1.
ワード・プロセッサーに最後の修正を入力し、印刷ボタンを押した。
プリンターのモーター音を聞き、暖気動作が始まったのを確認して、川上は書斎の椅子から立ち上がり台所へ向かった。
コーヒーマシンの電源を入れて湯が沸くのを待つ。ぼうっ、としている間に準備が完了し、緑色のランプが点灯した。
大きなマグカップにコーヒーを注ぎ、角砂糖を一つ入れてスプーンでかき混ぜ、部屋の明かりを消し、カップを持って、つまづかないよう慎重に窓ぎわへ歩いて行った。
遮光カーテンを半分だけ開けて窓の外を見る。
夜明け前。
空を
深夜の完全な黒とは違う、ほんの少しだけ青みを帯びた黒。
東の地平線の向こうから少しだけ太陽の光が染み出ている。
その、ほとんど黒く少しだけ明るい空を建物の影が切り取っていた。
皆が寝静まり、誰も居ない町。
書斎に戻ると印刷が完了していた。画面上で何度も見直した原稿がプリンターの出力紙受けに束になっていた。
ワープロの電源を落とし、プリンターから原稿の束を取って、
ミリタリー・コートを着て封筒を小脇に抱え、集合住宅の高層階にある部屋から廊下に出て鍵を締め、エレベーターで一階のエントランス・ホールまで下りて建物の外に出た。
息が白い。
春先、夜明け前の空気は冷たかった。
夜明け前の光にボンヤリ照らされた町を歩く。
十字路の角に設置された郵便ポストに封筒を放り込み、住宅街の路地から国道に出て、歩道を東に向かって歩いた。
まっすぐ伸びる国道の先、東の地平線が青紫色に輝いている。
目的地の食堂までの十五分間に、自家用車が一台、長距離トラックが二台、川上の横を通り過ぎて行った。
「サンセット・ダイナー、二十四時間営業」の看板が見えた。
駐車場には長距離トラックが一台。
中に入ると、カウンターの向こうから白帽子に白衣を着てエプロンを着けた店の亭主が「いらっしゃい」と低い声で言った。
カウンターにトラックの運転手らしきゴツイ男が一人。他に客は居ない。
「夜明け前定食」
川上の注文に亭主は黙って
定食のトレーが川上の前に出された直後、運転手らしき客が勘定を払って出て行った。
店の中は川上と亭主の二人だけになった。
「前回来たときに言っていたアイディアは、どうなった? もう書き終えたのかい?」亭主が川上に
川上は、カウンターに向かって小さく
「そうか……で、最後のオチは? 主人公の娘はどうなる?」
発表前の原稿について他人に話すのは
(どのみち、あれが出版される日は来ないさ)
そう自分に言い聞かせる。
「なるほど、そういう結末か……見事に裏切られたよ」川上の話しを聞き終え、食堂の亭主が満足げに笑った。「まさか、そんなオチだとは、な。いや、楽しませてもらった」
「気に入って
「家に帰ったら、また次を書き始めるんだろう?」と重ねて
「書いて、散歩して、ご飯を食べて、散歩して、帰って、また書いて、散歩して、食事をして……書き上げたら郵便ポストに入れて、また次を書く」
「大変なんだろうね」
「それは、どの仕事も同じだろう。親父さんだって、さ」
「まあな。料理を作って、客に出して、勘定をして、また料理を作る。これの繰り返しだ。楽しみと言えば、客から面白い話を聞かせてもらう事くらいかな」
「小説のネタをばらしてやった代わりに、ひとつ聞きたい事があるんだ」
「俺が答えられることなら、どうぞ」
「なんで『サンセット・ダイナー』っていう屋号なんだ?」
「自分の店を持つのが若い頃からの夢でね……妻と二人で必死に働いて金を
亭主は一度、ほっ、と息を吐き、話を続けた。
