リビング・デッド、リビング・リビング・リビング

発生。(その19)

 日が沈み、周囲が急速に暗くなる頃、大剛原おおごはら親子の乗る小型SUVは市街地から田園地帯に入った。
 県道の先には低い丘が連なっていた。
 官舎を出てからここまで、親子は一言も口を利かなかった。
 ……いや一度だけ、夕日に赤く染まる都市まちのあちこちで人と人が互いに食い合うさまをクルマの窓から驚きの目で見つめる娘に、「もう警察われわれにも、どうにもならん」と低い声で言った。
 娘の結衣ゆいから話しかける事は無かった。
 官舎のエントランス・ホールで隣の部屋に住む同僚・山村の妻に突然襲われ、その山村の妻を自分の父親が撃ち殺し、父は自分を連れ去るようにしてクルマに押し込み官舎を飛び出した。そして街で繰り広げられる血まみれの噛みつき合い。
(ショックで気持ちの整理がつかず、何を言ったら良いのか、何を聞いたらいいのか分からない……と言ったところか)
 大剛原おおごはら栄次郎えいじろうは娘の心理をそう分析した。
 混乱の始まった街の通りをすり抜け郊外を目指すあいだ、静かに助手席に座っていてくれるなら、それは大剛原にとってもありがたかった。
 田園地帯の真ん中を走る県道に出て、やっと少しだけ緊張がやわらいだ。
 娘に話すなら今だと思った。
「今このまちで一体何が起きているのか、知りたいか?」
 助手席の窓をぼーっと見ていた結衣に声をかけた。
 結衣が振り返って運転席の大剛原を見た。
「私にも何が何だか、さっぱり……というのが正直な所だが、分かっている範囲で話そう。今日見聞みききした全てを、な」
 そして、突然無線が使えなくなったところから警察署での出来事、歩道を歩いていた男に酒屋の亭主が噛みついた事、噛みつかれた男も立ち上がって大剛原を襲おうとした事、少年と老婆、交番で全身を噛まれていた警察官、山村の妻……すべてを娘に話した。
 さんざん街の惨状を見せつけられた後だったせいか、結衣は、さほど驚くこともなく、淡々と語る父の言葉を黙って聞いた。
「……噛まれた人間が、噛む側にまわる……」
 父の話を聞き終わった直後、結衣がつぶやいた。
「そうだ。そうして他人に噛みつく人間の数が爆発的に増えていく」
「原因は何なの? 対処法は?」
「分からない。今はとにかくとしか言えない。とくに口の周りを血で染めて、うつろな目で夢遊病者みたいに歩く人間には、な」
「人間に近づくな、て言われても……」
 数秒間、言おうか言うまいか迷うように大剛原は口を閉じた。そして決心したように話し始めた。
としのせいか昔のことを良く思い出すようになってなぁ……特に小学生だった頃を思い出すよ。当時、学校の先生が『人間は皆、生まれながらにして平等だ。誰の命でも等しく大事なんだ』と言っていた。昨日までは恩師のその言葉に、これっぽっちも疑問を抱かなかったが……世の中がなってしまって初めて分かった。……人間は自然天然生まれながらに平等なんじゃない。なんだ」
「維持されていた?」
「そう。電気がそうであるように、水道がそうであるように、医療や、交通機関や、その他多くの便利な公共物と同じく、『自由』や『平等』や『命の尊厳』も、どこかで誰かが多大な努力を払うことで維持されて来たんだよ。……昨日までの我々はその事に気づかず、呑気のんきに『蛇口をひねれば水が出るのは当たりまえ』『スイッチをひねれば電気がくのは当たりまえ』『人間の命が大切にされるのは当りまえ』と思ってきたんだ。……だが、これからは違う……
「人によって命の重さが違うなんて、そんな……」
「街中をクルマで走りながら、私は、噛みつかれ血を流している人々に対し『見て見ぬふり』をしてきた。もはや彼ら全員を救う能力は警察には無いし、まして私個人にあるはずがないからな。……ならば私に出来ることは何か? 目の前にいる人間の命をはかりにかけ、天秤てんびんに載せ、『守りたい人』と『そうでない人』をしていくしかない」
「……」
「こんなことを聞かされるのは迷惑かも知れんが、な。結衣、今日、私は決意した。
他の誰を見殺しにしても、お前だけは守る。たとえ、そのために誰かの命を奪うことになっても、お前の命だけは父さんが必ず守る」
 大剛原は横目で助手席の娘を見た。
「多大な労力を払って市民の命を『平等に』守ってくれるものは、もうこの都市まちには存在しない。……それぞれが、それぞれの大切な人を……大切な人『だけ』を守るしかないんだ。例えそのために他の誰かが犠牲になったとしても、それは仕方の無いことなんだ。……私は結衣の命を守るために、同僚である山村の最愛の妻を射殺した。逆の立場なら、山村は妻のために迷わず私やお前の命を奪ったはずだ」
「そんな……」
「だから結衣、必ず生き延びろ。誰を犠牲にしても、誰の命を奪っても、お前だけは生き延びろ」
 フロントガラスの向こう、ヘッドライトに照らされた県道を見つめながら、自嘲気味に大剛原は言った。
「こんな事を言う男は、警察官としても父親としても失格だろうが、な」

