青葉台旭のノートブック

「DUNE/デューン 砂の惑星」を観た

「DUNE/デューン 砂の惑星」を観た

グランドシネマサンシャイン池袋にて。

公式ページ

脚本 エリック・ロス、ジョン・スペイツ、ドゥニ・ヴィルヌーヴ
監督 ドゥニ・ヴィルヌーヴ
出演 ティモシー・シャラメ 他

ネタバレ注意

この記事にはネタバレが含まれます。

雑談

歳を取るほどに、出不精になってしまった。
映画でも観ようかな……と、ふと思った時は、パソコンを立ち上げNetflixなりU-NEXTで映画を物色してしまう。

以前は、映画.com で『現在上映中の映画』ページを開いて「さて、どんな映画が掛かっているかな?」と物色したものだが。

追い討ちをかけるように、いわゆるコロナ禍の世になった。
出不精がますます加速した。

自身のブログを調べてみると、7月の「ライトハウス」以降、劇場に足を運んでいなかった。

ある日、ふと『デューン』を観ようと思い立った。

久しぶりの劇場映画鑑賞だ。

せっかくの壮大なスペース・オペラ、せっかくの宇宙物語絵巻だ。
どうせなら可能な限り機材の良い劇場で観ようと思った。
調べてみると、数あるアイマックス・シアターの中でも、最高水準の仕様である「アイマックス・GT」とか言うやつが池袋にあるらしい。
で、池袋に行ってみた。

記憶が正しければ、池袋の地に降り立つのは約20年ぶり、か。

姉がサンシャイン60の真下にある女子高に通っていたり、兄が護国寺にある高校に通っていたり、私自身も一時期、千石に住んでいたりしたので、そこそこ池袋には行っていたと思うけれど、あまり記憶に残っていない。

若い頃は本の虫だったから、(電車代をケチって)白山通りを延々歩いて神保町まで行った思い出なら、幾らでもあるのだが……

20年ぶりに降り立った池袋は、記憶の中の池袋と同じだったとも言えるし、変わっているようでもあった。

交差する道の角度や位置関係は、もちろん記憶どおりだ。
駅直通の西武デパートやサンシャイン60などのランドマークも相変わらず。
ビルのテナントに入っている商店や飲食店は、随分と入れ替わった印象がある。
その一方で、20年前と変わらない姿のまま残っている店舗もある。

「あ、ここは、こんな店に変わっちゃったんだ……」とか、
「あ、この喫茶店、20年前と同じだ」とか思いながら、足早に通りを歩いた。

何十年も前の記憶に残る街、久しぶりに訪れた土地。
何だか不思議だ。

ホームタウンのようにウンザリするほど見慣れた町でもない。
初めて訪れる観光地のような全く知らない土地、という訳でもない。

例えるなら、20年ぶりに会った旧友か。

街は、ちょっとずつ、ちょっとずつ変化する。
古いテナントが立ち退いて、新しい店がテナントに入り、古いビルが取り壊され、新しいビルが建つ。
大きな変化は滅多に起きないとも言えるし、毎日・毎月・毎年どこかしら確実に変わって行くとも言える。

Google Map を頼りに、目指す「グランドシネマサンシャイン池袋」に辿(たど)りついた。

ふえー、ずいぶんと立派な建物やな。
立派すぎて劇場への入り口が分からない。

俺は焦(あせ)った。

劇場に行くときはいつも、少なくとも開演30分前には到着するよう計算して家を出る。
あいにくその日は出かける間際に便意をもよおし、iPad を持ってトイレに駆け込んだのだが、脱糞しながら観たYOUTUBE動画が予想外に面白く、気がついたら便所の中で30分以上が経過していて、急いでパンツをずり上げて家を出た。

結果、開演数分前に到着してしまった。

どうにか映画館ロビーに辿り着き、予約しておいたチケットを発行しようと券売機に並んだら、なかなか前の客が終わらない。

それも何とかクリアして、券を発行し、さあ映画を観るぞと思ったら、今度はアイマックス・シアターへの行き方がわからない。
ロビーと同じフロアにあるのか、それともエスカレータに乗るべきなのか、それとも直通エレベータでもあるのか?

