「GのレコンギスタII ベルリ 撃進」を観た
「GのレコンギスタII ベルリ 撃進」を観た
U-NEXT にて。
脚本 富野由悠季
監督 富野由悠季
出演 石井マーク 他
ネタバレ注意
この記事には、以下のネタバレが含まれます。
- 「GのレコンギスタI 行け!コア・ファイター」
- 「GのレコンギスタII ベルリ 撃進」
言うまでもなく、元になったテレビ版「Gのレコンギスタ」のネタバレも含みます。
ネタバレ防止の雑談
最初期のガンプラ・ブームが日本中を席巻したのは、たしか私が小学校高学年の時だったと記憶している。
世代的に、私はガンダム・ファン第一世代の一番下の方に位置していると思う。
私自身は、筋金入りのガンダム・ファンという訳でもなかったが、富野由悠季という監督は気になる存在だったから、彼の業績は「付かず、離れず」といったスタンスで追いかけて来た。
とは言っても、彼の膨大な作品群すべてを網羅して観ている訳ではない。
とくに近年の作品にはなかなか食指が伸びなかった、というのが正直な所だ。
本作品「Gのレコンギスタ」のテレビ版が放映された時も、リアルタイムでは一度も観なかった。
その私が、なぜ今さら「Gレコ」を観ようと思ったかというと、数ヶ月前、ユーチューブのレコメンド画面に、富野監督自身による劇場版第3部のプロモーション動画が表示されたからだ。
じいちゃん、ウキウキだな。
なんか、すげぇ楽しそうだ。
こんなに楽しそうな富野由悠季の映像を見るのは、初めてじゃないだろうか。
富野監督というと、常に何かに対して怒っていて、ピリピリしている印象があったんだが……八十を前にして、とうとう何らかの境地に到達したのか……
ここ半年くらい、この元気じいさんの印象が、どこか私の心に引っ掛かり続けていた。
それで、本作を観ようと思った。
……まったくの余談だが、1ヶ月ほど前、ユーチューブのレコメンド機能が、今度は宮崎駿の動画をおすすめに表示してきた。
同い年のアニメ業界大御所ふたりが、2021年、同じように映画の宣伝動画に出るという偶然が面白い。
なんだか、ビデオ通話で田舎のお爺ちゃんの安否確認をしている気分だ。
絵のジブリ感
まずは試しにテレビ版の第1話だけを観て、それから劇場版パートI を観て、劇場版パートIIを観た。
テレビ版第1話を観た瞬間に思った。
絵のジブリ感が、すげぇ。
ウィキペディアによれば、キャラクター・デザインと総作画監督をしている吉田健一は、まさにスタジオジブリでキャリアをスタートさせたアニメーターという事だ。
『耳をすませば』『おもいでぽろぽろ』『紅の豚』『もののけ姫』に参加し、その後フリーになったとある。
フリー後は、同じく富野監督の「OVERMANキングゲイナー」や、京田知己監督の「交響詩篇エウレカセブン」などでキャラクター・デザインと作画監督をやっている。
ここで注意すべきは「ジブリ出身なんだから、絵がジブリに似ていて当然でしょ」といった単純な話ではない事だ。
「キングゲイナー」や「エウレカセブン」と比べても、時系列的には後に製作されているはずの本作「Gのレコンギスタ」の方が、キャラのデザインがジブリっぽい。
主人公は、中立的というか、できるだけ固有性を排除した無色透明なデザインだし、少女たちにはジブリ・キャラには無い『萌え』感もキッチリ盛り込まれている。
それでいながら、全体を俯瞰して見たときの『ジブリ感』が、すごい。
とくに中年の男らのデザインだ。
やや釣り目ぎみの、卵形をした目のデザイン。
目とくっつけて描かれる眉毛。
横に張ったエラ。
下から見上げた時に、割としっかり描かれる鼻の穴。
先端に斜線の入った、太いもみあげ。
コスチュームにあしらわれた、ミステリー・サークルみたいな文様。
その後、劇場版を観たら、おかっぱ頭の美少年で白い狩衣のようなコスチュームという、もう、どう見てもジブリ・キャラって感じのクリム・ニックという天才パイロットまで登場した。
基本となる静的なデザインだけでなく、動的なアニメーションもジブリ的だ。
言うまでもない事だが、アニメは単なる現実のトレースではない。
そこには必ず、アニメならではの誇張や省略がある。
……と、いうことは、その動きには必ずアニメーター特有の(あるいはスタジオ特有の)個性が刻まれる。
