映画「知りすぎた少女」を観た
映画「知りすぎた少女」を観た
U-NEXT にて。
脚本 マリオ・バーヴァ、エンツォ・コルブッチ、エンニオ・デ・コンチーニ、エリアーナ・デ・サバタ、ミーノ・グェルリーニ、フランコ・プロスペリ
監督 マリオ・バーヴァ
出演 レティシア・ロマン 他
ネタバレ注意
この記事にはネタバレが含まれます。
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ひとこと感想
1963年公開。
先日、同監督の「処刑男爵」を観終わったとき、私は以下のような事を思った。
「ひょっとしたら、マリオ・バーヴァの本質は『おしゃれ監督』なのかも知れない」
その思いは「知りすぎた少女」を観た後さらに強くなった。
おしゃれなホラー監督
少し前にポッドキャスト番組「松原タニシの恐味津々」を聞いていたら、ゲスト出演していた平山夢明が以下のように言っていた。
「だいだい、怪談ってさ、どっか粋(いき)じゃないと駄目なんだよ」
「まず、粋な人間が話すっていうのが、大前提なんだ」
「遊びだもん。怪談って」
これを聞いて私は「なるほど、上手いことを言う」と膝を打った。
マリオ・バーヴァ監督も「遊びだもん、ホラー映画って」などと思いながら、血なまぐさいホラーやスリラーものを撮り続けていたのかも知れない。
血なまぐさい表現で観客をグーッと引き付けておいて、最後の最後で「フッ」と外しに来るというか、肩透かしを食らわせる感じがある。
ファッション・リーダーたちが言う所の「頑張り過ぎない」感覚をバーヴァも持っていたのだろう。
俳優選び
出演者選びにもバーヴァ独特の「おしゃれセンス」が発揮されている。
ひとことで言えば「マネキンのような美男・美女」
抽象的で現実離れした顔立ちだ。
荒木飛呂彦の漫画「ジョジョの奇妙な冒険」の登場人物みたいな顔の役者が、この監督の好みだ。
構図へのこだわり
バーヴァの映画を連続して観ると、構図に関して特別なこだわりを持つ監督だと分かる。
市川崑
バーヴァの映画を何本か観るうち、市川崑の名が頭に浮かんで来た。
市川の金田一耕助シリーズも田舎を舞台にした陰惨で血なまぐさい因縁話でありながら、どこか都会的なセンスを感じる映画だ。
構図に対するこだわりという点でも、ちょっと似ている所がある。
その一方で、タイミングに関しても強いこだわりを持っていた市川に比べると、バーヴァの編集は平凡だと思う。
史上初のジャッロ映画
ジャッロ映画の歴史は「知りすぎた少女」から始まったらしい。
私はジャッロを「どぎついエログロが売りのスリラー映画」の事だと思っていた。
しかし、この史上初のジャッロ映画「知りすぎた少女」は、たしかに連続殺人スリラーではあるのだが、全体の雰囲気はポップ、おしゃれ、軽やか、そしてコミカルでさえあった。
ちょっとジャッロに対する認識が変わった。
アメリカ人がヨーロッパで酷い目にあう
この「知りすぎた少女」も、その前に観た「処刑男爵」も、「ヨーロッパにやって来たアメリカ人の旅行者が、ヨーロッパで酷い目に合う」という物語だった。
別の監督だが、ダリオ・アルジェントの「サスペリア」も、ヨーロッパにやって来たアメリカ人が酷い目に合うという映画だ。
ジャッロ映画に共通の「主人公はアメリカ人・舞台はヨーロッパ」という構造は何なのかと思う。
マカロニ・ウェスタンなどと同じく、最大の映画市場アメリカでの成功を念頭に制作されているからだろうか?
あるいは、近代合理主義の象徴・自由と物質的豊かさの象徴=アメリカ人という意味かも知れない。
対して、ヨーロッパが象徴するのは「歴史の重み」「古い因習」「暗黒の中世」「不合理な情念」か。
アメリカとヨーロッパというのは、つくづく「すれ違いの相思相愛」だなぁ、と思う。
アメリカ人は、数千年にも及ぶヨーロッパの歴史にあこがれ、無数のヨーロッパ美術・建築にあこがれ、金では買えない貴族の血統にあこがれ、その洗練された身のこなしにあこがれる。
対するヨーロッパ人はヨーロッパ人で、歴史の重みから開放された自由の国アメリカにあこがれ、出自に関わらず個人の才能と努力によって上の階級を目指せる実力主義にあこがれ、立ち居振る舞いの奔放さにあこがれる。
ストーリー
最後に、ストーリーについて。
いつも通りのジャッロ映画。
ほんと、どうでもいい。
あれこれ論ずる価値は無い。