「この町に来て宿屋に入ったところで、夕食まで時間があるから辺りをぶらぶら歩いてみようと妻が言いだした。それで、日の暮れかかった町を妻と二人で散歩した。しばらくして大きな河に突き当たって、河畔の遊歩道だかサイクリング・ロードだかを、沈んでいく夕日を眺めながら歩いたよ。……そして妻が『ここにしましょう』って言ったんだ。ここに住もう、って」
「それで『サンセット』?」
食堂の親父が
「こんな事になるなら『ビフォア・ドーン・ダイナー』とでも名付けるんだった」
「コーヒーを
川上が注文して、親父がコーヒーカップを出しながら言った。
「夕暮れと言えば、例の『夕暮れ娘』だが」
「ああ……えっと、サキ、とか言ったか」
「そう。その、サキ子さんが、とうとうこの町を出るらしい」
「ええ? 彼女、トラックの運転手に乗せて行ってもらうとか言ってたけど……じゃあ、本当に乗せてくれる相手が見つかったってわけか?」
「さっき彼女が来て、注文もせずに『
「なんか怪しいな。大丈夫だろうか」
「分からん。……まあ彼女も大人だし、俺の娘って訳でもないし、他人がどうこう言う訳にもいかんだろう」
『夕暮れ娘』というのは、この『サンセット・ダイナー』に良く来る若い女のことだった。
何度も店に足を運ぶうちに、川上と娘は店内で少しおしゃべりをする程度の知り合いになった。店の外で彼女に会ったことは無い。この町のどの辺りに住んでいるのかも知らない。
定食を食べながら「地球の裏側には、きっと『夕暮れの町』があるはずだ」と良く言っていた。
突然、地球を襲った地軸の変動と公転運動の変化で「永遠に夜明け前が続く場所」になってしまったこの町を出て、その「夕暮れの町」とやらへ行って暮すのが夢らしい。
「永遠に夜明け前が続く町があるのなら、地球の反対側には永遠に夕暮れの続く町がある。それが理屈って
夏の終わりの夕暮れ、デッキチェアに寝そべって良く冷やしたオレンジ風味のビールを飲む……どうせ繰り返される毎日なら、そんなのが良い。若い女はオレンジジュースを飲みながら食堂の親父と川上に夢を語った。
ドアが開く音がして、店の亭主が顔を上げ、川上に言った。
「噂をすれば『夕暮れ娘』のおでましだ」
川上が振り返ると、てかてかしたビニール製の真っ赤なジャンパーにジーンズ姿の若い女が立っていた。
「最後の最後の、本当に最後の挨拶をしようと思って」
夕暮れ娘が言った。
「
それから振り返って、カウンターでコーヒーを
「川上さんも。元気で。向こうで川上さんの本を買って読むわ。外国の本屋さんに売っていたら、ね」
川上は曖昧な笑みを浮かべて「元気でな」と返した。
娘は最後に「それじゃ」と言って、店を出た。
川上が窓ごしに駐車場を見ると、古びた小型のハッチバック車へ小走りに向かう赤いジャンパーが見えた。
ハッチバックは国道に鼻先を向け、店の方に尻を向けて窓のすぐ外に停車していた。ハッチの窓から、荷室にぎゅうぎゅうに詰められたダンボール箱やら、大型のダッフルバッグやら、テントの入った袋やらキャンプ用品が見えた。
各地を放浪しているという若い男の顔は分からなかった。
しばらくして、エンジンを始動させる音が窓越しに聞こえた。
苦しそうなエンジン音だった。
古い小型車がゆっくりと動き出し、駐車場の出口へ向かう。
「大丈夫かな?」
国道に出て走り去って行く車を見送りながら、川上がつぶやく。
「……心配しても、我々にはどうにもならん」と答えて、飯屋の亭主は小さく首を振った。
「まあ、そうなんだけど」
カップに残ったコーヒーを飲み干し、「ごちそうさま」と言って、ポケットから財布を出し、勘定を払う。
「川上さんは町を出る気は無いのかい? あの娘みたいに、さ。『夜明け前の町』を出て、『夕暮れの町』でも
釣り銭を返しながら、店の親父が川上に聞いてきた。
「無いよ。親父さんもそうだろ?」
