映画「大怪獣のあとしまつ」を観た
映画「大怪獣のあとしまつ」を観た
映画「大怪獣のあとしまつ」を観た
新宿バルト9にて。
脚本 三木聡
監督 三木聡
出演 山田涼介 他
ふと劇場で映画を観たくなって、バルト9で「大怪獣のあとしまつ」を観た。
『公開初日』に特別なこだわりは無いが、たまたま今日は公開初日だった。
ネタバレ注意
この記事にはネタバレが含まれます。
ネタバレ防止の雑談
数えた事はないが、私の人生において、東京ディズニーランドに行った経験は、おそらく10回未満だと思う。
最初の頃は、その広大さ巨大さに単純に感動し楽しんでいたのだが、何回か行くうち、楽しみながらも以下のような思いが頭を過(よぎ)るようになった。
「この夢の国を現実世界に成立させるためには、どれだけ多くのエネルギーと人の力が必要なのだろうか?」
……と。
湖の上をスイスイと優雅に進む白鳥は、水面下では必死に足を掻(か)いていると言う。
夢の国を夢の国たらしめているのは、莫大な電力と、物量と、よく訓練され統制の取れたダンサー・スタッフたちの日々の努力だ。
それらは何に裏打ちされているのか?
もちろん、莫大な資本の力、ぶっちゃけ金の力、つまりは『大人の力』だ。
ディズニーランドは……そしてハリウッド映画は「いつまでもピュアな子供の心のままでいるのって、素敵よね? 大事だよね?」というメッセージを、日々、送り続ける。
最近、私自身への戒めも含めて、「ハリウッドが世界中にバラまいているそのメッセージを、果たして真に受けて良いのだろうか?」と思う。
彼の地のクリエーターたちの中には、本当に少年のようにピュアな人物も多い事だろう。
しかし、彼らがフイルムの上に『夢の国』を作り上げるためには、平均80億円とも100億円とも言われる製作費が……すなわち『資本』が、それを出してくれる資本家たちの協力が必要だ。
では、資本家たちは、なぜクリエーターに金を出したのか?
クリエーターの『夢』に賛同したからか?
一部は、そうだろう。
だが資本家は、あくまで資本家であって、慈善家じゃない。
彼らは彼らなりの打算・計算・嗅覚・目利き力によって、そこからリターンを得られる確率が高いと踏んで、賭けているのだ。
彼ら投資家たちの目利き力(資本回収力)の優秀さが、クールでドライな大人の原理こそが、ハリウッドにエネルギーを供給し続け、夢の国を夢の国たらしめている事を、私たちは忘れるべきではない。
以上、ネタバレ防止の雑談でした。
以下、ネタバレ。
ひとこと感想
うーん……正直、微妙だった。
この手の『脱力系ギャグ映画』と、怪獣映画=壮大なスペクタクル映画との相性が悪かったのか。
あるいは『脱力系ギャグ』で劇場長編映画を撮ること自体が、もはや時代遅れなのか。
首相官邸の会議室のチープさが気になった。
おそらく『シン・ゴジラ』の総理官邸での会議シーンをパロディ化しているのだろうが、『パロディなんだから本家よりチープでも許される』という時代ではないと思う。
『劣化コピー』と謗(そし)られるだけだ。
そもそも「シン・ゴジラ」の会議シーン自体が現実の政治のパロディになっているのだから、今さらそのパロディをしてみても、屋上屋を架しているだけというか、パロディの重ね塗り、二番煎じにしかならないだろう。
巨大災害を扱った政治コメディで思い出すのは『ドント・ルック・アップ』だ。
私は今年の初めに観て、大いに楽しんだ。
その『ドント・ルック・アップ』において、登場人物たちのキャラ造形には(誇張されているにせよ)一定のリアリティがあり、役者たちの演技は真面目だった。
その真面目さが逆に笑いを誘った。
対して、本作品のギャグ・シーンは、演者自身が『さあ、笑って下さい』と言わんばかりに『おチャラけ』てしまっている。
演者がおチャラけると、観客は白ける。
(さすがに染谷将太のあの姿には、私も笑ってしまったが)
『アキラ』のパロディ
映画『アキラ』に出てきた新興宗教そっくりのデモ隊が、環境大臣の車を取り囲むシーンがある。
その絵ヅラが……しょぼい。あまりにも、しょぼい。
「アキラのパロディ! クールで最先端! カッコイイ!」と観客に思われたい、ドヤ顔したいという気持ちは良く分かる。
「絵ヅラが貧相なのは仕方ないよ。だって予算が無いんだもん。そこは酌量してよ」と、言いたい気持ちも分かる。
しかし、その両方を観客に求めるのは、ちょっと虫が良すぎる。
ウルトラマン落ち
三年前の回想シーンで主人公が『謎の光』に包まれれば、誰だってピンと来る。
それをメインの謎として最後まで引っ張るのは、如何なものか。
そもそも、主人公が三年前からウルトラマンだったのなら、そしてクライマックスで全ての努力が水泡に帰した後、ウルトラマンに変身して怪獣を宇宙に持っていくのなら、なぜ最初からそれをやらない?
