出発。(その7)
(おちんちん
トイレに行った父親を待つあいだ、
(まあ、文明が崩壊して人間が野生動物に戻るなら、そっちの方も野生動物並みになるっていうのは、いちおう理屈に合ってるけど……アザラシは一頭のオスが百頭のメスを独占する、っていうし)
そこで、自分が無意識に「文明が崩壊した世界」を前提としていることに気づき、ドキッとした。
(父さんは……玲に対しては『まだ
結衣自身は、どう思っているのか。文明社会は残っていると思うのか?
(父さんや玲の言ったみたいに、文明が一晩で滅んでしまった可能性は充分に考えられる。もしそうなら、
後部座席を振り返って見た。
活動的な服が好みの結衣と、女の子らしい服が好みの美遥。見た目のタイプは全く違うが、性格的には案外共通点も多いと結衣は踏んでいた。
(好きな男のタイプまで一緒だったりして……もしそうなら、ちょっと嫌だな)
ふと、ハーレムという言葉が浮かんできた。
(相手の男が私たちを平等に愛してくれるなら、それもありかな……)
そんな事を考えている自分が嫌になって、ひとり助手席で頭を横に振った。
(ああ、いかんいかん! 玲の
* * *
「……で、UFOは見つかったの?」
ハイブリッド・カーの中で
「居るわけないじゃないですか。エイリアンにしろUFOにしろ、映画みたいに
太史が後部座席の真ん中で背もたれに体を預けて言った。
「あやふやな証言と画質の悪い証拠映像を
溜め息を一つ
「残ったのは財政を圧迫する借金と作りっぱなしで放置されたちゃちなUFOモニュメントばかり……で、言い出しっぺの村長さんは責任を取って辞任。合併派が一気に勢力を伸ばして、僕が中学に上がるころには既に村はF市に組み込まれていました」
「そうか。全ては長の責任とはいえ、村長さんもキツかったんじゃない?」
「辞任した後も、時々ハンター仲間の親父を訪ねて来ましたが……村の表舞台から引退したら急に
「ええ? そんなんで猟銃持って大丈夫なの?」
「いちおう所持免許の更新には精神科医の診断書が必要です。でも、ちょっと情緒が不安定になった位じゃ免許は取り上げられませんよ……『ここ一年くらいで急に物忘れが激しくなってるから、
風田が窓の外を見ると、ゲートボール場を横切ってこちらに向かってくる
「あれほど言ったのに……噛みつき魔や、猫が現れたらどうするつもりだ」
風田が苦々しい声で言った。
さらに
由沙美がドアの前まで来たところでドアロックを外し、少女が助手席に乗り込んでドアを閉めたのを見て、
「あれ? 出発しないんですか?」
そう問いかける太史に風田が答えた。
「気づかなかったのか?
