映画「ダークナイト ライジング」を観た
映画「ダークナイト ライジング」を観た
Netflix にて。
脚本 ジョナサン・ノーラン、クリストファー・ノーラン
監督 クリストファー・ノーラン
出演 クリスチャン・ベール 他
ネタバレ注意
この記事にはネタバレがあります。
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ひとこと感想
テロリストに占拠されたゴッサム・シティ(実質ニューヨーク)を、バットマンと市警察が奪還するという話。
……なのだが、現実にウクライナで戦争が勃発し、その市街戦の映像が日々伝えられている現在、どうしてもゴッサムでの市街戦が作り物に見えてしまって困った。
フィクションと現実が違うのは当たり前、エンタテイメントと現実が違うのは当たり前、そんな事をいちいち論(あげつら)うのは無粋……と頭では分かっているのだが、私が映画を観て事実そう感じたのだから仕方が無い。
終戦後、最初のゴジラが作られるまで9年かかった。
震災後、シン・ゴジラが作られるまで5年かかった。
現実の災厄をフィクションとして鑑賞できるようになるには、ある程度の年月が必要なのかも知れない。
もちろん、これは受け手の問題、私自身の問題だ。
本作品のクライマックスがゴッサム(実質ニューヨーク)での市街戦だったからと言って、本作品が悪い訳ではない。
映画とは不思議なもので、ひとたび物語世界への没入から醒めて(冷めて)しまうと、今度はアラばかりが目立ってしまう。
バットマンには、「両親が拳銃で殺されたため、彼自身は拳銃を決して使わない」という設定があったと思う。
だから敵を倒すのにバット・ラング(手裏剣)を使っているという設定だったはずだ。
その割には、彼が使っている車やバイク、ヘリコプターらしき乗り物には、やけに強力な銃火器が搭載されている。
拳銃はダメでも、大口径のガトリング・ガンは良いのだろうか?
キャラクター設定にブレがあると思うのだが、どうだろう?
余談だが、キャットウーマンの乗っていたバイクの前輪に装備された長銃身の武器に関して、一体どんな設定なのか気になった。
単なる対物ライフルにしては威力が大きすぎる。
私が本作品で「そりゃ無いだろ」と一番シラけてしまった箇所は、
「テロリストの首領が実は影武者で、本当の首領は、ブルースと仲の良かった良識派の重役でした」
というオチだ。
確かに言われてみれば、ブルースとのセックス中、彼女の背中に古傷があるという描写があった。
しかし、その程度の伏線で「彼女が真犯人でした」と言われても、驚きよりガッカリ感の方が勝ってしまう。
スーパーパワーの無いスーパーヒーロー
とかくスーパーヒーローは巨大な敵、巨大な危機と戦いがちだ。
人類滅亡の危機、地球滅亡の危機、宇宙滅亡の危機……
いわゆるジャンプ漫画の「敵のインフレ問題」を、ハリウッド製スーパーヒーローも抱えているように思える。
しかし私は、もっと個人的な『小さな物語』としてのスーパーヒーロー物は出来ないものかと思う。
昔のスーパーヒーローは、街のチンピラを取っ捕まえて縛り上げ警察に突き出す位で満足していた。
ヴィラン連中は、ちょっと毛色の違うチンピラ程度だった。
そんな時代に戻ったような、言ってみれば『私小説的スーパーヒーロー』を作れないものかと思う。
最近、よく考えるのが『スーパーパワーの無いスーパーヒーロー』としてのバットマンだ。
有名どころで唯一の『スーパーパワーを持たないスーパーヒーロー』であるが故に、自ずとバットマンの物語規模には限界がある。
その特性が今となっては逆に好ましく思える。
だから私は、バットマン・スーツの能力が防弾チョッキ程度のままであって欲しいと思っているし、バット・モービルの性能もチューンナップしたスポーツカー程度であって欲しいと思っている。
あまりにも強力なスーパー兵器は、バットマンには相応(ふさわ)しくない。
今回の『ダークナイト ライジング』は、私にとって大仕掛け過ぎたし、スーパーメカも強力過ぎた。
上で述べた通り、今の私は、銃弾とミサイルが飛び交いビルが破壊されるような映画を鑑賞する気になれない。
今は、もっとパーソナルなヒーロー物を観たい。