「クレイジー・キラー 悪魔の焼却炉」を観た
「クレイジー・キラー 悪魔の焼却炉」を観た
U-NEXT にて。
脚本 サンチャゴ・モンカダ、マリオ・ムージー
監督 マリオ・バーヴァ
出演 スティーヴン・フォーサイス 他
ネタバレ注意
この記事にはネタバレが含まれます。
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ひとこと感想
映画を1本観たあと、毎回、その映画のタイトルでブログ記事やFilmarksを検索する。
他の観客が、その映画をどう観たかが気になる。
この「クレイジー・キラー」を観た後も、いつも通りウェブ検索をしてみた。
うーん……わりと低評価だな。
広義のジャッロ映画ではあるし、通俗的・見せ物的なドギツさを売り物にした映画だ。
緻密に練られたストーリーという訳でもない。プロットには少々強引なところも散見される。
確かに、お世辞にも上質なエンターテイメントとは言い難い。
評価が低いのは、仕方のない事か。
しかし敢えて言いたい。
私は、なかなか気に入った。
サイコ連続殺人鬼ものと言うと、現代的なモチーフのように思える。
実際、ヒッチコック『サイコ』の後追い作品である事は容易に想像できる。
一方で私は、(現代劇であるにも関わらず)本作品から19世紀の怪奇小説に似たものを感じた。
ハマー・プロの一連の怪奇作品や、同じマリオ・バーヴァの怪奇時代劇よりも、むしろ本作の方が19世紀的であるとさえ思えた。
まるで『罪と罰』と『スペードの女王』を足して2で割ったような、と言ったら、さすがに言い過ぎか。
物語は、青年実業家で同時に連続美女殺人鬼でもある主人公の独白で進む、一種の『悪漢もの』だ。
悪人自身の視点で、連続犯罪の様子と、最後の失敗、逮捕、破滅が描かれる。
冒頭いきなり、オリエント急行のような個室タイプの寝台列車での犯行シーンから始まる。
犯人(主人公)は、特殊なレンチのような工具で個室の鍵を開け忍び込み、セックス真っ最中の新婚夫婦を惨殺する。
その様子を廊下の隅からジッと見つめる美少年が居る。
しまった! 犯行現場を見られた!
この美少年は、口封じに殺されるのか!?
……と、思いきや、犯人(主人公)と少年は互いに目を合わせるだけだ。
犯人は何事も無かったかのように犯行を続けるし、少年が車掌を呼んだり鉄道警察に通報する事もない。
少年は、ただ一部始終を黙って見つめているだけだ。
ここで、私は少々混乱してしまった。
え? どういう事?
やがて、第二の犯罪が行われる。
あの少年が再び現れる。
そこで、やっと理解した。
ああ、なるほど、この少年は主人公だけに見えている幻覚で、少年期の彼自身の姿なのか、と。
この構成には、ちょっとシビれた。
なかなか粋(いき)な事をやってくれるじゃないか。
後半、主人公は、殺した妻の亡霊に悩まされる。
それも彼の内なる幻覚か? と思いきや、亡霊は周囲の人々の前にだけ姿を現し、主人公には彼女が見えない。
通常のいわゆるサイコ映画とは状況が逆転している。
このあたりに19世紀の怪奇小説の雰囲気を強く感じた。
惜しむらくは、19世紀怪奇小説は短編形式でこそ真価が発揮されるジャンルだった、という事だ。
つまり、長編映画には向いていない。
この『クレイジー・キラー』の上映時間は88分。長編映画としては短い部類だが、それでも間延びした感じは否めなかった。
1時間ジャストくらいが適正な長さだったかもしれない。
結論
エンターテイメントとして見ると、押しが弱い。
一般受けしなかったのは道理だと思う。
しかし、私は好きだ。
余談
このところ古いイタリアン・ジャッロ映画ばかりを連続で観ている。
アマゾン・プライムとU-NEXT は、古い作品を定期的に仕入れてくれるので助かる。
それも皆んなが知っている名作ではなく、いわゆるB級作品を仕入れて来てくれる。
今回連続で観た作品群が、上流階級を舞台にした物ばかりだった事に気づいた。
たまたま偶然だったのかも知れないが、同じプロットでも上流階級や華やかなファッション業界を舞台にするのと、中流以下の社会階層を舞台にするのとでは、だいぶ印象が違うだろうな、とは思った。
リアリズムにはリアリズムの良さがあるだろうけれど、華やかで虚飾に満ちた上流社交会が舞台だからこそ映(は)えるエロ・グロというのも確かにあるだろう。
通俗的でドギツい見せ物エンターテイメントであるジャッロに、上流階級を舞台にしたものが多いというのは面白い。
なんだかんだ言って、大衆は上流階級が大好きという事か。