青葉台旭のノートブック

映画「シン・仮面ライダー」を観た

鑑賞日と劇場を変えて、2回観た。

  1. TOHOシネマズ日本橋
  2. TOHOシネマズ六本木(ドルビーアトモス)

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脚本 庵野秀明
監督 庵野秀明
出演 池松壮亮 他

ネタバレ注意

この記事には以下のネタバレが含まれます。

  1. 「シン・仮面ライダー」
  2. 「Vガンダム」

結論

まずは結論。

良い映画だった。

泣きはしなかったが、ちょっと目が潤んだ。

ただし、2回目に観たときは、だ。

最初に観たときは、それほどでもなかった。

こんな経験は、初めてだ。

若い時に観た映画を数十年後に観返したら、評価が逆になった、という経験は偶(たま)にある。
しかし、翌々日に再び観て評価が変わった経験は、初めてだ。

1回目は「まあまあ」、2回目は「良かった」

最初に観終わった時の私の気持ちを言えば、
「つまらないという程でもないけれど、面白いという程でもない」
という感じだった。

劇場へ向かうときには、あの「シン・ゴジラ」を作った庵野秀明監督の最新作、という高い期待を持っていた。

映画が終わって劇場を後にした時の私の気持ちは、

「特別に悪いという訳でもないが、まあ、この程度の物か」

という感じだった。
ただし、これは私の心持ちの半分しか表現できていない。

私の心の残り半分が、そのとき何を思っていたかというと……
とにかく、訳もなくザワザワしていた。

それは「期待が外れたときの怒りや苛立ち」という物とも違う。

ただ、ひたすらに心がザワザワしていた。

そして私の中の本能的な何かが、
「とにかく出来るだけ早く、もう一度観ろ」
と、私に命令した。

私の中にあった「ザワザワ」とした感じ、そして「出来るだけ早く、もう一度観なければ」という強迫観念のようなものが何だったのか、今でも良くは分からない。

映画的な直感、か。

だとしたら、私の感性もまだまだ現役だ。

まだまだ若いモンには負けんぞぉー!

以下、ネタバレ

これからネタバレ感想に入ります。

1度目の鑑賞で感じた欠点。

案の定、ネット上は賛否両論だ。

否定的な意見の代表は、以下のようなものだろう。

  • CGがチャチ。
  • トンネル内でのアクションが暗くて良く分からない。
  • 原作ファンに媚びているだけの作品。

これらが間違っているとは言わないが、しかし的外れだ。
間違っているとは言わないが、どれも瑣末(さまつ)な話だ。

初回に私が感じた「シン・仮面ライダー」最大の欠点は、これだ。

「どのキャラにも感情移入できない」

例えば、ハチオーグとの対決。
かつてショッカーの施設で幼馴染(おさななじみ)のようにして育ったであろうハチオーグと緑川ルリ子。
しかし今は敵と味方に分かれて戦う運命。

……という設定なんでしょ? いや、理屈は分ります。分かっています。

しかしドラマチックであるはずのその設定が、全く胸に迫って来ない。
誰が死のうが殺されようが、こちらの感情が全く動かされない。

「へええ、ハチオーグとルリ子は親友だったのね。その親友同士が対決する展開ね。ふーん。あ、そう」

程度の物だ。

キャラクターを、彼らのバックボーンを描かないというのは「シン・ゴジラ」の頃から言われている庵野秀明の特徴だ。

キャラクターに感情移入させないクールでドライな態度が「シン・ゴジラ」を名作たらしめている、というのが現在主流の評価だろう。
私も、そう思う。

しかし「シン・ウルトラマン」「シン・仮面ライダー」と続くに従って、キャラへの感情移入の難しさが弊害になりつつあると思う。

主人公の内面を列挙してみると、

  1. シン・ゴジラ(ゴジラの内面は無)
  2. シン・ウルトラマン(内面は異星人が半分、人間が半分)
  3. シン・仮面ライダー(内面は人間)

シン・ゴジラに於(お)いては、あくまで主役はゴジラであり、ゴジラの出現が日本に与えた「異常な状況」だ。
個々のキャラクターの出自背景が描かれていなくても、観客は状況に右往左往する彼らと感情を共有できた。

その一方、「シン・仮面ライダー」は本郷猛の物語であり、緑川ルリ子の物語であり、一文字隼人の物語だ。
彼らへの感情移入を拒否されたまま物語に没入するのは、さすがに難しい。

感情移入できなければ、観客は映画を終始「冷めた目」で見てしまう。
冷めた目で見れば、なるほどチャチなCGだな、という結論に至る。

繰り返すが、チャチなCGは瑣末な現象に過ぎない。
キャラに感情移入できない事こそが、この映画の最大の欠点だ。

……と、最初に観たときは思った。

しかし、なぜか私の心はザワザワしていた。
割り切れない何かを感じた。
もう一度観ろと本能が命じた。

2回観て、終始、感動しっぱなしだった

どうした事だろうか?

