リビングデッド、リビング・リビング・リビング

出発。(その2)

 丘の上のキャンプ場から麓(ふもと)の県道へ向かう山道を、二台の自動車は列を作ってゆっくりと下(くだ)った。
 前を走るのは大剛原(おおごはら)の運転するSUV。後ろが風田(かぜた)の運転するハイブリッド・カーだ。
 春の木漏(こも)れ日(び)が、細い山道の舗装に網目のような模様を作っていた。周囲の木々が五月の風を受け、時々「ざざっ」と葉を鳴らす。
「お嬢さんがたは二人とも運転免許を持っているんだったね」
 SUVの運転席で、ルームミラー越しに後部座席を見ながら、大剛原が女子大生たちに尋(たず)ねた。
「はい。私も玲(れい)も大学は推薦なんです。早めの合格発表だったから、高校卒業までのあいだ教習所に通う時間は充分にありました」
 志津倉(しづくら)美遥(みはる)が答えた。
「地方都市はクルマ社会だから、免許があると何かと便利だって聞いていたし……さすがに自分専用のクルマは持っていませんが」
「私と美遥、同じ教習所に同じ日に入学したんですよ」
 棘乃森(とげのもり)玲(れい)が言った。
「まあ、美遥はとんとん拍子に次の段階へ進んで、あっという間に卒業しちゃいましたけどね……今にして思えば美遥って陸上部だったし、私なんかよりずっと運動神経良かったんだな、って。……普段は天然っぽい感じで、ぽわんぽわんしていて、服とか可愛い系ばっかり着ているからそんな風には見えないけど……作戦だった、って訳だ」
 冗談っぽい言い方の中に、少しだけ毒があった。
「さ、作戦ってどういう意味?」
 美遥が聞き返した。
 玲がニヤリと笑う。
「男って、そういうの好きじゃん……何て言うか……男の『守ってあげたい』みたいな本能を刺激してくれる女の子。本当は何でも自分で出来るくせに男の前では『いやーん、助けてー』って言うパターン。『能ある鷹は爪隠す』作戦?」
「そんな……」
 返答に困った美遥に、助手席の大剛原(おおごはら)結衣(ゆい)が助け舟を出した。
「棘乃森(とげのもり)さん、それは、ちょっと言い過ぎなんじゃないかな。服の趣味は人それぞれだし」
「結衣(ゆい)さんは良いですよ。美人だし、スタイルも抜群だし。足が長くてスラッとしているだけじゃなくて、ちゃんと出る所は出ているし。完璧じゃないですか。何を着ても似合うし、その顔とスタイルなら『さばさば系』の性格でも男にモテるでしょう?」
 振り返ってこちらを見ている結衣を見返して、玲が言った。
「表参道あたりをぶらぶら歩いたら、五分もしないうちにモデル事務所のスカウトが寄って来そうな感じ」
 そこで、大剛原がゴホンッと大きく咳ばらいをした。
「君たち、赤裸々な女の子トークも良いが、一応、ここに男がいる事を忘れんでくれよ……それはともかく……結衣も含めて、このSUVに乗っている全員がクルマを運転できるわけだ。私に何かあった場合」
「何かあった場合、って、お父さん……」
 困惑したような結衣の言葉をさえぎって、父親が続けた。
「まあ聞きなさい。私に何かあった場合、直(すぐ)に誰かが運転を代わる必要がある。その時の序列というか、順番を決めて置こう」
 車内に緊張が走った。
