ハーレム禁止の最強剣士!

鬼の棟梁、昼間から酒を飲む。

1、ヤツェク・メンネゼレ(九年前)

 アラツグとエレアナ・スタリヤァーが出会った日からさかのぼって、九年前のある晴れた春の正午過ぎの事。
 計画から数えて数年に及んだサミア公立博物館・東館の全面改修工事が、そろそろ大詰めを迎えようとしていた。
 あと二ヶ月もすれば、建物全体を覆うおりのような建築足場あしば綺麗きれいに撤去され、お色直しをしたグリフォン展示ホールの外観がいよいよ市民の目にさらされることになる。
 その足場の基部にしゃがみ込んで何かを確かめている初老の男が居た。
 ヤツェク・メンネゼレ。建設から九十年を経て初めて行われるこの大規模な改修工事を一手に引き受ける建築集団スタリヤァー組の棟梁代理だ。
 ヤツェクは思いつめた表情で立ち上がり、周囲を見回した。
 昼休み時で、足場に上がって作業をしている人間は居ない。
 よく晴れた春の温かい日差しの下、少し離れた空き地で弁当を開けている職人がポツリ、ポツリと居るだけだ。
 ほとんどの者は博物館敷地内に臨時に建てられた飯場はんばで休んでいるのだろう。
 もう一度、足場を見上げ、ヤツェクは棟梁のダルコ・スタリヤァーに会うため飯場へ足を向けた。
 足早に資材置き場を通りぬける途中、その場所で飯を食っていた職人たちに向かって「午後の作業は一時中止だ。しばらく現場には近づくな。足場に乗るな。他の者にも伝えろ」と大声で叫んだ。
 棟梁の許可なしの勝手な判断だが、安全第一だ、と自分に言い聞かせる。
 飯場に入り、飯を食ったり雑談をしている職人たちの間を通りぬけ、奥の「臨時棟梁事務室」と書かれた扉を叩いた。
 わずかの間があって、「入れ」という声が扉の向こうから聞こえた。
 中に入って扉を閉めたところで、机の向こう側に座る棟梁と目が合った。
 サミアでも業界五指の建築集団スタリヤァー組の棟梁、ダルコ・スタリヤァー。
 仕事に対し、部下に対し、そして何より自分自身に対し桁外れに高く厳しい基準を求めてきた男。
 おそれられると同時に、同じ量だけ尊敬されしたわれていた統率者。
(……いや、いま目の前に居るのは…………抜け殻だ……)
 薄っすらと赤く充血した目で机の向こうから自分を見返す無精髭の男に、ヤツェクは憐れみと軽蔑、そして怒りを覚えた。……俺は今まで、こんな男に仕えてきたのか、と。
 飯場には似合わない高価な事務机の上に、飯場には似合わない高級蒸留酒の瓶と、陶器のカップがあった。
 ヤツェクは、そんなものを職場に持ち込む上司の神経……しかも、それを隠しもせずに部下である自分の目の前に堂々とさらす神経を疑い、どのみち酒瓶とカップが無かったとしても棟梁のドロンとにごった瞳と赤みを帯びた頬を見れば一目瞭然か、と思い直した。
(都市国家サミアにダルコあり、とまで言われた男が……わずか半年で……落ちたものだな)
「どうした?」
 棟梁がヤツェクにたずねた。
 ヤツェクは一瞬の物思いから我に返り、机の向こうの老人に答えた。
足場あしばの基部に劣化が見られます」
「足場?」
「はい」
「あの足場を組んでから随分ずいぶん経つからな。多少、経年劣化をしていたとしても、おかしくは無いだろう」
「一つや二つではありません。私が一人で確認しただけでも十三箇所ありました。ちゃんと調査すればもっと出てくるでしょう……今回のプロジェクトが長期というのは足場あしば業者も周知の話です。そのための定期メンテナンス契約も取り交わしている。……にも関わらずこれだけ多くの劣化が見つかるということは……業者が基準に満たない粗悪品を納入していたか、定期メンテナンスを規定通り行っていなかったか、あるいはその両方の可能性が高い。……いずれにしろ、あの足場は危険です。勝手ながら私の判断で、午後の作業は全て中止するように現場に言っておきました。すぐに業者を呼んで総点検させ、劣化部分を補強させるべきです」
「足場を総点検、だと? おいおいヤツェク、勘弁してくれ……仮に、お前の言うとおり十数カ所だか数十カ所だかに劣化が見つかったとして、それを一つ一つ補強して……その間、作業はどうなる?」
「中止して待つしか無いでしょう。安全が確認された所から順に作業を再開するより方法が無いと思います」
「工期は、どうなる? ただでさえ遅れがちなのに、これ以上延ばすのか?」
(遅れているのは、あんたが半年前から事務所に引きこもってんだくれているからだろう! 棟梁のあんたが!)