2度目の鑑賞では、冒頭から登場人物たちに感情移入できた。

最初に観たときには「上滑(うわすべ)りしてるなぁ」と感じたハチオーグと緑川ルリ子の親友対決が、2度目に観たときにはグッと心に迫って来た。

終始、お嬢さま然として高慢な感じを漂わすハチオーグ。しかし彼女は何処(どこ)か寂しげだ。
それを痛ましげに見つめるルリ子。

演じる西野七瀬と浜辺美波の演技の豊かさ。

彼女たちだけではない。

主演の池松壮亮、柄本佑、政府エージェントを演じた竹野内豊、斎藤工。ラスボスの森山未來。

抑制の効いた、それでいて豊かな存在感。

良い役者たちだ。そして良い映画だ。

いま気づいたのだが、この作品は役者のドアップが多い。
つまり「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウェスト」と同じ系統の映画という訳だ。
黙って役者たちの顔を楽しめ、という映画。

なぜ私は、1度目と2度目で、これほどまでに違った感想を抱いたのか?

本当のところは分からないが、仮説なら1つ立てられる。

「キャラクターについて1度履修済みになった事で、2度目の鑑賞では思う存分に感情移入できた」

前述の通り、クドクドとキャラクターを深掘りしないのが、庵野秀明の流儀だ。

私は、この庵野の流儀が好きだ。

しかし、映画を2回観ないとキャラに感情移入できない・感動できないという作りも、さすがに如何(いかが)な物かと、この「シン・仮面ライダー」を観て思った。

現在エンターテイメント界隈で主流の「キャラを丹念に描く」手法は、ちょっと野暮ったい。

しかし庵野映画のように2回観ないと感情移入できないのも困る。

両者の中間あたりが、丁度良い塩梅(あんばい)なのだろうか?

共感は情報ではなく時間から生まれる

おそらく、観客をキャラクターに感情移入させるために必要な物は「情報」ではなく「共に歩んだ時間」だ。
「はい、このキャラには、こんな悲しい過去がありますよ」という情報ではなく、キャラクターと観客が、スクリーンの向こう側とこちら側とで共有した時間が、両者の一体感・連帯感・共感を生むのだ。

ふたたび結論

1度目は「まあ、こんな物か」という感想だったが、2度目に観た時には感動した。

確かな事は言えないが、1度映画を観た事で、キャラクターたちと私との間で時間が共有され、次に映画を観るときに感情移入できる素地(そじ)が、私の中に出来上がったのかも知れない。

この映画を1度観て、何だか心がザワザワしている人には、「もう1回観ては如何(いかが)か?」とお勧めしたい。
キャラへの感情移入がスムースに行くかもしれない。
感情移入が出来れば、あらためて俳優たちの素晴らしい演技を堪能できる。

以下、感じたことをつらつら書く。

ラスト・シーン

5年前、安彦良和監督の映画「劇場版 クラッシャージョウ」を配信で観た。

10代の頃に1度観ている。
大変に面白い映画だったという記憶が残っている。

大人になって観なおしたら、少年時代の記憶ほどには面白いと思えなかった。

板野一郎のメカアクションは流石(さすが)だと思ったが、全体のストーリーは今観ると平凡だ。

「子供の頃は、もっと面白いと思ったのになぁ。思い出補正ってやつか?」

などと言いながらラスト・シーンまで観た。

海岸沿いのハイウェイで、オープンカーを走らせるジョウ。助手席にはアルフィン。
アルフィンが叫ぶ。
「ジョウ! 飛ばして!」
ハイウェイを加速するオープンカー、それに被(かぶ)さるように始まる前田憲男の壮大なテーマ曲。

この瞬間、俺は思った。
(ず、ずるい……)

ずるいよ、安彦監督……
ラストに、こんなん観せられたら、もう全部許ちゃうじゃん。
メイン・ストーリーに多少の欠点があったとしても、全部許して、「はい、参りました! 良い映画確定です!」ってなっちゃうじゃん。