「まずは結衣、お前が運転しなさい。君たち三人の中では、多少なりともこのクルマの操作系に慣れている。ドアロックのボタン一つ、エンジンスタート・ボタン一つ取っても、位置を把握しているから迷うことなく操作できるだろう。命取りに繋(つな)がる一瞬の迷いや遅れが無い」
 再度、ルームミラー越しに後部座席を見る。
「結衣が駄目な場合は、志津倉(しづくら)さん、あんたが運転をするんだ。少しでも運転が上手な方が良い」
 美遥が頷(うなづ)いた。その隣で玲がニヤリと笑った。
「最後が私、という訳ですね。私が運転するのは私だけが生き残った場合というわけだ」
「何か不満でも?」
 大剛原が玲に聞く。玲が「いいえ。それで良いです」と答える。大剛原が続けた。
「奴らが迫って来たら、とにかくドアをロックするんだ。風田くんの話だと、奴らはドアノブをガチャガチャ動かす習性があるらしい」
 初老の警察官は、無意識に「奴ら」「習性」という言葉を使っていた。まるで相手が人間ではなく、何か別の凶暴な生き物のような言い方だった。
「私自身、ドアノブをデタラメに動かす奴らを見たことがある」
 警察署の二階で男子更衣室のドアノブを乱暴に回そうとする元同僚、曇りガラス越しに見た松塚の影を思い出す。
「彼らには『ノブを回せばドアが開く』という認識があるという事ですか? それだけの知性が残っている、と?」
 美遥の言葉に、大剛原が頷く。
「そうだ……まあ、取っ手を回してドアを開けるくらい、訓練すれば猿でも出来るが……ロックしたドアノブを何度も何度も開けようとするって事は『このドアには鍵が掛かっている、鍵を外さないと開かない』と理解するほどの知性は無いのかもしれん」
「ドアノブをガチャガチャやる程度の知性はあるけど、鍵を掛けたり外したりする程の知性は無い」
 助手席の結衣がつぶやいた。
「そういう事だ」
 父親が横目で娘をチラリと見て、注意すべき点を確認する。
「とにかく、車内に逃げ込んだら鍵をかけろ。これが第一だ。二番目の注意事項は『猫』だ。猫には近づくな。猫を見かけたら直(すぐ)に安全な場所へ逃げ込むんだ。とくに人間を恐れず、こちらに向かってくるような猫は危険だ。第三に……」
 確実に急所を狙って撃て……大剛原は思わず口から出そうになった言葉を飲み込んだ。
 太腿(ふともも)を撃っても向かってきた松塚。
 ふくらはぎを撃ったのに、山村の妻は結衣を噛もうとした。頭蓋骨に38口径を叩きこんで、やっと動かなくなった。
(今は駄目だ……今は言えない)
 急所を撃たなければ動きを止められないと後部座席の女子大生たちに言えば、「何故(なぜ)そんな事を知っているのか」と不審に思われる。
 同僚やその家族を銃で撃ったと彼女たちに知られたくない。
(結衣だけが知っていれば良いことだ。あとで娘に確認すれば良い)
「第三に……なんですか?」
 後ろから玲が聞いてきた。
「い、いや、何でもない……ああ、それから、運転する時のルールだが……後ろのハイブリッド車を運転している風田くんと私で決めたことがある」
 急いで話を逸(そ)らす。
「前のクルマが停まったら、後ろのクルマも必ず停まること。携帯電話が使えない以上、はぐれてしまったら終わりだからな。それから、後ろのクルマが何らかの事情で停車したい場合は、運転席の窓を開けて手を振るか、パッシング・ライトを点滅させると決めた。良いね?」
 運転手の言葉に、三人の女子大生は同時に頷いた。

