私立骸ノ森学園の事件簿

第一話、その四。

 男が近づいて来た。一歩ずつ足を出すたびに雪を踏むザクッ、ザクッという音が聞こえる。
 西脇は、男の足元を見て驚いた。
 黒いマントの裾から色落ちしたジーンズのような物が見える。問題はだった。
「げ、下駄げた?」
 この寒さの中、マントの男は、靴下も何も履かない裸の足を黒い下駄の上に乗せていた。
 金属的な鈍い光沢を放つ、黒い下駄。
「て、鉄下駄てつげたか?」
 金属製の下駄で雪を踏みながら、こちらにやってくる。むき出しの足に雪が掛かっているというのに、気にする様子も無い。
「こんばんは」
 黒マントに下駄の背の高い男が、西脇に挨拶あいさつをした。
 意外に若々しい声だった。
 男がフードを取る。
 ……少年だった。
 見たところ、十七、八歳か……いや……下手をすると十五、六かもしれない。仮にそうだとしたら、十代半ばで百九十センチもの身長という事にある。
 まず美少年と言っていい顔立ちだ。
 ニッコリ笑った……こちらの警戒心を解くためか……しかし、瞳の奥に油断できない輝きがあった。
「こんな夜中に、こんな場所で何をしているんですか?」
 少年が、西脇にたずねた。
 そしてトンネルの入り口を見た。
「ああ、なるほど……?」
 納得した様子で視線を西脇に戻す。