何気なく振り向いたり見上げたりする首の動きひとつとっても、安彦良和には安彦良和の、湖川友謙には湖川友謙の個性が出る。
「Gのレコンギスタ」テレビ版第1話のキャラクターたちの所作振る舞いは、かなり意図的に『ジブリ風』に寄せているように思われた。
例えば、少年たちがジャンプして着地する瞬間、シコを踏む相撲取りのようにガニ股になる所とか、口を大きく開けた時の形とか、体のひねり具合とか。
描く線のちょっとした揺らぎさえ、ジブリ風を目指しているように思えた。
前述した通り、これらジブリに寄せた表現は、単にキャラクターデザインと総作画監督の吉田健一がジブリ出身であるというだけでは説明がつかない。そんな単純な話ではない。
明らかに意図されたものだ。
それが総監督・富野由悠季の指示によるものなのか、アニメーター自身のチャレンジだったのかは分からない。
ひとつ言えるのは「ジブリ風のキャラクターたちによって演じられるガンダム物語」「ジブリ風のキャラが発する富野ゼリフ」が、古株のアニメ・ファンの脳内に刻まれた先入観を揺さぶって来たことだ。
「ジブリはジブリ、ガンダムはガンダム。絵柄も含めて、両者は相容れないもの」と言う先入観だ。
脳内で自動的・無意識的に切り替えていた「ジブリ鑑賞モード」と「ガンダム鑑賞モード」の切り替えスイッチが、意図的に混乱させられてしまった。
ガンダムのコックピットでヒロインが涙を流し、玉になって漂う涙を彼女が手で払ったとき、ガンダムが描いて来たもの、描かなかったもの……ジブリが描いて来たもの、描かなかったものに気づいた。
ガンダムは、ずっと「無重力と真空」を描いて来た。
ジブリは、ずっと「風」を描いて来た。
モビルスーツは、無重力の宇宙空間では素晴らしい演技をする。
あるいは大気圏に突入し、成層圏を自由落下している間は素晴らしい演技をする。
しかし、空気密度の濃い下層の対流圏に入った途端(とたん)に、鈍重になる。
ジブリはその反対だ。彼らの描くレシプロ・プロペラ機が、空気の薄い成層圏より上へ行く事は無い。
そういえば「ジブリ」は、イタリア製高級車の名前にもなった「南風」を表す「ギブリ」から来ているのだったか。
(注)
以上の感想は、テレビ版第1話および、それを再編集した映画版パートI の冒頭部分に対するものである。
予算的・時間的な制約から、長いテレビ・シリーズの中でエピソード毎の絵の質が安定しないというのは残念ながら良くある話だ。
本作「レコンギスタ」も例に漏れず、テレビ版を再編集した劇場版のシークエンス毎の絵の質にバラつきがある。これは元になったテレビ版のエピソード毎のバラつきに起因するものだろう。
分かりにくい物語の背景と、主人公の行動
いつも通り、映画を観終わった後、ウェブで本作の感想記事を検索してみた。
どうやらテレビ版オンエア当時の評判は、必ずしも芳しいものばかりではなかったようだ。
批判は、大きく分けて二つに集約されるような気がする。
- 分かりにくい物語背景
- 分かりにくい主人公の行動(その動機・行動原理)
物語の分かりにくさに関しては、劇場版を作るにあたって、多少わかりやすく編集し直されたらしい。
私は第1話以外のテレビ・エピソードは見ずに劇場版を見た。
(完全ではないにせよ)話の流れは理解できたが、説明不足でどんどん話が進んでいくなぁ、とは思った。
また、主人公の行動が分かりにくいという皆んなの意見も、その通りだと思った。
しかし、劇場版パートI、パートIIと進めていくうちに「なるほど」と私なりに納得した。
この物語を理解するためのキーワードは、再三、富野監督が言っている「これは子供向けのアニメです」というセリフだ。
これは、ガンダムの世界観を借りた「不思議の国のアリス」だ
ガンダムの世界観を借りて「不思議の国のアリス」をやる。
それが富野由悠季の目論見だ。
小学校低学年くらいに向けて、ファンタジー童話のようなガンダムを作る。
ガンダム・ワールドという異世界を旅して回る物語だ。
行った先々で、とにかく次から次へと不思議な出来事や、華やかな世界観や、胸おどるアクションを矢継ぎ早やに見せる。
アクションや、軌道エレベーターのような未来の建造物のビジュアルを次々に見せて子供を飽きさせない。それを優先事項として作られている。
「なぜ、そうなのか?」の説明は最小限に抑える。あるいは後まわしにする。