 * * *

 後ろを走るハイブリッド・カーの中で、風田(かぜた)孝一(こういち)は、大剛原と同じことを禄坊(ろくぼう)太史(ふとし)に言った。
「わかったかい?」
 風田が太史に確認した。太史が指を折りながら答える。
「は、はい……えっと……か、風田さんに何かあったら、ぼ、僕がこのクルマを運転する……真っ先にすべきは、ドアのロック……猫を見たら逃げろ……それから、先導するSUVに停まってほしい時は、窓から手を出して振るか、パッシング・ライト、ですね?」
「上出来だ」
 風田は満足げに頷き、前を走るSUVのブレーキ・ランプを見た。
「それにしても大剛原さん、運転が丁寧(ていねい)だな。さすが警察官、と言った所か」
「僕たちが追(つ)いて来やすいように態(わざ)とゆっくり走っているんじゃないですか?」
「そうかも知れない」
 やがて二台のクルマは山道から県道に入った。
「誰も居ないですね……誰も走っていない」
 太史が窓の外を見てつぶやいた。
 彼らの乗るクルマ以外、誰も道路を走っていない。田舎道とはいえ、それなりに整備された県道だ。地域の住民にとっては重要な生活道路のはずだ。それなのに走っているクルマが一台も無い。路肩に駐車しているクルマさえ無かった。
 ガランとした県道をSUVとハイブリッド・カーの二台だけが行く。
 前もって決めておいたとおり、大剛原のSUVは一旦(いったん)N市の市街地へ向かう方角へ走り、しかし市街地の中には入らず、途中で脇道へ逸(そ)れた。風田のハイブリッド・カーがその後ろに追(つ)いていく。
 市の中心部を迂回するようにしてF市へ向かう国道に出た。
 国道にも動いているクルマは一台も無かった。県道と違い、所どころにクルマが放置されていた。
 放置車両の周囲をうろつく人影。のろのろとした動作。虚(うつ)ろな目。
「〈噛みつき魔〉にも個性があるんだな」
 ハンドルを握りながら風田がつぶやいた。
「我々のクルマを……動いているクルマを見ても関心を示さず無視するタイプと、近寄って来るタイプの二種類がある。クルマの外にいる人間には確実に迫(せま)って来るのに……それと……視力はあまり良くなさそうだ」
「こちらに顔を向けた時の感じからすると、多少は見えているみたいですけど……目つきがボンヤリしているから、ひょっとすると目の焦点を合わせる機能が低下しているのかもしれません」
「そうかも知れない」
 太史の推測に風田が同意した。
 田んぼの真ん中を走る見晴らしの良い直線道路。幅の広い片側二車線。
 中央分離帯も無く対向車も無いとなれば、片側四車線道路を走っているようなものだ。
 のろのろと近づいて来る〈噛みつき魔〉を避けるのは思った以上に簡単だった。
「もう少しで〈道の駅〉のはずですが……」
 後部座席から太史が声を掛けた。
 風田はナビのディスプレイを確認した。たしかに前方に〈道の駅〉の表示がある。
 フロントガラス越しに実際の建物を確認したかったが、大剛原のSUVが邪魔で遠くまでは見えなかった。
 SUVがウィンカーを点滅させ、ゆっくりと減速して停車した。
「あれ? どうしたんだ?」
 戸惑いながらも、先導車に従い、風田はハイブリッド・カーを路肩に停めた。
 振り返って近くに奴らが居ないか確認する。遠く後方の駐車車両付近でうろつく人影が見えたが、奴らの歩くペースなら十分や十五分は安全だろう。
 前のクルマのドアが開き、大剛原がこっちに歩いて来た。
 風田もドアを開けて外に出る。
 立ち上がると、SUVの向こう側の景色が見えた。
 確かに〈道の駅〉らしき建物と広い駐車場が見える。
 ……しかし……
「駄目だな」
 大強原が言った。
 風田も〈道の駅〉を見て、大強原が停車した意味が分かった。
「やっぱり、駄目ですか」
 広い駐車場は満車状態だった。
 国道に溢(あふれ)れ出たクルマが上り下り両方の車線を塞(ふさ)ぎ、渋滞を作っていた。動けなくなった無数のクルマの間を、何十人、ひょっとしたら何百人という人影が彷徨(さまよ)い歩いている。
 遠くから見るぶんには現実感に乏しく幻想的とさえ言える眺めだったが、近づけば〈道の駅〉周辺は血まみれの地獄絵図に違いない。

 * * *

 ……風田は妄想する……
 昨日の夜。幹線道路。N市からの脱出を試みるクルマの群れ。何が起きているのか誰も分からない中、不安な気持ちを打ち消そうとして……あるいは少しでも確かな情報を得ようとして、人々が〈道の駅〉に集まっていく。
 クルマがクルマを呼び、人が人を呼ぶ。
 密集した人とクルマの中に紛れ込んだ一匹の猫。突然凶暴化する人の群れ。パニック。
 駐車場の出口に殺到するクルマと人。事故。渋滞。
 ……身動きの取れなくなったクルマの間を伝播して、惨劇が拡大して行く。

 * * *

「風田くん……風田くん!」
 大剛原の声に、風田はハッと我に返った。
「風田くん……我々は一体どうしたら良いんだ?」
 大剛原が尋(たず)ねた。
「どう、って言われても……」
 風田は振り返った。
 さっきまで遠く後方に居た奴らとの距離が、半分に縮まっていた。