デッド・ファクトリー・マサカー

第1話「土砂降り、夜のバス」

 十一月最後の金曜日。
 夜七時五十分に講義が終わり、八時少し前に学習塾を出た。冷たい風がビュウゥと吹いて、セミロングの髪を乱した。サトミは右手でマフラーをずり上げながら冷たい夜空を見上げた。天気予報によれば今夜は雨になるらしい。家に着くまで……せめてバスに乗るまでは降らないで下さいと祈りながら、左手にカバン、右手に傘を持って足早に駅前の停留所を目指した。
 日本中のどこにでもあるような、中規模の地方都市。
 多少はにぎやかな駅前からバスに乗って中心街を抜けて、だだっぴろい田んぼの真ん中を走る国道をしばらく行った先に、サトミの家はあった。
 駅前のバス停に着いた所で時計を見ると、発車十五分前だった。既に十数人が停留所に並んでいた。同じ講義に出ていた高校生も何人か居た。
 列の一番前の少年が気になった。
 クラスは違うが、同じ高校、同じ学年の生徒だ。名前は知らない。身長は高校一年の男子としては中くらい。ひょろひょろした痩せた体。顔の細工が特別に悪いという訳ではないが、どこかしら同世代の少女に本能的な嫌悪感を抱かせるようなものがあった。
 足首まであるような黒いロングコートを着て、小さめのバックパックを背負っている。バス停の時刻表の脇で、コートのポケットに両手を突っ込んで貧乏ゆすりをしながら、しきりにきょろきょろと周囲を見回していた。
 最後尾のサトミと列の先頭に立つ少年の目が合った。その瞬間、少年の顔に何とも言えない嫌らしい笑みが広がった。サトミは思わず目をらした。背筋に悪寒が走った。
 突然、後ろから誰かに肩を叩かれた。ドキッとして振り返ると、同じ高校のアキコだった。通っている学習塾も同じだ。さっきまで別の教室で講義を受けていたのだろう。
「よっ」と言ってアキコは傘を持った右手を挙げた。良く言えば「気さく」、悪く言えば「軽薄」が彼女の持ち味だ。
 アキコとは小学校の六年間と中学校の三年間、あわせて九年間ずっと同じクラスだった。それなりに親しく付き合っていた時もあった。同じ高校に入学してから特に理由もなく疎遠になっていった。いて理由を挙げれば、高校一年で初めて別のクラスになったから、だろうか。
「雨、降るかな?」バスを待つ列の最後尾でアキコが言った。「せめてバスに乗るまでは持って欲しいけど」
「うん。そうだね」
「どう? 最近? 彼氏でも出来た?」
「まさか。そういうアキコは出来たの?」
「今のところは、まだね……でも、ひょっとして私のこと好きなのかな? っていう男がクラスに約一名」
「どうするの? 付き合うの?」
「うーん。どうしようかな。相手次第って所もあるけど、今は様子見ようすみ中」
「ふうん。そっか」
 ふと、列の先頭を見たアキコの顔が、とつぜん曇った。
「チッ! ヨシザワのやつと同じバスかよ」
 アキコの視線を追って、サトミが驚いた声を上げる。
「ええ? 良い感じの男子って、まさか、あそこに立ってるロングコートの……」
「ちがう、ちがう! 誰がヨシザワみたいな気持ち悪い男と付き合うかって」
「あの男子、ヨシザワっていうんだ……なんていうか、変わった感じだよね」
「同じクラスなんだけどさぁ……超きもち悪いでしょ? とくべつブサイクって訳でもないんだけど……なんていうか、目つき? 表情? それとも体の動き? どこが、なにが……とは言えないんだけどさ、とにかく生理的に嫌な感じなんだよね。
 しかも変な手紙を寄こすしさ」
「変な手紙?」
「ラブレター」
「ええ?」
「ゾッとするでしょ? 良い迷惑だっつうの。よりによって何で私なのよ」
「……」
 その時、バスが停まった。ボディ中央の乗車口が開く。
 ところが列の先頭に立つ少年……ヨシザワ……は、なかなかバスに乗り込もうとしなかった。
 冷たい風が吹くバス停から早く暖かい車内に乗り込みたい乗客たちがイライラし始める。
 列の二番目に立っていた初老の男が我慢しきれなくなって「きみ、早く乗りなさい。後がいるぞ」と少年に言った。
 ヨシザワ少年は、何も言い返さず、なぜか黙って列から外れ、目をらして『先に乗り込んでくれ』という風に手で合図をした。
