禄坊家(その8)
風田孝一と禄坊太史(と、二人に運ばれた『眠り姫』の沖船由沙美)が屋敷に入ると、三人が来るのをどこかで見ていたのだろうか、妹の沖船奈津美が玄関で待っていた。
「あ、あの、私に何か出来ることはありませんか?」
聞いてきた奈津美に、風田が「いや、いいよ」と答えた。
「僕らで女子の部屋まで運ぶから、さ。……そうだ、先に部屋へ行って布団を
「敷いて置きました」
「ああ、そう……気が利きくんだね。ありがとう。じゃあ、あとは俺らで運ぶから大丈夫だ」
それでも心配なのだろうか、奈津美は、男二人に運ばれる姉のようすを見ながら廊下を
姉妹に割り当てられた部屋の前まで来ると、妹が先回りして
六畳の続き間に布団が敷いてあった。
奈津美がその
「ふう」
さすがに疲れたのか、禄坊が肩を落として大きく息を吐き、額の汗をぬぐった。
「なんだ……若いくせに、だらしが無いな」
風田が、くたびれ顔の禄坊を見て冷やかした。
「僕は文化系なんですよ。……ああ、専攻は理系ですけどね」
「なんだよ、それ。
「違いますって。……小学校の時は新聞部。中学は
「要するに、体を動かすのは嫌いって事か?」
「自分で言うのもアレだけど、どっかのベンチか喫茶店の椅子に座ってスマートフォンいじってりゃ幸せってタイプです」
そんな無駄口を叩いている二人の足元で、奈津美が姉のスカートのすそを直し、その上から布団を掛けた。
「じゃあ、奈津美さん、俺たちは出て行くよ。あんまり女子の部屋に長居するのも何だし、な」
風田が言い、奈津美が
「は、はい……ありがとうございます」
「奈津美さんは、どうするの?」
「しばらく、ここで姉さんの様子を見ています。起きたときトイレの場所とか分からないと困るだろうし」
「ああ、そう……じゃあ」
禄坊と風田は廊下に出て、襖を閉めた。
「禄坊くん……」
風田が小さな声で禄坊に言った。
「分かっていると思うが……さっきの話……」
「言うな、って事ですか? さすがに、そこまでアホじゃありません……でも」
「承服しかねる、か?」
「あたりまえでしょう? グループ全体の安全が第一、っていう風田さんの気持ちも分かりますけど……人道的に、どうなんですか? それ?」
「人道主義、か……そいつの定義も
* * *
台所へ行くと、風田の
「あらー、アキちゃん、お利口さんだねぇ……お手伝いしているのかい?」
亜希子の姿を見て、突然、禄坊が相好を崩し、猫なで声で言った。
「将来は、さぞかし立派なお嫁さんになるぞぉ」
そこで、わざとらしくハッと思いついた風にして、付け加える。
「そうだ! 大きくなったら太史にいちゃんのお嫁さんになるかい?」
「ならな~い」
戸棚からスプーンを出しながら、亜希子が即座に答えた。
「な、なんで?」
「だって、亜希子、好きな人いるも~ん」
「え! い、いったい誰が好きなの?」
「水谷くん」
「水谷くん……だ、誰だい、そいつは?」
「小学校の同級生」
「へ……へええ」
「私、水谷くんのお嫁さんになるって約束したの」
「そ、そうなんだ……ずいぶんと、気が早いんだね」
案外てきぱきと食事の準備をする小学生二人を、逆に大人二人が手伝う形になった。
「……禄坊くん、みんなでご飯を食べられるような、大きな部屋は無いかな?」
「ありますよ。女子たちの部屋の続き間で十二畳座敷があります。そこへ運びましょう。
* * *
薬物の作用で眠り続ける由沙美以外の全員が座敷に集まった。
「……
「ただの白粥ですけど、とりあえずは我慢してください」
「そんな事ないです。ありがたいですよ」
ワンピース姿の大学生、志津倉美遥が答え、隣に座った棘乃森玲が「気がついたら、私たち昨日の夜から何にも食べてないんだからねぇ……」と同調し、他の
「それじゃあ、食べましょう」
禄坊の声を合図に、全員で「いただきます」と言ってスプーンを取った。
何の味も付いていない
食料をはじめとして、あらゆる物資が貴重になる時代が来る……皆、無意識にその可能性を感じ、とりあえず食事にありつけた嬉しさを
* * *
「沖船さんのお姉さんは奥の部屋で寝ているが……」
食事が終わって皆がホッとしているところで、風田が座卓を見回した。
「彼女以外の八人が集まっているところで、これからの事を少々話したいのだが、良いかい?」
注目が風田に集まる。
「世の中がおかしくなっていく中で、こうして我々九人は偶然出会い、共同生活を始める事になった訳だが……『人間が二人以上いれば立派な社会』の言葉通り、これだけの人数が集まって生活する以上、ある種の社会的ルールと言うか、組織としての決め事は、必要になると思う」