 ヤツェクは喉まで出かかった怒りをやっとの思いで押し殺す。棟梁が事務所に引きこもって半年。そのあいだ現場が混乱し続けていると認める事は、棟梁代理たる自分の不甲斐なさを認める事でもあった。
 その時、ノックもせずに扉を開けて誰かが部屋に入ってくる気配がした。
 ヤツェクが振り返ると同時に、幼い少女がヤツェクの脇をすり抜けて棟梁の元へ駆け寄った。
 世界中で、たった一人、許可も得ずに鬼のダルコ・スタリヤァーの部屋に入れる人物。
 半年前に馬車の事故で亡くなったダルコの息子夫婦の一人娘。
 ダルコにとって、交通事故で死んだ一人息子が残したただ一人の忘れ形見だった。
「おじいちゃん、お昼ごはん持ってきたよ」
 少女……エレアナ・スタリヤァーが手に持った籠からか紙袋を取り出して棟梁に渡した。
「今日は刻みサラミのサンドイッチと、玉子のサンドイッチと、チーズのサンドイッチだって、ノヴァックさんが言ってた」
 ノヴァックというのは、スタリヤァー家に勤めている家政婦のことだろう。
「ほほう……それは美味うまそうだな……レンカ、いつもいつも、お祖父じいちゃんのお昼ごはんを届けてくれて、ありがとさん。……でも、決して一人で歩いて来ちゃ、駄目だよ。通りは危ないからね。猛スピードの馬車が沢山いるんだ」
「うん……分かってるよ。ちゃんとノヴァックさんと一緒に来ているよ」
「ノヴァックさんは、何処どこだい?」
「『たちいりきんし』っていう看板の外で待ってる」
「心配するといけないからね。ノヴァックさんの所へぐに戻るんだよ」
 祖父と孫娘の会話を邪魔したくは無かったが、今回は現場全体の安全性に関わる問題だ。ヤツェクは、あえて二人の間に割って入った。
「棟梁」
 自分を呼ぶ声に、一瞬、だるそうに部下を見たあと、すぐにダルコ・スタリヤァーは孫娘の顔へ視線を戻した。
「ほうら、レンカがちゃんと挨拶あいさつをしないから、メンネゼレのおじちゃんが怒ってるぞ」
 八歳の少女は、祖父に「はい」と返事をして、ヤツェクに向き直り、「メンネゼレさん、こんにちは」と言いながら、ちょこんと頭を下げた。
「棟梁!」
 話題をらそうとする上司を再度呼ぶヤツェクの声には、さすがに苛立いらだちの色があった。
 これ以上、孫との水入らずの時間を邪魔するな……とでも言いたげに、ダルコ・スタリヤァーは部下に向かって手を振った。
「分かった、分かった……足場の件は、お前が何とかすれば言い。作業中止だろうと、足場の総点検だろうと、お前の好きにしろ」
 アル中の上司から言質げんちを取り付け、「わかりました」とうなづいて事務室を出ようとするヤツェクを、そのアル中の上司が呼び止めた。
「ああ……それから万が一にも納期が遅れるようなら、発注主には、お前から説明するんだぞ。今回のプロジェクトは都市国家とブルーシールド財団の共同だ。役所の方は何とでもなるだろうが……財団の方は、一筋縄ではいかないと覚悟するんだな。追加経費は全額の持ち出しにしろ……などと言われては、たまらん」
 納期遅れはお前の責任なのだから、お客様にびを入れて来い、ついでに経費増も認めさせて来い、と、そう言っているのだ。
 怒りで顔が赤くなるのを自覚しながら、再度「わかりました」と言って、ヤツェクは事務室の扉を閉めた。

2、イェジィ・ラス

 事務所を出てぐに、ヤツェクは食堂中に響く大声で「みんな聞いてくれ!」と叫んだ。
 その場にいた職人たちの視線が、ヤツェクに集まる。