最初からウルトラマンに変身していれば、ヒロインの兄を始めとして多くの人の命が危険に晒される事もなかったはずだ。
それとも、これに関しても作り手側は「いちいち、細かい所にケチつけないで下さいよ、しょせんは脱力系パロディ低予算映画なんスから」で逃げるつもりか。
だとしたら、背中にしょってる『東映』と『松竹』の二枚看板が泣いてるぞ。
オチと言えば、エンドロール後の「製作費半分で次回作うんぬん」という小芝居も、やめた方が良い。
作り手側は、気の利いたことをしているつもりなのだろうが、観ている方はイラッとするだけだ。
怪獣のデザイン
予告編で、ゆるキャラみたいな怪獣のデザインを見たときから、嫌な予感がしていた。
あのゆるいデザインが、
『あくまでこの映画は、ゆるい脱力系パロディ映画ですからね〜、そこ勘違いしないでね〜、真面目な怪獣映画を求めちゃダメよ〜』
という、作り手側の発するサインのように思われたからだ。
しかし、それは後ろ向きの『逃げ』の姿勢ではないだろうか?
ちゃんと最初から最後まで真面目に作り上げて、その徹底した真面目さが醸し出す笑いでもってコメディとするべきではないのか?
『ドント・ルック・アップ』を観てしまった今は、特にそう感じてしまう。
女優について
ヒロイン役の女優は存在感がある。
土屋太鳳っていうのか。相撲取りみたいだなと思ったら『たいほう』じゃなくて『たお』って読むのか。
彼女は、生まれながらのスターかも知れない。
何もせずとも、ただスクリーンに彼女の顔が映っているだけで画面が引き締まる。
存在それ自体に、観客を惹きつける力がある。
それと、主人公の部下でスナイパー役の女優も個性的だ。
不思議な目の色をしていて、惹き込まれる。
浅野忠信とCHARAの娘なのか……
浅野忠信の家系にはロシア人の血が流れていると聞くが、あの不思議な目の色は隔世遺伝なのだろうか?
Filmarks
映画を観たあと他の観客たちがどういう感想を持ったかをネットで検索する習慣が、私にはある。
本作品を観たあと、『こりゃ、怪獣オタク的には炎上案件かもなぁ』などと思いながら Filmarks を開いてみた。
案の定、阿鼻叫喚・罵詈雑言コメントの連続。
しかし、何だかんだ言って、お前ら怪獣ファンって良い奴らだよな。
今日は初日だぜ?
あーだ、こーだ言いつつ、ちゃんと初日に観に行ってるじゃん。
お前らのそういう所、嫌いじゃない。
追記(2022.2.5)
ふと思いついたんだが、ひょっとして作り手がこの映画でやりたかったのって、「ドント・ルック・アップ」みたいな大掛かりな災害政治コメディじゃなくて、ジャームッシュ監督の「デッド・ドント・ダイ」だったのかな?
一流の俳優を使って、日常脱力系の災害映画を撮りたかったのかな?
例えて言うなら「怪獣・オールレディ・ダイ」
そう考えると、あの唐突な終わり方も、「デッド・ドント・ダイ」に少し似ている。
だとしたら、上流工程の企画を通すところから、予算規模、予告編、劇場の選定まで、製作陣の中でボタンの掛け違いがずっと続いてしまったような気がする。
製作陣はプロジェクトが発足する前にもう一度、企画を通す前にもう一度、自分たちが本当にやりたいことは何なのか、そして、予算も含めて、自分たちにその能力が本当にあるのかをじっくり考えるべきだったかも知れない。
追記その2(2022.2.5)
昨日から今日にかけて、つらつらと本作品のレビューをネットで漁っている。
その中で、ひとつ面白い解釈があったので、紹介しておく。
この中で、以下のような解釈が述べられていた。
「主人公=ウルトラマン=神(ゼウス)が物語の初めに事態を解決しなかったのは、人類を試していたからではないか」
ああ、なるほど、と思った。
つまり、この物語全体が、聖書などにある『神の試し』だったという訳か。
最後の最後まで人類自身の手で解決することを期待していたが、ついに諦めて、神さま御自身からの手で解決することにした、と。
そう考えると、確かに筋が通るし、なかなか洒落たラストのようにも思えてきた。