対象年齢が小学校低学年なら、権力闘争をする大人たちの複雑な人間関係も、軌道エレベーターの科学的考証も社会的意義も、国家間の複雑な駆け引きも、そもそも説明する必要も無いし、どだい理解できるとも思えない。
もちろん、過去のガンダムがそうであったように、物語の背景は、富野監督の頭の中には存在するのだろう。
しかし、以前の富野なら丹念に描いたであろうそれらを、今回は(大人にとって不親切なまでに)極端に省略した。あるいは説明を後まわしにした。
ガンダムは「子供は子供なりに面白く、大人は大人なりに楽しめる」ことを目指してきたアニメだ。
とはいえ、かつてのガンダムは軸足を大人(思春期より上)に置いていた。
子供が置いてきぼりになっても、それはそれで仕方がないと切り捨てている部分が少なからずあった。
今回の「レコンギスタ」は逆だ。
軸足は、あくまで子供。
大人が置いてきぼりになっても、それはそれで仕方がない。
とにかく(不思議の国のアリスのように)チェシャ猫を追いかけて、異世界めぐりをするのが最優先だ。
チェシャ猫がどんな人生を歩んできて、どんな欲望と葛藤を内に秘めていて、何故そういう行動を取ったかなんて説明は、後まわしで良い。最悪、描かれなくたって良い。
考えてみれば、キャラクターに「過去」や「葛藤」や「欲望」や「コンプレックス」を……つまり「内面」を過剰に求めるのは、エゴを持つ大人の不純さかも知れない。
幼稚園児や小学校低学年の子供には内面が無い。エゴ(自我)が無い。あるのかも知れないが未熟で未発達だ。
彼らにあるのは、本能だ。
眠い、お腹すいた、うんちしたい、キレイなお姉さんのおっぱい触りたい。
ただ、それだけ。
それだけで良い。
主人公に対し「なぜ、そんな突飛な行動を取ったのか」を大人の目線であれこれ考えても仕方がない。
おそらく彼には(少なくとも劇場版I、II の段階では)自我が無い。
見た目は10代後半の少年だが、彼は、視聴者として想定された年齢層、すなわち小学校低学年と本質的に変わらない。
言ってみれば、彼はチェシャ猫を追いかけて不思議の国めぐりをするアリスちゃんだ。自我なんて無くて当然だし、大人の目から見て行動が突飛で当然だ。
主人公の外見(キャラクター・デザイン)も、それを表しているのだろう。
良く言えば、クリーンでニュートラルな見た目。
悪く言えば、特徴が無い。中身が無い。
だが、それで良い。
大人の観客にとっての本作品
この「Gのレコンギスタ」が、ガンダム・ワールドを使った『不思議の国のアリス』である事は分かった。
では、我々のようなエゴにまみれた大人たちが観ても楽しめるのだろうか?
これが案外、楽しめる。
私は、本作品の本質が「アリス・イン・ワンダーランド」ならぬ「アリス・イン・ガンダム・ランド」だと気づいた段階で、ストーリーを……すなわち登場人物たちの内面・行動・葛藤を追うのをやめた。
ストーリーを追うことを完全に放棄した訳ではなかったが、新しい展開や固有名詞が現れても、心の中でメモを取って、すぐに棚上げにした。
すると、ストーリーに変わって立ち上がって来たのは、軌道エレベーターを始めとするユニークな世界観だ。
次から次へと現れるそれらを見ているだけでも楽しい。
いざ戦闘が始まってからの、色々な場所で色々な出来事が同時進行で起きている様子を見せる、富野演出の手際の良さも気持ち良い。
子供にとって一番の大敵は『飽き』だ。
富野監督は、そのサービス精神を最大限発揮して、目の前に美味しそうなケーキを次から次へと出して見せ、子供を飽きさせないようにしている。
大人である我々にとっても、それが案外、心地いい。
ストーリーは棚上げにして、子供と一緒になってポカーンと観るのが、お勧めだ。
リアル・ロボットもの
これは「不思議の国のアリス」のような、小学校低学年向けのファンタジー・アニメだ。
それは分かった。
しかし一方で、相変わらず、これはガンダム・シリーズの最新作であり、相変わらず(ガンダムが先鞭をつけた)リアル・ロボットものであり、要するに『戦争もの』アニメだ。
全体としてはポップで楽しい雰囲気のアニメなのだが、人が死ぬときは死ぬ。
人の死を目の前にして、主要登場人物はショックを受けたり泣いたりする。
ところが次の瞬間には、あっけらかんと明るいムードに戻っている。
さすがに、この変わり身の早さに付いて行けず困惑する場面も少なくなかった。