 二番目に立っていた初老の男が「まったく」と言いながら、バスの中に入る。
 列の乗客たちもそれにならって、乗車口の側にボーッと立つ少年の脇を通ってゾロゾロとバスに入って行った。
「うわぁ、ヨシザワの横を通ってバスに乗るのかぁ……嫌だなぁ……何してんだよ、あいつ。乗るんならサッサと乗れよ」
 アキコが低い声でボヤく。
 言葉にこそ出さなかったが、正直、サトミも同じ気持ちだった。
 言葉に出来ない、本能的な嫌悪感。
 ひょっとしたら、それはサトミやアキコの勝手な思い込みで、ヨシザワとかいう少年には責任が無い事なのかもしれない。
 しかし、どう理屈をつけても、心の中の嫌悪感は消えなかった。
 せめてもの『礼儀』として、サトミは嫌悪感が顔に出ないよう頬の筋肉をこわばらせ、目を伏せて少年の脇を通り、バスに乗り込んだ。
 サトミとアキコは進行方向右側うしろ寄りの二人席に並んで座った。
 最後にヨシザワ少年が入って来て、空いている席があるにも関わらず何故なぜか乗車口の近くに立って吊革をつかんだ。
 運転手が自動扉を閉めた。
 開口部の大きな乗車口がしばらく開いていたせいか、バスの車内はそれほど暖かくは無かった。
 それでも十一月の夜風に体を晒しながらバス停に立っているよりは遥かにだと思いながら、サトミは窓ガラス越しに真っ暗な空を見上げた。
「発車します」
 運転手のアナウンスと共に、バスが動き出す。
 ポツリ、と窓ガラスに水滴が当たった。
 ポツリ、ポツリ、ポツリ……水滴の数は、あっという間に増えていき、土砂降りの雨となってバスのボディを叩いた。大粒の雨が金属の屋根にぶつかって、ざぁぁぁぁぁ……という音が車内にこもる。
「嫌だなぁ」アキコがつぶやく。「これじゃ、りた停留所から家まで歩くあいだに濡れだよ……母さんにメッセージ送ってバス停まで迎えに来てもらおうかな」
 言いながら、携帯電話を出してメッセージ・アプリを立ち上げ、文字を打ち込み始めた。
「よし。オーケー。母さんから返信来た。サトミ、どうする? 家まで送ろうか? 一緒に乗って行く?」
「え、良いの?」
「良いって。良いって。遠慮しないでよ。母さんに『サトミも一緒だ』ってメッセージ送っといたし」
「じゃ、じゃあ、お言葉に甘えて……ありがとう」
 その時、サトミは視界のはしに違和感を感じて、思わず乗車口の方を見てしまった。
 ヨシザワ少年がサッと視線をらした。
(見られていた? こっちを見ていた……)
 バスが交差点を曲がり、車体が揺れた。少年がよろめく。すそが足首まであるゾロッとした黒コートが揺れて、ふところに下げた長い棒状の物が一瞬キラリと光った。
 少年があわててロングコートの前を掻き合わせ、懐の金属棒を隠す。
「あいつ、まだ、あんなもの持ち歩いてる……」
 アキコが携帯電話をしまいながらイライラした口調でつぶやいた。
「あんなもの?」
「剣よ、剣……」
「けん、て」
の事よ。あいつがお気に入りのファンタジー小説だかマンガに出てくる魔法の剣なんだってさ」
「ま、魔法の、剣?」
「レプリカっていうんだけ。要するによ。いつだったかコッソリ学校に持ってきて自慢してたわ。『これ、刃をいであるから本当に切れるんだぜ』とか言って……そんな物、学校に持ってくるなっての。業者も業者よね。本当に切れる剣だなんて。銃刀法違反だろ」
「そ、その『剣』を」
「今もコートの下に隠し持ってる。間違いないわ。一瞬だけど見えた」
「何で?」
「知らないわよ。だっさい黒コートと言い、高校生にもなって頭ン中はガキなんでしょ。それか本当に病気ビョーキなのか。中二病、だっけ? あいつの事、あんまりジロジロ見ない方が良いよ。変に関わると、何されるか分かんないから」
「そういえばアキコ、ラブレターもらったって言ってたけど?」
「最悪でしょ? なんか、エロい詩みたいなのが熱っぽい文体で書きつづってあってさぁ……ほんと、気持ち悪くて、しゃべるのも嫌だったんだけど、黙ってたら変に勘違いされるかもって思って、我慢して、ていねいにお断りしたのよ。そしたら、どこで住所を調べたのか知らないけど、休みの日に家まで来ちゃって」
「ええ?」
