを血で真っ赤に染めた凄まじい形相は、とても人間のものとは思えなかった。
 〈噛みつき魔〉は、ちょうど胸の高さで銃身をつかんでいた。このまま引き金を引けば、至近距離から確実に心臓を撃ち抜けるだろう。
 ……しかし……
(む……無理だ……目の前にお袋の顔があるのに……こんな至近距離から……)
 銃身を振り、力いっぱい引っ張る。
 ……びくともしない。
 大学生の男が、五十過ぎの母親に力負けしていた。
 視界の端に、家の中へ入って戸を閉める少女の姿が映った。
 その直後、玄関まで這って行った〈噛みつき魔〉が引き戸の格子に指を引っ掛ける……が、既に鍵のかけられた格子戸は動かなかった。
(アキちゃんは……ま、間に合った……のか)
「銃を捨てろ!」
 どこかで声がした。
 銃口近くをガッシリと持って離さない母親の肩越しに、裏木戸から叫ぶ風田の姿が見えた。
「銃を捨てるんだ! 禄坊くん!」
 言われてハッと気づき、母親に銃身をつかまれ引っぱってもビクとも動かなかった銃を、逆に、銃口で母親の胸を突くようにして思い切り押し出す。
 不意をつかれ、反動で、母親の〈噛みつき魔〉が尻もちをつくように後ろへ倒れた。
 禄坊はそのまま銃から両手を離し、銃をつかんだまま尻もちをついている母親をけるように大回りして、全力で裏木戸へ向かった。
 木戸から外へ飛び出す。
 続いて、禄坊を追いかけてきたアルテミス。
 犬が外へ出ると同時に、外で待っていた風田が左手で戸を閉め、右手に持っていた鍵を素早くシリンダーに差し込んで回し、抜いた。
 鍵のかかる「カチリ」という音を聞いて緊張のゆるんだ足から力が抜け、禄坊は黒板塀くろいたべいに寄りかかったままズルズルと体を落としてその場にしゃがみ込んでしまった。
「……待っていてくれたんですね」
 額の汗を手の甲でぬぐいながら、禄坊が言った。
「は?」という顔をした風田に、禄坊が言いなおす。
「さっさと木戸に鍵をかけて逃げた方が安全だろうに……」
「馬鹿言うな……我々のグループで唯一、銃の扱い方を知っている君は、大事な戦力なんだよ……つまり『役に立つ男』って事だ……そうそう簡単に見捨てりゃせんさ」
「ああ、そうですか……」
 しばらくして、『誰か』が内側から裏木戸のノブをガチャガチャと動かした。
 鍵のかかった裏木戸は、開かない。
 女の〈噛みつき魔〉……禄坊の母親だろう。
「……お袋……」
 やりきれない気持ちが込み上げてきて、禄坊は両手で顔をおおった。
 不思議と、涙は出てこなかった。