それも何とかクリアして、やっと最上階シアターに着いた。
ジャスト開演時刻。
しかし、ここで焦ってはいけない。
まずは、おしっこをしてからだ。
映画上映中のトイレ離席は、男の恥。

本編上映中に劇場に入るのはマナー違反だが、まだ予告編が流れているだけだろう。
私自身、予告編上映中に劇場内をウロウロされるのさえも嫌なタイプだが、今日ばかりは許してほしい。

トイレで用を済ませ、あらためて劇場に入る。

すでに予告編が上映されている薄暗い劇場内を歩き、二人の女性の間にポツンと一席だけ空いていた自分の予約席に座った。
ウェブ予約の時には気づかなかったが、ひとマス置きに席を埋めるコロナ対策は、どうやら解除されているようだ。
見たところ満員御礼に近い。
本作「DUNE」は各国で好調な興行成績を記録している一方、日本だけは成績が振るわないという噂も聞く。
しかし、私の観た回から推測するに我が国でもなかなかの人気のように思えるのだが、どうだろうか?

そんなこんなで、無事〈砂の惑星アラキス〉行き宇宙船に乗り、太陽系第三惑星地球の池袋を旅立った。

アイマックス初体験。
まずスクリーンの高さに驚いた。
横だけでなく縦方向へ異様なほど長い。
後で調べたら、このグランドサンシャイン池袋のアイマックス・GTは、高さ18.9メートルもある。
なんとガンダムより高いじゃねぇか。
このスクリーンを使えば、等身大のガンダムから等身大のアムロが出てくる所を映せるって訳か。
なんか夢が膨らむなぁ……
親父が熱中するわけだ。

以上、ネタバレ防止の雑談でした。

以下、ネタバレ。

結論

まずは結論。

良い映画かどうかは、さて置いて……
『映画体験』としては、とても満足の行くものだった。

例えて言えば、高級レストランのフルコースをたっぷりと堪能したような気分になった。

こってりと濃厚。
絢爛豪華。
壮大で重厚。
そんな世界観にドップリと浸(ひた)れた。
上映後は、充分な満足感を持って劇場を後にした。

この作品を見た客の感想には、賛否両論があると聞く。
個人的には、濃厚な『映画体験』に大満足だった。
その一方で、『否』へ投票した観客の気持ちも良く分かった。

正直、ストーリーを追っちゃうと大した事ないんだよな。

良く言えば王道の英雄譚、悪く言えば余りにも有りがちなストーリー。
単独の物語、単体の映画として見ると酷く中途半端。消化不良。未完成、未完結。

「長大な原作を一本の映画に収めるなんて、どだい無理な話です。あくまで本作は序章です」
と言い訳してみたところで、

「そんなの製作者側の勝手な都合だろ、こちとら1900円+アイマックス追加料金払ってんだ、一本の映画として完成された物を提供しろよ」
という観客は一定数いると思う。

そして、そんな彼らの言い分にも確かに一理ある。

スペクタクル大作映画

ここで一句。
「金ならある。
 セットの屋根を、
 もっと高く」

スペクタクル大作映画は、何よりもまず『スペクタクル大作』である事に、その存在意義がある。
絢爛豪華な歴史絵巻の存在意義は、何よりもまず『絢爛豪華な歴史絵巻』である事だ。
壮大なSF宇宙叙事詩の存在意義は、何よりもまず『壮大なSF宇宙叙事詩』である事だ。

飛び抜けて巨大で、広大で、壮大で、
主人公は超絶美青年で、
大勢のエキストラが居て、
緻密で、絢爛豪華で、異様で、グロテスクで、美しい。
セット・コスチューム・家具調度品……大道具小道具の圧倒的な大きさと物量と緻密さと美しさで観客を酔いしれさせれば、それで良い。

ストーリー自体に斬新さや感動があるに越した事はない。
しかし、たとえストーリーが凡庸でも、観客を没入させるための単なる触媒・導入剤でしかなかったとしても、特に問題は無い。
絢爛豪華な異世界に没入させてくれれば、それ以上は望まない。

……と、思えるかどうかが、本作品を楽しめるか楽しめないかの分かれ道だろう。

ストーリー

もちろん、
「いやいや、まずは何よりストーリーが大事でしょう。観客は良く出来たストーリーを味わいに映画館に来るんだから。どんなに金をかけた映画でも、肝心のストーリーが駄目なら意味ないよ」という考えがあっても良い。
それは至極まっとうな事だと思う。

また、
「映画を観るのに予備知識が必要って、どういう事よ? 架空の世界の物語なんだから、それに必要な知識は、ちゃんと初見でも分かるように映画の中で噛み砕いて説明してよ」
という意見も、確かにその通りだと思う。