「玄関のインターフォン越しに『会ってくれ』って言うのよ。もう気持ち悪いって言うより恐くなっちゃってさぁ、親に応対してもらって追い返して、月曜日に親経由で学校の先生にも連絡したの」
「それで収まったの? ス、ストーカー行為」
「ヨシザワのやつ、その日のうちに職員室に呼ばれて……先生、だいぶキツく言ってくれたみたい。それ以降は私に近づかなくなったから、いちおう効果あったのかな」
「ふうん。良かったね、って言うべきなのかな」
「ところが、そうでもないのよ」
「まだ何かあるの?」
「さっき言った、いい感じの男子……フジワラくんっていうんだけど……放課後そのフジワラくんと二人きりで教室で話してたのよ。まあ、二人っきりになったのは、示し合せたとかじゃなくて全くの偶然だし、話の内容も、もう忘れちゃったけど、どうでもいい馬鹿みたいな事よ……で、三十分くらい話してたら、いきなり扉がガラッと開いて、ヨシザワのやつが入って来てさ。私とフジワラくんを物凄い形相ぎょうそうにらみつけるのよ。私、心底ゾッとしたわ」
「それ、危ないんじゃない? それ以後、何か変なことあったの?」
「今の所、とくに何も無いけど……こんど何かしてきたら、親に言ってPTAでも教育委員会にでも訴えて、ヨシザワを退学処分にしてもらうわ。それが出来なくても、最悪でも、クラスだけは変えてもらう」
「ふうん……アキコって、けっこう可愛かわいいからね。可愛いっていうのも大変なんだね。変なヤツに言い寄られる危険もあって」
「ええ? そんな事ないって。サトミだって可愛いじゃん。高校に入ったら急に可愛くなったよ。うちのクラスの男子も時々話題にしてるよ」
「いやいや、そんな」
 女子高生二人がと謙遜の応酬をしている間に、バスは何度か停留所に停まり、そのたびに一人、二人と乗客が減っていった。どの停留所でも乗車する客は無かった。何人か居た高校生も降車して、サトミたちの他に車内に残っているのは、ヨシザワ少年と、駅前で列の二番目に立っていた初老の男、老夫婦、会社帰りらしい若い女だけになった。
 やがてバスは市街地と田園地帯の境界地帯までやって来た。
 土砂降りの雨の中、片側に延々と続く薄汚れたコンクリート塀、反対側に田んぼが広がる一直線の道をバスが走る。 
 サトミは、延々と続くコンクリート塀の上に視線を向けた。
「この工場、私が生まれた年に閉鎖されたって聞いたけど、取り壊さないのかな?」
「え? ああ……東京ドーム何個分だったけ? デカいよね。これだけ広大だと、壊して更地さらちにするのも大変でしょう。莫大なお金が要るんじゃないかな。十六年間もったらかしじゃあ、中の設備も使いものにならないでしょうし、買い手が付かないんじゃない? 第一、『事故物件』じゃあ、ねぇ」
「事故物件?」
「サトミ、知らなかった? ここの社長、操業停止に追い込まれた翌日に工場の中で首吊くびつって死んだんだよ。噂によると、足元には怪しげな図形と記号が死んだ社長自身の血で書かれていたとか」
「それって、黒魔術とか悪魔崇拝とか、そういうやつ?」
「あくまで噂だけどね。幽霊話もたまに聞くよ。車いすの老婆を見たとか、若い女を見たとか……」
「老婆に、若い女? だって死んだのは社長さんでしょう? 女社長?」
「死んだ社長は中年のオッサンだったはず。確か、創業者の息子つまり二代目で、良い歳して独身、大工場を経営する手腕も情熱も全く無くて、会社は他の幹部に任せっきりで、自分は家に引きこもって怪しげな本を読みあさっていたとか」
「くわしいんだね」
「それこそ中二病じゃないけど、オカルトとか、そういうのに一時期ハマっていたんだ。もう『卒業』しちゃったけどね……工場に女の幽霊が出るのは……何でかな……社長の悪魔崇拝の儀式のになった人、っていうのは、どう?」
 そこで言葉を切って、アキコは、何気なく前方に視線をやった。
「あれ? ヨシザワのやつ、何やってるんだろう?」
 突然、話題が変わったのに驚いて、サトミは隣に座る友人の視線を追った。
 車体中央にある乗車口近くで、少年はバックパックを肩から下ろして左手に持ち、右手をその中に突っ込んで何かを出そうとしていた。
 車内監視用のミラーから手元を隠すように、体を進行方向とは反対側に向けている。