「む……むくろノ森?」
 どこかで聞いた事のある名前だ……どこだったか……
「時々『繋がる』んですよ。特にトンネルなんかは繋がりやすい場所だ」
「繋がる? どういう意味だ?」
「向こうから来た人は大抵そうなんだけど……それまでの常識が通用しないから、最初は、やっぱり混乱するんですよ。 
 でも、もう、薄々は感づいているんじゃないですか?
 ここが自分たちのいた世界とは『別の場所』だって」
「何、わけの分かんねぇこと言ってるんだよ。お前は一体何者だ?」
「ああ、名乗るのが遅れましたね。失礼しました。
 俺は明塚あきつか剣太郎けんたろうって言います。
 理由わけあって、このむくろの森を旅しています」
 明塚剣太郎と名乗った少年は、口元に微笑みを浮かべながら西脇を見つめた……こちらが名乗ったんだから、そっちも名乗れ……鋭い目が、そう言っていた。
「俺は西脇ってもんだ。S市でタクシー運転手をやっている。
 S市の○○亭ってレストランに向かっている途中、トンネルの中で車が故障してな……」
「なるほど。でも多分たぶんそれ、故障じゃないですね。
 このむくろノ森じゃあ、一切の電気回路が使用不能になります。コンピュータのような精密機器はもちろんですが、単純なオン、オフのスイッチさえ使いものになりません」
「そ、そうなのか?」
 この明塚剣太郎とかいう少年の話が本当なら、車のエンジン、ヘッドライト、懐中電灯、三つの携帯電話、これらの機器が全て同時に止まったのも、それが原因という事になる。しかし、そんな現象が起こりうるものなのか。
「まだ半信半疑、って顔ですね」
「正直に言うと、な」
「あちら側から来た人に、いきなりこんな事を信じろって言っても、そりゃ無理ですよね。
 でもなあ……信じてもらえないと、あなた自身の命が危険なんだけどな。
 何しろ骸ノ森ここじゃあ、人間は食物連鎖の下の方ですからね。
 どうやったら信じてもらえるのか」
「一応、おぇの言ったことは、トンネルん中での俺らの体験と符合するが……正直、返答に困るな」
「俺ら? 他に誰か居るんですか?」
「タクシーの乗客が二人いたんだが、いろいろあって、別れた。
 まあ、方針の違いってやつだ。連中は向こう側の出口へ向かうと言って、トンネルの中に戻っちまった」
「まずいな……」
 少年が急に深刻な顔になってトンネルの入口を見た。
「異次元トンネル現象は長続きしません。
 偶然たまたまにせよ、こちら側の出口を選んだのは正解だったんだ。
 今ごろ、向こう側の出口はふさがって『次元の吹きだまり』になっているはずだ」
「次元の吹きだまり?」
「吹きだまりにはすぐに妙な連中がみ付きます。危険な連中です。
 念のために聞きますけど、その人たち、でしょう?
 奴らに喰われてしまいますよ」
「喰われる?」
 西脇もトンネルの奥を振り返って見た。
 その時、オレンジ色の輝きが暗闇の中にポッと現れた。
「あいつら何で、あんな所で発煙筒なんか」
 西脇がつぶやいた。
 明塚少年も予想していなかったようだ。
「何で、わざわざ寝た子を起こすような事をするんだ」
 少し苛立ったような声で言った。
 そのとき、トンネル内に「ギャー」という叫び声が反響した。一人は男、一人は女の声だった。
 同時にオレンジ色の光が消えた。西脇には、発煙筒が地面に落ちて何者かに踏みつぶされたように見えた。
「たすけて!」
 ふたたびトンネルの奥から叫び声が聞こえた。女の声だけだった。
(男のほうは、もう助からねぇ……)
 中で何があったのか全く分からなかったが、西脇は直感的にそう思った。
「これを預かっていてください」
 少年が、肩に担いでいた荷物を下ろして西脇に突き出した。そこで初めて、少年が何かを背負っていた事に気づく。
「ダ、ダッフルバッグ?」
 それは深緑色の特大ダッフルバッグだった。
「や、山の中で、ダッフルバッグだと?」
 深い森の奥、雪の上を金属製の下駄で歩き、船乗りが使う特大のダッフルバッグを肩に担ぐこの少年は、一体何者だ?
 あらためて明塚剣太郎と名乗る少年を見返す。
「さあ、早く」
「お、おう」
 訳も分からず自分に押し付けられた緑色の特大ダッフルバッグを受け取る。
 予想外の重さに、雪の上に落としてしまった。
「あ、気をつけてください。中に爆発物が入っています」
「ば、爆発物だと?」
 少年は、雪の上に落ちたバッグの口を開け、手を突っ込んで、中から手りゅう弾のような物を出した。
「な、なんだ、そりゃ。ぶ、物騒なもん持ってるじゃねぇか」
「照明手りゅう弾ですよ。光を発しますが、殺傷能力はゼロです。
 とにかく、それを持って木の陰まで行って隠れていてください。
 俺は、中の人を助けに行きます」
 トンネルの前に立ち、手に持った照明手りゅう弾を投げる。数秒後、中がパッと明るくなった。少年がトンネルに向かって走り出した。
 物凄い速度だった。
 金属の下駄を履いているにもかかわらず、オリンピックの短距離選手のような走りだった。
 しかもスタートダッシュから、いきなりオリンピック選手が一番スピードに乗った時と同じ状態になっていた。
 予備動作も無しにいきなりトップスピードで飛び込んだ……西脇の眼にはそんな風に映った。
「まったく、何なんだよ」
 少年が入って行ったトンネルの暗闇を見つめて、タクシー運転手はつぶやいた。
 何が何だかわからないが、とりあえず、ここは少年の言う通りにするのが得策と直感的に判断し、雪の上をダッフルバッグを引きずって木の陰まで行く。重くて持ち上げることは出来なかった。
「やれやれ、四十五歳にしては体力がある方だと思っていたんだがな」
 木の根元まで来た時点で既にへとへとだった。枯れた下草をかき分けてダッフルバッグを隠す余裕が無い。
 仕方なく西脇は広場と森の境目にバッグを置いて、自分だけ木の裏側に回った。
(もうすぐ来る。なにかものが来る)
 何故なぜかは分からなかったが、西脇はそう思った。
 木の陰から一心にトンネルの出口を見つめる。既に照明手りゅう弾の効果は切れて元の暗闇に戻っていた。
 物凄い速さで何かがトンネルから飛び出した。
 明塚剣太郎だった。
 チェックのネルシャツに色あせたジーンズに鉄下駄という、街場なら失笑どころか顰蹙ひんしゅくを買いそうな姿だ。
 両手に何かを抱いている。
 ……麗子だった。
 剣太郎の着ていたマントで蓑虫みのむしみたいにぐるぐる巻きにされ、頭と足首だけをマントから出している。
 少年は女を抱いたままトンネル前の広場で何かを探すような素振そぶりを見せた。
 木の陰の西脇と目が合った。
 次の瞬間、広場を横切り西脇の所まで走って来て、足元に女を下ろした。
 女はハイヒールを履いていなかった。足の爪ががれてストッキングから血がにじみ出ている。暗闇で転んだのか。
「このマントには発熱機能があります。こうして体を包んでいれば寒くないはずだ」
 少年が西脇に言う。
「とにかく、ここでじっとして居てください」
「じっとして居ろって……おぇは、どうするんだ?」
「ここで決着を付けます。
 ただのオジサンと怪我けがをした女が一緒じゃあ、とてもやつからは逃げられない」
「け、決着? やつって誰だよ、やつってのは、よ」
 少年は西脇の問いに答えず、立ち上がると金属製の下駄をいだ。
 裸足で雪を踏み、トンネル前広場のほぼ中央、出口から三十メートルほど離れた場所に立って、暗闇の奥を見つめる。
 出口に向かって体を斜めにして構えた。
「なんだ? あんな構え見た事ねぇぞ」
 西脇は若いころ、格闘技をかじっていた。多少の知識はあるつもりだ。少年の構えは、西脇の知っているどの格闘術とも違っていた。