私自身は、すでにデヴィッド・リンチ版の『デューン/砂の惑星』を観ていたし、ハヤカワ文庫の新訳版も第1巻だけ読んでいた。
だから、『既に知っている物語が、今作ではどんな風に料理され映像化されるのか?』という興味に集中できた。

言ってみれば、忠臣蔵みたいなものだ。
既に映像化実績のある既知の物語だからこそ、「さてさて今年の大石内蔵助は誰が演じて、どんな演技をするのかな? 今年の『松の廊下』は、どんな豪華なセットかしら? 吉良邸のセットは? 討ち入りのコスチュームは?」という興味に集中できた。
そして今回は、松の廊下も、吉良邸のセットも豪華絢爛で、討ち入りのコスチュームも素晴らしかった。大石内蔵助も超絶美青年だった。

映画を観るとき、多くの人はネタバレを嫌う。
しかし今回の映画は、逆だ。
せめてリンチ版の映画は観ておいた方が良い。
あえて自らネタバレ状態になって、あえて自らストーリーへの興味を失って、遥か未来の世界観を堪能することに集中した方が楽しめる。

以下、細々(こまごま)とした話

以下に、私の気づいた細々(こまごま)とした事を順不同につらつら書き連ねていく。

オーニソプター

羽ばたき感が良い。
ヘリコプターっぽい感じも良い。
内燃機関のような描写も良い。

巨大感が良い

建物と宇宙船の巨大感が良い。

砂漠の広大さも良い。

砂虫の巨大さは、そうでもない。あんまり伝わって来ない。

バリヤーの描写

「速度の速い攻撃はレーザーであれ弾丸であれ防御するが、速度の遅い攻撃は通過させてしまう。ナイフの突きも、素早くやるほど防御され、ゆっくり切りつけるほどにダメージを与えられる。だから、ゆっくりと攻撃する特殊な格闘術が発達した」という個人装備のバリヤーの描写は、分かりづらかった。

このSF小道具を映像で表現するのは無理なのかもしれない。

個人的には、リンチ版のアナログ表現は味わいがあって好きだ。

大事な物は画面左上から来る

映画の途中で気が付いたのだが、砂虫をはじめ多くの被写体が、画面に向かって左上からフレーム・インして来る事に気づいた。

事あるごとに、観客の視点を画面左上に誘導したがっているように思われた。

左から右、あるいは左上から右下への移動が多い。

その一方で、画面右上の部分が妙にスカスカで寂しい場面が多かった。

これには何か意図があるのか? それとも単に監督の趣味か? あるいは縦長のアイマックス撮影にカメラマンが慣れていないのか?

顔が真ん中にあるバスト・ショット

顔を画面のド真ん中に置いたバスト・ショットが多すぎて、単調になっていると思うのだが、どうだろうか?

ネットを検索すると「後半、飽きた」という意見が散見されるが、この単調な『顔、真ん中、バスト・ショット』の連続に原因があるのではないだろうか?

総じて、風景の絵画的美しさ、人物の肖像画的美しさに対する気配りは感じたが、動き(アクション)に対しては淡白な描写だと感じた。
投げやりとか雑だとか言うのとも違うが、なんとなく「アクションに対しては興味の無い監督なのかな?」と感じてしまった。

リンチ版

私は、長大な原作の文庫版第1巻だけ読んで挫折してしまった軟弱者だが、原作を読むのと前後して鑑賞したリンチ版の「デューン/砂の惑星」は結構好きな映画だ。
ゲテモノ食いだと思われたくないから大きな声では言えないが、正直、最初のスターウォーズ(エピソード4)よりも好きなくらいだ。
リンチ版は、ストーリー的には原作のダイジェスト版に過ぎないのだが、なんだか不思議な味わいがあって、いつまでも心に残っている。

今このブログ記事を書きながら、ヴィルヌーヴ版デューンに関して気づいた事がある。
映画館を出た直後は、異星の風景を描写する力量に圧倒され『久しぶりにドッシリとした豪華な大作映画を観た、満腹、満足』という気持ちになったのだが、このブログを書いている今現在、もう既に、心から印象が消えようとしている。
いっときの満足感はあるが、印象が薄れていくのが案外早いタイプの映画かもしれない。

新たなスペース・オペラ需要の拡大につながるか

日本では思ったほどには売れていないという話も聞く本作品だが、本国アメリカでは順調に数字を伸ばしているらしい。

スターウォーズのメイン・シリーズが一段落して映画制作が休眠期にある現在、同じ『宇宙を舞台にした中世騎士物語』ジャンルであるヴィルヌーブ版デューンが、スペース・オペラに飢えていた観客の受け皿になったのだろうか?