 バックパックから出てきたのは、金属製のくさりと南京錠だった。
「次は、マガカワ工業正門前、マガカワ工業正門前」
 運転手のアナウンスが車内に響く。
 ヨシザワ少年が慌てて停車ボタンを押した。
「次、停まります」のランプが点灯する。
 車内の乗客全員が驚いたように少年の顔を見た。
 何十年も前、この巨大な工場が操業を開始するのに合わせて作られた、工場で働く従業員のための停留所。
 工場が操業を止めてしまえば、田んぼの他には何もない場所だ。この十六年間、乗り込む人間も、りる人間も居なかったに違いない。
 それでも停留所の時刻表は撤去されず、通過するバスの運転手は、誰も降りないと分かっていながら、律儀りちぎにアナウンスを繰り返してきた。
 ……まさか、その廃工場の正面玄関で降りようという人間が現れるとは……
 少年は、手に持った鎖を乗車口の自動ドアの手すりに通し、さらに車体側の手すりにも通して、両端を南京錠で留めてしまった。
「あいつ、何やってんの?」
 もう一度、アキコがつぶやいた。
「さ、さあ……」
 サトミが首をかしげる。サトミだけではない。車内にいる乗客全員が「訳が分からない」といった表情で少年を見つめていた。
 これでは乗車口のドアが開かない。誰も乗り込めなくなってしまう。
 少年が自分の体で巧妙に手元を隠したせいか、ひとり運転手だけが気づいていないようだった。
 十六年間だれも降りなかった停留所の前にバスが停まった。
 乗客たちが呆然と見つめる中、少年はゆっくりと車内を歩いて、車体一番前の降車口に来た。
 やっと我に返った初老の男が「おい、き、きみ! いったい何を……」と少年に呼びかけた。
 同時に、少年はコートの下から銀色に光る細身の剣を出し、初老の男の顎の下あたりをぎ払った。
 乗客たちの悲鳴。
 男の頸動脈からあふれ出る真っ赤な血。
 あわてて立ち上がった運転手の左目に、少年は精算機の反対側から左の目に剣を突き立てた。
 切っ先が眼球を突き抜けて脳みそに届いたのを確認して、つかを持つ右手首をクルリとひねる。
 少年が剣を抜くと、運転手の体は折れ、頭がハンドル中央のホーン・ボタンの上に落ちた。
 ファーン……という警笛音がいつまでも鳴り続ける車内を少年が見回す。
 乗客たちが十代の殺人鬼から逃れようと、我先に車体中央の乗車口に向かう。しかし、どうやってもドアを開けることが出来なかった。
 鎖でドアを縛ったのは、誰も乗り込めないようにするためではなかった。だった。
 乗車口をふさげば、バスの最前部にある降車口から降りるしかない。しかし、一番前には運転手を殺し、血まみれの剣を下げた少年が立っている。
 少年はゆっくりと若い会社員風の女に近づいて行った。
 床の上に込み「やめて」と叫びながら両手で顔をかばおうとする女の、その両手に、何度も何度も剣の切っ先を突き立てた。
 突き立てるたびに女は手を引っ込めるが、引っ込めると顔面が無防備になる。そこで再び血まみれの手で庇おうとすると、そこに再び剣を突き立てられる。
 手を血まみれにされながら必死に急所を庇う女の姿は、はたからみると情けなく、滑稽こっけいだった。
 少年は、明らかに楽しんでいた。手を血まみれにして泣きじゃくる女の姿を見て、ニタニタ笑っている。
「や、やめろ! やめんか!」
 見るに見かねたのか、後部座席で互いの肩を抱いて縮こまっていた老夫婦のおっとが、叫んだ。
「んん?」
 遊びを邪魔された苛立いらだちを顔に貼り付かせて少年が顔を上げた。
 そして、もう一度、床に尻もちを突いている会社員の女を見下ろし、剣を逆手に持ち直し全体重をかけて、女の腹に突き立てた。女の喉から意味不明の音が発せられ、続いてゴホッ、ゴホッ、と血まじりのせきく。
 少年は、仰向けに倒れた女の腹に、体重を乗せた剣を何度も何度も突き立てた。
 女の体から力が抜けたのを確認して、再度、老夫婦をにらむ。
 夫婦は、二人同時に「ひっ」と息を呑んだが、夫は、このまま何の抵抗もせずに死ぬわけにはいかないとでも思ったのだろうか、制止する妻の手を振り払って立ち上がり、少年を睨み返して叫んだ。
「この卑怯者が!」