「今日の午後から、作業を一時中断する!」
 職人たちは、最初に戸惑い顔をヤツェクに見せ、次にその顔のままテーブルの隣の席に座る仲間と顔を見合わせた。
「足場に問題が発生した。明日から……いや、今日の午後から足場業者を呼んで総点検させる。安全が確認できるまで工事は中止だ。勝手に足場に近づくことも禁止する」
 職人たちのささやき声が、ざわざわざわ……という騒音になって、食堂に満ちた。
「静かに!」
 ヤツェクの声に、騒がしくなり始めていた空気が、再び、しん、と静まった。
 ……突然、棟梁の部屋の扉が開く気配がした。
 振り向くと、ダルコ・スタリヤァーの孫娘が、扉の向こうから現れ、皆が注目する中、水を打ったように静まり返った食堂を小走りに横切り飯場の外へ消えた。
 ヤツェクはグッと奥歯をみ締めた。
 大人なら怒鳴りつけて手近にある物を投げつけている所だが、相手が幼い女の子……まして棟梁の孫娘では、黙っているしかない。
 気を取り直して、説明を続ける。
「現状のまま作業を続けるのは非常に危険だ。重大な事故を未然に防ぐため、工事の中断は仕方のない事と理解してほしい……足場業者による点検が終了し安全が確認され次第、作業を再開する。再開の目処めどが付いた段階でみなには郵送その他の連絡手段で知らせる。悪いが、それまで自宅待機ということにさせてもらう」
 静かになっていた食堂が、再び騒がしくなり始めた。
 ……当然だ……と、ヤツェクは思う。
 職人たちの給料は、基本、日割り計算だ。急な中止命令で身体からだを休められるのは良いが、そのぶん月末に支払われる金は減る。当たり前の話だが、皆、生活が掛かっている。
 その事は、ヤツェクとて分かっている。痛いほどわかるからこそ、ここはえて有無を言わさぬ強い口調で宣言することにした。
「もう一度言う。今からサミア公立中央博物館東館の改装工事は一時中止だ。いつ再開できるかは、今のところ不明だ。目処めどがつき次第、こちらから連絡する。この飯場も一時閉鎖する。支払い、連絡先の登録その他の手続きは事務所の方で行う。以上だ!」
 それっきり、棟梁代理のヤツェクはギュッと口を横一文字に閉じて、その場に居る皆を鋭い眼差しで見返した。
『反論は許さない』と意思表示したつもりだった。
 我ながら少々芝居がかっているか、とも思うが、ここは一方的かつ強引に押し切るしかない。
 やがて、一人、二人と椅子から立ち上がり、出口に向かう者が現れた。
 飯場を出て行く者の数は徐々に増え、ヤツェクが入って来た時には八割埋まっていた食堂が、あっという間に、数人が残るだけのガランとした空間になった。
 残った者も長居は無用とばかりに、黙々と飯を口に運んでいる。
「棟梁代理、ちょっと、よろしいでしょうか」
 その声に振り返ると、銀縁の眼鏡をかけた細面の中年男がいつの間にかヤツェクの直ぐそばに立っていた。
 スタリヤァー組の事務を仕切っているイェジイ・ラスだ。
 普段は、事務所に居て現場に来ることは滅多に無かった。
「なんだ、イェジイか……現場こっちに来ていたのか」
「ええ……棟梁の承認がどうしても必要な案件があったものですから……用事が終わったら昼時で、これから事務所に帰っても遅くなるし、じゃあ現場こっちで食べていこうと思いまして……そしたらメンネゼレさんが棟梁の部屋に入って行くのが見えた、と言うわけです」