「くやしい! でも感動しちゃう!」
深夜、私は液晶モニターに向かってクリムゾン構文を呟(つぶや)くのだった。

そして「シン・仮面ライダー」のラスト。

海沿いのハイウェイ。
サイクロン号を走らせる一文字隼人。
「スピードを上げてくれ」
脳内に響く本郷猛の声。
加速するサイクロン号。
そこに被さるエンディング曲。

私は映画館のスクリーンに向かって、心の中で呟いた。
「くやしい! でも感動しちゃう!」

プラーナとユートピア

ロボットやスーパーヒーローのエネルギー源は、作者にとって腕の見せ所の1つだ。

今回は「プラーナ」

一種の生体エネルギーであり、意志を持った「魂」のような存在らしい。

私は、ロボットやヒーローのエネルギー源に「精神エネルギー」あるいはそれに類する物を設定するのは避けた方が良いと思っている。

もちろん、芸術家は自分の描きたいものを描けば良い、とも思っている。
どうしてもロボやヒーローのエネルギー源に「精神エネルギー」的な物を設定したいのなら、好きにすれば良い。
しかし、お勧めはしない。

ロボやヒーローのエネルギー源として使うには、「精神エネルギー」の類(たぐい)は、それ自体のキャラクター性が強すぎる。

物語のメイン・テーマが、
「ユートピア(理想社会)への渇望、その不可能性から来る絶望」
である場合、さらに注意が必要だ。

「人の精神の有りようさえも反映したエネルギー源」と「ユートピア願望」との相性が良すぎるのだ。

およそ30年前、私は、小説版「Vガンダム」を読んで、クライマックスで祈りを捧げるシャクティ・カリンの描写に深い感動を覚えた。
そして、こう思った。
「『精神エネルギー』と『ユートピア願望』は、富野由悠季以外の人間が安易に手を出して良いモチーフではない」

安易に使えば、物語がオカルト的、スピリチュアル的、さらには新興宗教的な色を帯びてしまう。

「シン・仮面ライダー」に関して言えば、緑川ルリ子が一文字隼人の洗脳を解く描写が気になった。

もちろん、
「生体コンピュータである緑川ルリ子が一文字のヘルメットに触れる事でハッキングが可能になり、結果、一文字の洗脳解除に成功した」
という説明づけは出来るだろう。

しかし、実際にスクリーンに写っている絵面(えづら)は、「キリストの前に跪(ひざまづ)き信徒になる男」だ。
もう少し即物的な描写でも良かったのではないか。

ヘルメットにUSBケーブルをブッ刺して、ショッカー印のMacbookから洗脳解除プログラムをダウンロードする……というのは、まあ、冗談だが。

「パリハライズ」というネーミングも、じゃっかん新興宗教っぽい。

セリフ回しのセンスには、ちょっと頂けない部分もある

例えば「ルリルリ」とか。

「ところがギッチョン」とか。

敵オーグたちの性格づけ

ステレオ・タイプな「ヒャッハー」系が多すぎるように感じる。

白衣の男たち

政府が用意した本郷たちの隠れ家では、白衣の男たちがサイクロン号を調べていた。

これがラストの「新サイクロン号」に繋がるのだろう。

新ヘルメットにしても、新サイクロン号にしても、ショッカーのテクノロジーが政府機関によって解析されて作られた物だ。

つまり、政府はショッカー・ライダーを量産するテクノロジーを手に入れた訳だ。

続編が有るのか無いのかは分からないが、仮に続編が作られるとしたら、この設定は後々難しい問題をはらむと思う。

サイクロン号の武器

最初の場面、本郷猛と緑川ルリ子を乗せたサイクロン号と2台のトラックのチェイスについて。

サイクロン号が追っ手のトラックとバリケード・トラックの間に挟まり、トラックが爆発して、サイクロン号が吹っ飛ぶ。

このとき本郷が「FIRE」と書かれたボタンを押したように見えたのだが、この爆発は、サイクロンに搭載された何らかの武器による意図的な攻撃なのだろうか?

それとも、サイクロンがトラックに潰されて爆発したという描写なのだろうか?

似たような場面が、トンネルでのショッカー・ライダーたちとの戦いにも存在する。

トンネル内に放置された重機にサイクロンが衝突して大爆発を起こす。

その後、素手で戦ったダブル・ライダーは、再びバイクに乗って緑川一郎のアジトに向かう。

このサイクロン号は、彼らが元々乗っていた物か? それとも敵ショッカー・ライダーから奪った物か?

物語冒頭、山小屋に置かれていたサイクロン号は、トラックとのチェイスで本郷たちが乗っていた物と同一の個体か? それとも別のサイクロン号か?

ルリ子復活の可能性

物語の最後、「ルリ子のプラーナ(魂)は、政府によって保管されている」と、竹野内豊演じる政府機関の男が言う。

一方、ルリ子の肉体は、もともとクローン技術によって作られた人工物だ。

となると、政府機関がルリ子の肉体をクローン培養して、保管しておいたプラーナをその脳に移植すれば、彼女は復活するのではないか?

これは作劇上、非常に危険な可能性だと思う。

「ヒロインが死んでも、地球を逆回転させて時間を巻き戻せばOK」とか、「彼女が死ななかった世界線を選べばOK」的な、「なーんだ、それが出来るなら何でもアリじゃん」という事にならないか?