私は以前、『世界の人々は、実はスペース・オペラをそれほど好きではない』という仮説を立てた。
スペース・オペラ発祥の地アメリカでさえ、スターウォーズ・スタートレックの2大巨頭を除けば、あとはポツリポツリと単発的に作られるだけで、スペース・オペラ映画は驚くほど少ない。
同じSF映画でも、ここ十数年で言えば、アメコミ・スーパーヒーロー映画の方が遥かに多く作られているだろう。

だから、私は以前のブログ記事に、こう書いた。
『世界の人々は、実はスペース・オペラをそれほど好きではない』と。

しかし、もし順調にヴィルヌーヴ版デューンが人気を得て長期シリーズ化された暁には、私も考えを改めねばいけないだろう。
『世界の人々は、実は、宇宙を舞台にした中世騎士物語を待ち望んでいる、その需要は存在する』と。

スターウォーズで更新された惑星描写が、本作でまた更新された

1977年にスターウォーズ第1作(エピソード4)が公開された時、その斬新な描写に世界中の人々が度肝を抜かれ、多くのクリエーターが影響を受けた。
遙か未来(スターウォーズ風に言えば遥か過去)、遥か遠くの惑星を描写する時の基準を、スターウォーズは一夜にして更新した。

2作目(エピソード5)3作目(エピソード6)と続き、さまざまな環境の惑星が描写された。
砂漠の星、ジャングルの星、氷と雪の星、巨木の星。

……しかし……

そこからが問題だった。
ある時期以降、スターウォーズ・シリーズは新たな異世界観の創出をやめてしまったように思う。

「エピソード1〜9とその間に挟まる『ローグ・ワン』と『ハン・ソロ』は、一つの大きなサーガの一部であり、世界観を大きく変える訳にはいかない」と言われれば、そうかもね、と答えるしかない。

それにしても、だ。
世界観そのものをいじる訳にはいかないとしても、そろそろ見せ方に新しさが欲しいんだけどな……と、新たな映画が公開される度に思っていた。とくに直近の三部作に関して強く思った。
ライトセーバーをダブルにしてみたり、十文字にしてみたり、ちょっと毛色の変わったロボットやクリーチャーを追加してみたりっていう小さな変更以上の新味がそろそろ欲しいと思っていた。
(注:私はディズニーの配信サービスに入会していないので、近年評判の高いマンダロリアンは観ていない)

そこへ本作『DUNE』が現れた。

原作が古いこともあり、砂漠の民にせよ、サンドワームにせよ、砂漠を移動する巨大なキャタピラー付き工場にせよ、オーニソプターにせよ、一つ一つを見れば、今となっては手垢の付いてしまった大道具・小道具ばかりだ。
にも関わらず、それらによって立ち現れた世界観には、確かに、今までにない新しさがある。

どこがどうとは言えないが、確かに、更新された次世代の新しさを感じる。

徹底的にコントロールされたディテールが、そう感じさせるのだろうか?
それとも、カメラ・アングルの斬新さだろうか?
絵画的なワンショット・ワンショットの積み重ねだろうか?

今はまだ、よく分からない。
ただ一つ言えるのは、
1977年のスターウォーズが『遠い未来の遠い惑星』描写を更新したように、
2021年のデューンは『遠い未来の遠い惑星』描写を再度、更新した、
という事だ。

遠くの惑星に、現実世界をどこまで持ち込むべきか

異世界の政治文化風俗をデザインするときに、現実世界の特定の時代・地域・民族をモチーフにするのはよくある話で、そのこと自体に問題は無い。

しかし、何事にも塩梅、バランスがあろう。

ちょうど良い匙加減で止めるのも、料理長たる映画監督の腕前だ。

本作品では、砂漠の民と支配者たる貴族たちの関係が、誰が観ても、現実世界の中東の民とアメリカ軍を連想するように描かれていた。

私個人のセンスで言うと、これはいささか、やり過ぎのように感じた。
現実の中東を連想させ過ぎだと思った。

近未来の地球が舞台の物語ならいざ知らず、デューンは1万年以上の遠い未来、何万光年も離れた遠い惑星の話だ。

あまりにも明からさまに現実世界からのモチーフを感じてしまうと、観ている方は冷める。

たとえ原作小説が「アラビアのロレンス」の影響を受けているとしても、だ。

そういうのは隠し味程度、軽く匂わす位がちょうど良い。

2021-11-02 23:19