映画「猿楽町で会いましょう」を観た
映画「猿楽町で会いましょう」を観た
U-NEXT にて。
脚本 児山隆、渋谷悠
監督 児山隆
出演 石川瑠華、金子大地 他
ネタバレ防止
この記事にはネタバレが含まれます。
ネタバレ防止の雑談
映画開始わずか数秒で「あ、これは良い映画だ」と直感する事がある。
最近だと「ドント・ルック・アップ」がそういう映画だった。
この「猿楽町で会いましょう」でも、主人公の若いカメラマンが少し不満げにしている顔のアップから始まった瞬間、(面白そうな映画だ)という直感が働いた。
途中のストーリーに関して少し言いたいことも有ったが、ラストまで観たらやっぱり良い映画だった。
見て良かったなと思えた。
それにしてもこの直感力って何なんでしょうね。
人間に秘められた超能力か、はたまた第六感シックス・センスか……
真面目な話をすると、その映画の演技、撮影、編集のレベルの高さが、もう既に最初の数秒、最初の数カットに表れているのだろう。
観客である私は無意識にそれを察知しているのか。
これがデビュー作の監督らしいが、とてもデビューとは思えない手練れの撮影と編集だ。
と、思ったら、長らく広告業界で映像を作っていた人か。
いずれにしろ要注目の監督だ。児玉隆。名前は憶えたぞ。
以上、ネタバレ防止の雑談でした。
以下、ネタバレ。
ひとこと感想。
思い付いた順番で、つらつらと感想を書く。
役者も良い
恋人たちを演じる石川瑠華、金子大地はもちろん、脇を固める役者の演技も良い。
最初のワンカットわずか数秒で監督の腕の良さを直感した私だが、同時に、金子大地の演技にも感心した。
雑誌の採用面接の約束をすっぽかされた若手カメラマン。
不機嫌と所在なさを隠して大人社会の真ん中に立つ若者の感じがよく表れている。
それと、早朝に彼女のマンションで待ち伏せをした時の血走った目がすごい。
普通「血走った目」という言葉は比喩的な表現で使われるものだが、金子大地のギョロリと見開いた目には本当に血管が走っていて怖い。
石川瑠華の演技も素晴らしい。
とくにラストの、バレバレの嘘をつく感じが素晴らしい。
「うぇぇ、この期に及んで、まだシラを切るんだ」って思って、ちょっとゾワッ……と来た。
同時に、ああ、こういう女って実際に居そうだよなぁとも思った。
そしたら2度ゾワッと来た。
石川瑠華演じるヒロインの役どころの関していは後述する。
石川瑠華と金子大地。要注目の役者だ。名前を憶えた。
ちょい役だがヒロインの元彼氏役を演じた栁俊太郎の演技も良い。
頼りになるお兄さんポジションが、仕事のストレスから徐々に荒んで行く感じを良く表している。
ヒロインのライバルというか元友人役の小西桜子も良かった。
今回の物語では、一番良い役どころだ。
これに関しても後述する。
恋愛映画の皮をかぶったワナビー映画
「ワナビー」という若者言葉がある。
2022年現在あまり耳にしなくなったが、10年くらい前は頻繁に使われていた。
「I wanna be …」つまり、何者かになりたいと思っている、しかしまだ何者でもない若い人たちを指す言葉だ。
「意識高い系」がそうであるように、対象を揶揄する感じで使われる。
この映画は、恋愛映画の形を借りたワナビー映画だった。
そういう意味では少し「ラ・ラ・ランド」に似ている。
大人たち
何者かになろうとする若い人たちを取り巻く大人社会のイヤらしさも、よく表現されていた。
ヒロインが入学した俳優養成所が象徴するように、大人たちはワナビーの若者を食い物にする事しか考えていない。
大人の代表は、前野健太演じる雑誌編集長だろう。
冒頭で、主人公の若手カメラマンに「お前の写真にはパッションが無い。お前は本当に人を好きになった事が無い」などと説教を垂れながら、彼自身、ヒロインとの情事の後に「人を好きになった事なんて何時(いつ)か忘れてしまう。そんな物に意味なんて無いっしょ」と吐露する。
俳優養成所の講師しかり、雑誌編集長しかり、かつては彼ら自身が情熱に溢れ夢を追う若きワナビーだったとしても、年齢を経れば枯れてしまう。