 * * *

 ヘッドライトの光が、色あせた看板を照らした。
「N市市営〈丘の上キャンプ場〉、ここから三キロメートル」の文字。
「キャンプ場か。良いかも知れん」
 つぶやいて、大剛原はハンドルを切った。
「今日はキャンプ場の駐車場で車中泊をするぞ」
「……うん」
 山道を登る。
 ヘッドライトに照らされ、三人の若者の姿が浮かび上がった。
(我々と同じことを考える奴が居たんだな)
 大剛原は心の中で舌打ちをした。
(人間の集まる場所は出来るだけ避けたいが……)
 助手席で結衣が驚いたような声を出した。
美遥みはる!」
 そして運転席の父に言った。
「お父さん、クルマを停めて! あの中に大学の知り合いが居たの」
 同じ学年、学部も学科も同じ。当然のように、かなりの講義が重なった。そのうち教室で話すようになり、お互いそこそこ気が合う事が分かった。
 結衣はスラリとした長身とボーイッシュな服装の好みから、他人からはサバサバした性格だと想われがちだが、案外ロマンチックな所もあると自分では思っていた。一方、志津倉しづくら美遥みはるはお嬢さま風のロマンチックな服を好み、話下手で思案じあんな所もあるが、ここぞという所でハッキリした物言いをする事があり、結衣を驚かせた。
 森の中の暗い夜道。志津倉しづくら美遥が大学生らしき男女と道端に立っている。
「駄目だ。停車できない」
 大剛原が言った。
「なんでよ?」
「さっきも言ったはずだ。世の中がこんな風になってしまった以上、もはや他人を助ける余裕など無い。大学の友人だろうが職場の同僚だろうが、一人助ければ二人、二人助ければ三人と、助けるべき人間は際限なく増えていく……どこかで『線引き』をしなければいけない……だったら、いっそ『自分の家族以外は助けない』と決めてしまった方が楽だ」
「そんな……」
 言っているうちに大学生たちは遠ざかり、暗闇の中に消えた。
 さらに、しばらく山道を登り、「N市市営〈丘の上キャンプ場〉はこの先五百メートル」という看板が見えてきた。矢印の方向にハンドルを切る。
 前方に駐車場らしき場所が見えてきた。
 先客が居た。アメリカン・タイプの大型バイクに、ハイブリッド・カー。そのどちらとも距離を置く形で小型SUVを停めた。
 相手の素性が分からない以上、下手に近づく訳にはいかない。
 ルームライトをけ、ホルスターから拳銃を取り出した。
 ランヤード・ストラップを外し、車外から見えないように用心して助手席の結衣に見せる。
「使い方を教えるから、覚えておけ」
「ええ? 私が?」
「万が一のためだ……なに、簡単なことさ。この撃鉄を引き起こし、あとは引き金を引くだけだ。撃鉄を起こさず引き金だけでも撃てるが、その場合は指の力が必要だし、引きしろも長くなってしまう。だから撃鉄は起こしてから撃った方が楽だ。ただし、通常は撃鉄を寝かせておけ。起こしたままにしておくと、ちょっとした衝撃で暴発してしまう。……それから、親指の所にあるボタンを前にスライドさせるとロックが外れて弾倉が横に出て来る」
 言いながら、実際に弾倉をスイング・アウトさせ、イジェクター・ロッドを押して中の弾丸たまを右手に出した。
 五発中三発が空薬莢。未発射の弾丸は二発しかない。空の薬莢をポケットに仕舞い、残りを再装填して弾倉をロックする。
「今日すでに三発撃ってしまった。予備の弾薬は無い。あと二発しか撃てない事を忘れるな」
 結衣がうなづいた。
「よし。ポケットに入れてみろ」
 窓の外から見えないようにして、結衣に渡す。結衣はジャケットのポケットに入れてみた。少しはみ出る。
「……だめか」
 父親が溜め息をいた。
「まあ、これは握りグリップが延長された日本警察仕様だからな。仕方が無い」
 拳銃を受け取り、ホルスターに仕舞い、ルームライトを消す。
 その時、ハイブリッド・カーの運転席から男が出てきた。
 駐車場を横切り、ぐこちらに向かってきた。