「そうだな。俺の女房が『ここに住もう』って言った町だからな。妻が『好きだ』って言ってた町だ……たぶん……今でも好きに違いない。それに、店の事もある。俺一人、全てを放り出して
「たしかに……そりゃ、困る。この店が閉店したら朝ごはんを食べる場所が無くなる」
最後にそう言って、川上は店を出た。
相変わらず夜明け前の薄明るい空。春先の冷たく澄んだ空気。
街路樹と街灯の続く国道をしばらく歩き、適当な所で国道を
街灯に照らされ真っ直ぐに伸びた県道の先に、橋が見えた。
橋へ続く登り坂の手前で県道から路地に入り、堤防の階段を上がって河畔の遊歩道に出た。
黒々とした河に沿ってしばらく歩く。
食堂の亭主が初めてこの町に来たときに歩き、彼の妻が「この町に住もう」と決めたという遊歩道を、ゆっくりゆっくり、飽きるまで歩く。
夜明け前の薄明るい空の下、冷たい春先の空気を吸いながら、
別に夕日を見て住もうと決めたわけではないが、川上も川上の妻も、静かなこの町が好きだった。静かで穏やかで美しい町だ。
自分は今、妻と二人でこの遊歩道を歩いているんだと想像してみた。
寒空の下、コートを着た妻が自分の隣に寄り添って歩いている姿を思い浮かべる。
幻の妻が、川上の顔を見上げた。
ニッコリ笑った妻の顔を……幻の顔を……川上は見つめた。ミリタリー・コートの下で体が熱くなるのが分かった。
誰も居ない暗い遊歩道で妻の肩を抱き、優しく唇を合わせたかった。
突然、川上の想像力が途切れ、幻が消えた。
暗い川沿いの道を、再び、たった一人で歩きはじめる。
誰も居ない夜明け前の河畔を一時間以上歩き、さらにその倍の時間をかけて誰も居ない夜明け前の住宅街を歩き回り、自分の家に帰った。
何時間歩いても、この町は相変わらず夜明け前だった。
自動ドアに暗証番号を入力し、エントランス・ホールを抜けてエレベーターで自分たちの住む階層へ昇る。
鍵を開け部屋の中に入り、寝室へ向かった。
寝室のベッドに、女が一人で眠っていた。
河畔の遊歩道で自分を見上げた幻と同じ顔の、女。
ベッドで眠る妻の顔に自分の顔を近づけ、頬にキスをした。
妻の体温。柔らかな感触。
一瞬、この体温と柔らかな肌を全身で感じたいという欲求が湧き上がる。
川上は、湧き上がる自分の欲望を何とか抑え、もう一度、妻の首にキスをして彼女の香りを肺一杯に吸い込み、寝室を出た。
永遠に夜明け前の続く町で、永遠に眠り続ける妻。
森の中で眠る姫は王子の
ある日突然、地球の自転と公転が止まり、この町の時間は「夜明け前」から先に進まなくなった。
自転が止まった瞬間、ほとんどの町民が眠っていた。夜明け前が永遠に続く町で、彼らは永遠に眠り続ける。
自転が止まった瞬間、ごく一部の人間は眠らずにいた。夜明け前が永遠に続く町で、彼らは眠ることなく生き続ける。
眠り続ける者と、永遠に眠れない者。
あの瞬間、寝ていたか起きていたかで、町の人間はくっきり二種類に分けられた。
川上が妻の横で眠ることはない。川上の妻が目覚めることもない。
書斎に戻り、ワード・プロセッサーの電源を入れた。
記憶装置の容量を見る。使用済み領域はほんの
あと百年……いや、ひょっとしたら千年、毎日毎日キーボードを叩いても埋まらない程の容量だ。
永久に供給され続ける電気。埋まらないワープロの記憶装置。いつまで
なぜか満杯にもならず、中身が腐敗する事もないゴミ箱。
永遠に夜明け前の続く町で、永遠に眠り続ける町民と、永遠に眠れない少数の者たち。
川上はワープロを操作して新しいファイルを作成し、真っ白な画面を開いた。
(このファイルに新しい物語を打ち終えたら、原稿を印刷して郵便ポストに放り込み、サンセット・ダイナーへ行って朝飯を
そんな事を考えながら、キーボードを叩いて最初の一語を入力した。