「えっ? そうなんですか?」
太史が振り返って窓の外を見る。
「けっこう時間が掛かっているから、ひょっとしたら大きいほうかもね」という風田の声を無視して、太史が「風田さん! あれ!」と叫んだ。
風田が振り返って太史の指さす方を見ると、茂みの中から出てきた一匹の猫が、ゲートボール場を横切り、公衆便所へ向かってゆっくりと歩いていた。
* * *
「まだキレイな水が出るんだな……電気も、水道も、まだ何とか保っている……って事か」
男子便所の洗面台で手を洗いながら、大剛原は
ハンカチで手を拭きながら外へ出た。
両手が
便所からゲートボール場へ一歩を踏み出した所で、ゆっくりこちらに向かってくるそれと目が合った。
* * *
「結衣! あれ!」
後部座席の玲が窓の外を見て叫んだ。
今度は何さ? といった感じで、やや
息が止まった。
男子便所の前に父親が立っていた。
凍り付いたようにピクリとも動かない父親に向かって、ゲートボール場を横切り、ゆっくりと歩いて行く一匹の小動物があった。
* * *
大強原
(自分より強い者から遠ざかり、自分より弱い者には近づいて行く……それが動物の本能って
だから野良猫は、人間が近づくとサッと逃げる。
では
何らかの事情で精神に変調をきたしているのだろうか? あの噛みつき魔たちのように。
細い
……動けなかった。
下手に動くと、それを合図に飛びかかって来るような気がした。
昔、近所の市立公園で見た光景が脳裏によみがえった。
もの凄い速さで目の前を横切り、飛び立とうとした
姿勢を低くし、全身に跳躍の力を
自分は絶対、逃げられない……そう思った。
たとえオリンピック選手だったとしても、自分に向かってくる猫からは逃げられないだろう。
今までは、向こうが勝手に逃げてくれたから気づかなかっただけの事だ。
道具を持たない生身の人間は、絶対に、猫から逃げる事は出来ない。
人間と猫の殺し合いなら、最終的には体の大きな人間が勝つだろうが、最終的に勝てたところで何の意味もない。
一度でも体に牙を立てられたら、それでおしまいだ。
(いや、自分は素手ではない。拳銃がある)
両手を拭いたハンカチが気づかぬうちに地面に落ちた。高校時代、結衣が〈父の日〉に買ってくれたハンカチだ。
ゆっくりと右手を腰のホルスターに近づけていく。
むかし見た西部劇のヒーローのように
実際には、そんな事をする勇気も技術も大剛原は持っていなかった。
下手に早い動きを見せたら、その瞬間、猫が自分に飛びかかって来そうだった。
時速何十キロという速さで走るあの小さな物体に早撃ちで照準を合わせるなど不可能だ。
(走られたら、終わりだ)
奴を殺す
猫を刺激しないよう静かにホルスターのホックを外し、フラップを開けて銃のグリップを握る。
残弾二発のリボルバーを抜いて、そのまま腕を前へ突き出すようにして銃口を猫に向けた。
何かを感じたのか、猫は
猫がその気になれば、大剛原の立つ場所まで一秒か、一秒半か……二秒は掛からないだろう。
拳銃を持つ右手に、左手を添え、親指でゆっくりと撃鉄を起こす。
老眼ぎみで
(松塚は
この猫も、そうなのか?
数メートル先の、あの握りこぶしよりも小さな頭蓋骨に命中させなければいけないのか?
無理だ、と思い、やるしかない、と思いながら、震える手をどうにか押さえて猫の頭に照準を合わせた。
(急げ! 奴が走り出す前に……落ち着け! 落ち着いて狙うんだ!)
引き金に掛けた指を引き絞り、撃鉄が落ちる直前……猫が走り出した。
静かな森の広場に銃声が響き、鳥たちが驚いて空へ飛んだ。
外した!
走り出した猫の後ろ、ゲートボール場の赤土に銃弾がめり込んで、砂煙が舞い上がった。
次の瞬間には、猫と大剛原の距離は半分に縮まっていた。
跳びあがる猫の頭に銃口を向け、再度、無我夢中で右手の人差し指を引き絞る。
引き金に連動した撃鉄が自動的に起き上がり、落ちた。
二度目の銃声とともに空中で猫の頭蓋骨が
真っ赤な血と灰色の脳がスプレー状に広がりゲートボール場の赤土を汚した。
首から上を失った小さな体がクルッと後ろへ一回転して、土の上にぽとりと落ちた。
足から力が抜け、大剛原はその場にへたり込んだ。
自動車なみのスピードで襲いかかる小動物の頭を正確に撃ち抜く技術など自分には無い。それは大剛原自身が一番良く分かっていた。
単に運が良かっただけだ。
「お父さん!」
広場の向こう、農道に停車したSUVの窓を開けて、娘の結衣が叫んだ。
何とか立ち上がり、自分のクルマに向かって歩いた。
ゲートボール場を横切るあいだに、銃をホルスターへ収めた。
(全弾、撃ち尽くしてしまった)
五連発リボルバーの