「そりゃ、まあ、そうでしょうね」と禄坊が同意した。
風田が続ける。
「まずは、組織である以上リーダーが必要だが……年長者でもある事だし、ここは俺が拝命しようと思う。
まだ幼く、さっき出会ったばかりの亜希子以外の全員が
「じゃあ、次の議題だ」そこで風田は並んで座っている大剛原結衣、志津倉美遥、棘乃森玲を順番に見て、最後に亜希子の隣に座る禄坊太史に視線を移した。
「副リーダーを決めたいと思う」
「ふ、副リーダーですか?」
「そうだ」
少し驚いたようすの禄坊に風田が
「副リーダーなんて……そんなもの、要るんですか?」
「ああ。必要だ。明日の命も分からなくなってしまったこの世界で一番大事なのは、九人のうち誰か一人に何かがあっても、残りの八人が確実に生き残る事だ。たとえ、それがリーダーであっても、だ。俺がリーダーとしての責任を全う出来ない状態に
「はい、はい、はーい」
教室で子供が意見を言うような感じで、おどけた風に玲が手を挙げた。
「副リーダーには禄坊くんが良いと思いまーす。何と言ってもこの家の主人だし」
「しゅ、主人じゃありません。そ、それに僕はそんな器じゃありません!」
禄坊が余計なこと言うな、という目で玲を見た。
「そもそも、もし僕が副リーダーになったら、棘乃森さんは僕の言うことに従ってくれるんですか?」
「それは……ケース・バイ・ケースかな……うーん……じゃあ、大剛原さんが良いと思いまーす」
「ちょっと、玲、何を言い出すのよ」
「じゃあ、美遥を推薦しまーす……案外、判断が早いし」
「それは、どうかなぁ……」
責任の押し付け合いを始めた大学生たちの声を遮るように、風田が「とりあえず、副リーダーは君たち四人が交代で務めるんだ」と言った。
「こ、交代?」
全員が、風田の顔を見る。
「ああ。そうだ。じゃんけんでも何で持いいから、週がわりの特売品みたく順番にやってくれ……俺たちは皆出会ったばかりで相手の事を良く知らない。正直、君たち四人の大学生のうち、誰が一番リーダーに
「だからって、交代なんて……そんな、いい加減な」と
「まあ、ここは禄坊くんの実家だという棘乃森さんの言い分にも一理ある。禄坊くんなら周囲に土地勘もあるだろうし、な……とりあえず、禄坊くん、今週は君が副リーダーになるんだ」
「そ、そんな……」
「来週以降は、女子大生三人でじゃんけんでも何でもして順番を決めてくれ……何か異議があれば言ってくれて構わんが、俺の案が駄目だというなら、必ず代替案を提示すること。どうだ?」
風田が座卓を見回す。
誰も何も言わなくなってしまった。
「決まりだな。じゃあ、そういう事で、よろしく頼む。次の議題に映るぞ」
「まだ、あるんですか?」玲が不満を漏らした。
「もう少しだ……今日の予定だが……これから交代で風呂に入ろう」
風田の言葉を聞いて、不満げだった玲の顔がパッと明るくなった。
「え! お風呂に入れるんですか?」
「まだ水道が生きているからな。先に大剛原さん、棘乃森さん、志津倉さんの三人が交代で入りたまえ。三人の中の順番は君らに
「はい……」
「あとは、亜希子ちゃんだが……禄坊くんが入れてあげるか?」
「え? そ、それはちょっと、ぼ、僕、女の子をお風呂に入れた事なんて無いし……」
「私も、
「ア、アキちゃん、そんなに即答で拒否しなくても……」
「私が入れてあげましょうか?」
意外にも玲が手を挙げた。
「あ、た、たのみます。アキちゃん、どう?」
禄坊の言葉に、亜希子が「うん」と
玲が亜希子の顔を見て言った。
「ようし! じゃあ今日は、玲おねえちゃんと一緒にお風呂入るか!」
「わ~い」
「なんか、僕が即答で断られたのに、玲さんだと喜んだりして……ちょっと納得できないなぁ」
禄坊の
「昼ごはんの後片づけは、隼人くんと沖船さん、それに亜希子ちゃんがやってくれ。夕食の支度は、最初に風呂に入ることになった人の担当ということで頼む。あまり食料を使い過ぎないようにしてくれ……これから、どれだけの日数、冷蔵庫の中の品で食いつなぐ事になるか分からんからな。……それ以外の人は夕食まで自由時間だ。昼寝をするもよし。なるべく体力の温存に努めるんだ。塀の外へは出ないように。駐車場に用事があるときは必ず俺に言うんだ……何か質問はあるか? ……無いようなら、これで解散だ。ごちそうさまでした」
風田の合図で、そこにいる全員で「ごちそうさま」と唱和し、各自ばらばらに立ち上がって十二畳の座敷から出ていった。