そして若者を食い物にする業界ゴロに成り果てる。
あるいは情熱の放棄と引き換えに、安定した地位を得る。
最初は洗練された優しい都会のお兄さん的な立ち位置で現れたヒロインの元カレも、新進気鋭インテリア・デザイナーだったはずが、厳しいクリエイティブ業界で精神をすり減らし、だんだん荒んで行ってヒロインに当たるようになる。
この元彼氏には、雑誌編集長のような未来が待ち受けていると思った。
10年後、20年後、きっと元カレは雑誌編集長のような中年になり果てているだろう。そう暗示されているように感じた。
フィルム・ノワールに登場するファム・ファタール
余談だが、ファム・ファタールは一般に「運命の女」と訳される。
運命的な出会いをした女、という意味だ。
それに加えて、フランス語の「ファタール」には「致命的」という意味もあったはずだ。
この言葉には「致命的な女」という含意もあると思う。
フィルム・ノワールに話を戻す。
少し前、私はフィルム・ノワールについて勉強しようと思い、各種配信サービスで名作と呼ばれるノワール映画を何作品か観た。
ダシール・ハメットの同名小説を映画化した「マルタの鷹」と、レイモンド・チャンドラーの「大いなる眠り」を映画化した「三つ数えろ」を連続して観たとき、私は「あれ?」と思った。
確かに、どちらの物語にもヒロインが登場する……のだが、それまで私が勝手に想像していたファム・ファタール像とは、ずいぶん印象が違っていた。
ひとことで言うと、どちらのヒロインも思った以上に愚かだった。
それまでの私はファム・ファタールという言葉に、どこか「ルパン三世」の峰不二子のような、聡明かつ妖艶で、周囲の男どもの一枚も二枚も上手を行って、彼らを手玉に取り翻弄する女……というイメージを勝手に抱いていた。
しかし実際、元祖フィルム・ノワールとも言うべき「マルタの鷹」と「三つ数えろ」を観ると、そういう私の思い込みとは大きく違うヒロイン像が描かれていた。
それらの中に描かれていた「運命の女」「致命的な女」は、「自らの器(うつわ)以上の幸運に恵まれ、あるいはそれを望んだ結果、周囲の男たちを巻き込んで自滅する女」だった。
峰不二子のような「カッコイイ悪女」とは対照的な、場合によっては善良とさえ言える女、しかし致命的なまでに愚かな女の事だった。
たしか北野武の映画だったと思うが、組織の金を持ち逃げしたチンピラをヒットマンが殺すときに、こんなセリフを吐いていた。
「にいちゃん、変な夢みるんじゃないよ」
初期のファム・ファタールとは、言ってみれば「変な夢を見てしまったせいで、他人を巻き添えにして自滅する女」の事だった。
石川瑠華が演じる本作品のヒロインにも、この初期ノワール的な意味でのファム・ファタール像を非常に色濃く感じた。
登場人物、全員、不真面目
この映画が描いているのは、一種の「ワナビー地獄」だ。
なぜワナビー世界が地獄なのかと言えば、どいつもこいつも不真面目(ふまじめ)だからだ。
「意識高い系」という言葉にせよ、「ワナビー」にせよ、それが揶揄的に使われるのは、言われる対象が「意識高いフリをしているだけ」「何者かになりたいフリをしているだけ」だからだ。
最後の最後、ギリギリの所で真剣味が足りない。
この映画に登場しているのは、どこか自分の人生に対する真剣味に欠けた人物ばかりだ。
編集長しかり、ヒロインしかり、主人公の若きカメラマンしかり。
ある夜、主人公の元に編集部から電話が掛かって来る。
「正規のカメラマンが急病になったから、代役を頼む」と。
彼にとっては願ってもいない千載一遇のチャンスだ。
ところが、そこに突然ヒロインが現れて「お願い、今夜は一緒に居て」などと、のたまう。
(おいおい、お前の勝手な都合で彼氏のチャンスを奪うなよ)
と思っていたら、いきなり彼氏の方も仕事の打ち合わせソッチのけで彼女を抱きしめ野獣セックス。
何だ、どっちもどっちの馬鹿ップルか。
お前ら、本当に成功する気あんの?