「そうか……なら、今の話は聞いたな? そういう事になってしまった……済まない……余計な事務処理でわずらわしてしまうと思うが、よろしく頼む」
「それは、良いんです……仕方がない……万が一、大きな事故になった時の損害を考えれば、大したことはありません……いや、実は、声をかけたのは別の件でして……他でもない……棟梁自身の事です……」
「棟梁の事?」
「ええ……事務室に入った時、ぷんっとにおいませんでしたか?」
「匂い? 酒の事か?」
「私ごときがこんな風に言うのは良くないかもしれませんが、正直、今の棟梁は。昼間から現場の仮事務室で酒浸りなど……」
 それは、ヤツェク自身が棟梁に会うたびに思っていたことだ。
 しかし、自分自身がそう感じていても、他人から非難されると、長年つかえてきた上司を急に弁護したくなった。
「多少は仕方がないだろう……奥さんを大分だいぶ前に亡くして再婚もせず男手ひとつで育ててきた一人息子を、半年前に突然事故で失ったばかりなんだ……」
「それは……理解できます……何しろ、アカデメイアを相当優秀な成績で卒業したって噂だし、サミアの役所でも同期の中じゃ出世頭だったらしいし……あの棟梁が何かって言うと自慢していた息子さんだ……それなのに……その優秀な息子さんが、美人の嫁さん共々突然、この世界から居なくなったんですから」
「だから……」
「酒に溺れても仕方がない……ですか?」
「まあ、な」
「しかし、どんな事情があろうと、指導者自ら規律を乱すのは、いかがなものでしょうか?」
「……」
「事務所にいても、最近のの緩みっぷりは目に余るという現場の声は聞こえて来ます」
 だったら、どうすれば良いというのだ? 俺にどうしろと? ……ヤツェクは、どうしようもない事情を知りながら正論を吐く男に苛立いらだった。
「それと……」イェジィ・ラスが言葉を続けた。「孫娘のエレアナちゃんのことですが……」
「レンカちゃんが、どうした?」
「これも、たまたま事務所に来た職人から聞いた話ですが……このところ、毎日、お弁当を棟梁に届けに来るらしいじゃないですか……現に、さっきも……」
「ああ。……それが、どうした……」
「実は、お弁当を渡したあとぐに帰らずに、しばらく現場をウロウロしているらしい」
「何だと!」
「昼飯時……作業をしていない間の、ほんのわずかな時間らしいのですが……それでも……棟梁の孫とはいえ、部外者、まして子供が勝手に現場に立ち入るのは、どうかと……」
「それは、本当の事なんだろうな? しかし、いかに昼飯時とはいえ、誰かしらは現場の近くに居るだろう? 注意する者は一人も居なかったのか?」
「ええ……一度、棟梁に報告というか意見した職人が居たそうですが、血走った目でにらみ返されたそうです。それっきり、誰も何も言わなくなったらしくて……」
(なんと言う事だ……)
 ヤツェクは初めて聞かされた事実に驚く。
 昼時はいつもこの飯場の食堂か近くの飯屋でゆっくり昼飯を食べることにしていた。さっきのように、エレアナが棟梁に弁当を届けて飯場を出て行く所を何度か目にしては、いた……しかし、まさか、少女がまっすぐ帰らずに現場の周囲をうろついていたとは……
 突然、どぉん! という轟音と地響きが、仮設の飯場を揺らした。
「なんだ?」
 イェジィが怖そうに周囲の壁や天井を見回す。
「東館だ……建設現場の方だ……」
 そうつぶやきながら、ヤツェクは、もう飯場の出口に向かって走り出していた。半ば無意識の行動だった。
 嫌な予感がした。