政府のエージェントとK

本郷猛と緑川ルリ子は、常に政府エージェントたちの監視下、というより庇護下にある。

エージェントたちは、本郷とルリ子に情報を提供し、隠れ家を提供し、着替えを提供し、ハチオーグのアジトに突然現れて彼女にトドメを刺す。
米軍の無人偵察機さえも借りて来てくれる。

だったら、空から仮面ライダーを降下させるなんて回りくどいことをせずに、直接、敵のアジトにミサイルなり爆弾を落とせば良いじゃん、というツッコミを入れたくなる。

一方、ショッカーのオーグ幹部より上位の存在、「アイ」と呼ばれるスーパー・コンピュータとKというロボットも、本郷とルリ子を監視している。

ライダーにしても、ショッカー怪人にしても、命のやりとりをしている筈(はず)なのに、どこかしら親の庇護下でゴッコ遊びをしているような印象を受ける。

出たり入ったり

本郷は、ハチ・オーグのアジトに2回、出たり入ったりしている。
緑川一郎のアジトにも2回、出たり入ったりしている。

この辺りも現実味が無い。

アジトのデザイン

現実味が無いと言えば、敵オーグのアジトのインテリア・デザインも何だか現実味が無い。

リアリズムではない

つまり、敵オーグのアジトも、オーグ自身も、リアリズムではない。

敵のアジトは、「不思議の国のアリス」が迷い込んだ「不思議の国」であり、敵オーグはそこに住む一風変わった住人であり、本郷猛と緑川ルリ子は不思議の国と現実世界を行ったり来たりするアリスという訳か。

いや、政府エージェントという訳のわからない男たちに守られたこちら側の世界も、ひょっとしたら幻なのかも知れない。

ん? という事は?
本郷のプラーナ(魂)は、ハビタットならぬ、アイが作り出した仮想現実の中に既に閉じ込められていて、全ては仮想現実世界の出来事なのかも……

というのは、もちろん冗談だが……なんか「カリガリ博士」みたいだな。
そう言われてみれば、オーグたちのアジトは、なんかドイツ表現主義っぽい。

リアリズムで怪異を描く

エンターテイメントの主流は、「近代の表現技法(写実主義あるいは自然主義)で描かれた前近代的な怪異」だ。

スティーブン・キングは、アメリカの有りふれた田舎町の様子を、そこに住む人々の生き様を、丹念に、丹念に描く。
人物造形をリアルに丹念にやりながら、徐々に非現実的な怪異を差し込んでいく。

それが彼の持ち味であり、多くの読者が評価しているところだ。

しかし私は、少しクドいと思う。

何か別のエンターテイメントを観たい

ハリウッドの大作エンターテイメントを幾つか観ると、それらに共通の手触りあると感じる。
全く違うストーリー、別の役者、別の監督である筈なのに、どこか風合いが似ている。

それが悪いという訳ではないが、人間は飽きる動物だ。

別の手触りの映画を、ハリウッドとは違う手触りのエンターテイメントを観たいと思う。

それは、いわゆる「アート作品」ではない。

多くの人に支持される面白さがあって、それでいて現在主流のエンターテイメント作法ではない何かを持った作品を観てみたい。

追記(2023年3月22日)

あらためて反芻してみると「シン・仮面ライダー」は3種類のパートに分かれていると思った。

  1. 仮面ライダーのアクション・シーン
  2. 敵オーグのアジト
  3. それ以外

仮面ライダーのアクション・シーン

アクション・シーンが始まると同時に、雰囲気がガラリと変わる。

かつての庵野少年が夢に描いた事を、還暦を過ぎた庵野監督が実現しているパートなのだろう。

このパートは、CGを使えば監督の思い通りにデザイン出来る。

敵オーグのアジト

先にも述べたように、ここはリアルなアジトを目指していない。

ある種の「おとぎの国」のようなものだ。

あえて抽象化され象徴化された空間と人物。

ここも、監督が思い通りにデザイン出来る。

それ以外

監督がデザインもコントロールも出来ない領域。

ただ角度を決めて切り取ることしか出来ない領域。

具体的には、俳優の表情・大自然・巨大建造物(ダム・工場・鉄道など)

この領域こそが、現在の庵野が最も興味を惹かれている物なのかも知れない。

それは彼が元々アニメーション監督である事と関係している。

画面内の全てを完全に支配下に置けるアニメーションでは感じられない「不自由さ」を、彼は求めたのかも知れない。

追記その2(2023年3月22日)

いま私が欲しいのは、アートではない。
あくまでエンターテイメントだ。

新しい感性と方法で紡がれたエンターテイメンを求めている。

2023-03-21 23:10