この後、彼女との初セックスにご満悦な彼氏が色々あって仕事もゲットしちゃう所は、正直、ご都合主義だなと思った。
ただ一人、真摯な人物
この物語で唯一、自分自身の人生と真摯に向き合っている人物が、小西桜子演じるヒロインの元友人だ。
唯一、彼女だけが目標を持って人生を歩んでいる。
もし本当に彼女のような人物が身近に居たとしたら、それはそれで傍迷惑(はためいわく)な存在かもしれない。
彼女の中にも、彼女なりの強いエゴと、成り上がり志向と、裏切りと嫉妬心が渦巻いているのかも知れない。
しかし、それでも、自分の仕事・自分の人生に対する彼女の姿勢は本物だ。
この物語世界では、地位ある大人も若いワナビーも、どいつもこいつも不真面目に生きている。
そんな中、ただひとり真摯に自分の人生を歩んでいる彼女の姿勢が爽やかに感じられた。
主人公カメラマンの成長
実は、この物語で唯一、主人公の若手カメラマンだけが少し成長している。
主人公は、小西桜子演じる女優とのロケ撮影で「私があなたを指名した」と告白される。
おそらく彼女の真意は、こうだ。
「お前には才能がある。さっさとワナビー地獄に見切りをつけて、こっちの世界に来い」
ラスト・バトル
出張から早めに帰ってきた彼氏が、彼女の浮気現場を目撃して修羅場になる。
ここで突然、彼氏がカメラを取り出して、彼女の写真を撮る。
この行為に訳の分からない説得力があって良かった。
ラスト・シーン
ラスト・シーンは素晴らしかった。
夜明け前、誰も居ない渋谷の通りを走るヒロイン。その顔には既に狂気が差している。
ついに彼女の精神は崩壊してしまったのか。
そこに重ねられるCM採用でのインタビュー。
その後しばらくして、彼氏はボロ・アパートを引き払う。
彼がカメラマンとして次のステップを昇った証(あかし)だ。
ワナビー地獄から抜け出し人生を歩き出した男と、狂気をはらんで道路を走り夜明け前の都会に消えた女。
その対比が素晴らしい。
誰も居ない部屋にエンディング・ソング。
「ここが、天国だと思った……」
切れ味の良い、それでいて深い余韻の残るラストだ。
とにかく、カメラ・アングルと編集が素晴らしい
例えば「ドント・ルック・アップ」では、あるシーンの葛藤が解決する直前にスパッと切って次のシーンに移っていた。
そこにセンスの良さを感じた。
この「猿楽町で会いましょう」も同じだ。
観客が見せて欲しい物を全部見せずに、観客の期待よりコンマ何秒か短めにカットしていた。
素晴らしいセンスだ。
物の隙間から覗くようなカメラ・アングルも、さりげなく適切な場所に使われていて効果的だった。
とても才能のある監督だと思う。
今後に期待する。
気になった点
最初のシーン、雑誌編集部に立つ主人公の表情は素晴らしかったのだが、反面その周囲で忙しそうにしている編集部員たちの演技は、わざとらしかった。
何か仕事の話をしながら主人公の横を歩いていく編集部員とか、背後の机やテーブルで打ち合わせをしている編集部員とかの演技が、少し気になった。
背景がボケていれば気にならないのだが。
彼らは、雇ったエキストラだろうか? どこかの出版社の本物の編集部員だろうか?
それと主人公の室内に自転車が見当たらないのも気になった。
ああいうスポーツ・タイプの自転車に乗っている人は、盗まれないようアパートの中に自転車を持ち込んで保管しているはずだ。
白っぽい画面と、時間の巻き戻し
白っぽい画面は、この映画にはとても合っていたと思う。
しかし、他の映画では多用して欲しくないと思った。
「今を遡(さかのぼ)ること、〇ヶ月前……」みたいな時間の巻き戻しは、この映画に関しては必要不可欠だったと思う。
しかし、他の映画では多用して欲しくないと思った。
やっつけ仕事のクリエーター
2つあるCMオーディションのうち、最初の「牛丼の気持ちになって何でも良いから言って」っていう、やっつけ仕事のCMディレクターに笑った。