映画「牯嶺街少年殺人事件」を観た
映画「牯嶺街少年殺人事件」を観た
U-NEXT にて。
脚本 エドワード・ヤン、ヤン・ホンヤー、ヤン・シュンチン、ライ・ミンタン
監督 エドワード・ヤン
出演 チャン・チェン 他
ネタバレ注意
この記事にはネタバレが含まれます。
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神戸高2刺殺事件の犯人が捕まったらしい
11年前に日本で起きた『神戸高2刺殺事件』の犯人が捕まったらしい。
容疑者は当時17歳で、「被害者が女の子と一緒にいるのを見て腹が立ったから刺した」と供述しているらしい。
私は、ちょうど『牯嶺街少年殺人事件』を観終わった直後にこのニュースを目にした。
だからどうした、という訳でもないのだが。
返校
現在(2021年8月)、日本で『返校』という台湾のホラー映画が公開されている。
台湾白色テロ時代をテーマにしたホラー・ゲームが原作という事前情報は、私の耳にも入っている。
そこで、同じ『白色テロ時代の学園もの』という括(くく)りで、本作品『牯嶺街少年殺人事件』を観ておこうと思い立った。
結論
まずは結論。
私は U-NEXT で配信されている236分バージョンを観た。
良い映画だった。かなり長かったが。劇場公開当時は休憩なしで掛けていたらしい。
台湾の白色テロ時代
白色テロというのは『体制による恐怖政治』という意味で、台湾においては1947年の『二・二八事件』から1987年の戒厳令解除までを指す。
第二次世界大戦終戦直後から、なんと1987年までの40年間ずっと戒厳令が続いていた事に驚く。
2021年7月・8月、我が日本でも東京をはじめとして数カ所で緊急事態が宣言されたが、そのハードコアな軍事バージョンが40年間も続いたのか。
考えただけでもゲンナリする話だ。
この『牯嶺街少年殺人事件』は1991年の映画だ。
戒厳令解除からわずか4年後の作品か。
本すじとは関係のない、ついでの話だが、YouTubeのニュース・チャンネルでアナウンサーが『緊急事態宣言が発令されました』とか『首相が緊急事態宣言を発出しました』とか言っているが、あれは『首相が緊急事態を宣言しました』というのが正しいと思う。
戒厳令なら『発令』で良いが、緊急事態宣言は、『緊急事態を宣言する』が正しい使い方だろう。
いや、戒厳令とは『戒厳の令』だから『戒厳令の発令』も若干の重複感は否めないか。完全に間違いとまでは言わないが。
本省人と外省人
もともとは単に『本省人=地元民』『外省人=外からの移住者』という程度の意味で使われる一般的な言葉らしい。
『台湾の歴史における』という文脈で語られる場合は、とくに『本省人=日本統治以前から住んでいた人々』と『外省人=戦後、国民党と一緒に大陸から逃げて来た人々』という意味合いを帯びる。
外省人は戦後にやって来た『よそ者』で、人口比においても圧倒的な少数派でありながら、支配者階級の座に収まっていた。
過酷な弾圧で元から住んでいた本省人たちを支配していた。
『マイノリティが恐怖と暴力と弾圧でマジョリティを支配する』という、世界史に時どき現れる構図だ。
少数派が多数派を支配しようと思ったら、極端な強権政治に頼るのが一番手っ取り早い。
しかし全ての外省人が裕福な支配階級に属していた訳ではない。
わずかな伝(つて)を頼って内戦状態の大陸から逃げて来た難民のような貧しい者も居た。
また、知識階級に属する外省人の中には、国民党の敵である共産党との繋がりを疑われて投獄され処刑された者も多い。
単純化すると、白色テロ時代には以下の四つの階級があったという事だろう。
- 過酷な白色テロ体制を敷いた外省人(少数派・富裕層)
- 内戦の大陸から逃げてきた外省人(少数派・貧困層)
- 同じ外省人でありながら支配階級に弾圧されたインテリたち(少数派・知識層)
- もとから台湾に住んでいた本省人(多数派)
この四つの階級のうち『牯嶺街少年殺人事件』の主な登場人物は、1〜3に属している。
すなわち『裕福な外省人』『インテリ階級の外省人』『貧しい外省人』だ。
代表的な例を挙げると、
- 裕福な外省人の代表が、軍司令官の息子・小馬。
- 貧しい外省人の代表が、ヒロイン・小明。
- インテリ外省人の代表が、主人公・小四の一家。
それと、ヤクザ者・アウトロー。
教養人の素質がありながら(あるいは、それゆえに)アウトローの人生を歩む若者ハニーや、その敵対勢力の山東など、ヤクザ者の登場人物たちも外省人だ。
その一方で、明らかに本省人であると分かった登場人物は一人だけだった。
八百屋(雑貨屋)の林だ。
この映画のテーマ
この映画は『台湾に居場所を作れない、あるいは作ろうとしない、根なし草のようにしか生きられない外省人たちの物語』だろう。
恐怖政治によって台湾を支配する外省人だが、しかし彼らには居場所が無い。
台湾に居場所がないからこそ、土地に根を下ろせていないからこそ、恐怖と暴力によって本省人(地元民)を支配するしかない。
その『よりどころの無さ』『居場所の無さ』が、この映画のテーマだと今気づいた。
台湾に居場所の無い外省人の苦悩が本作品のテーマだと気づくと、あらゆる設定がそれを暗示していると分かる。
もともと台湾に家を持っている本省人と違って、外省人たちは日本人が残して行った家に住まざるを得ない。
かつて敵であった日本人の家に、だ。
これほど居心地の悪いこともないだろう。
支配者層・富裕層ですら日本家屋に住んでいる。
支配階級に属する小馬が住んでいるのは旧日本軍の少将の家だ。
主人公の家も日本家屋だし、ヒロインとその母親が住み込みで働いていた家も日本家屋だ。
金持ち・貧乏人・インテリに関わらず、外省人には『自分の家』が無い。
居場所が無いのは、外省人自身が台湾を拒否しているからだ
彼らが台湾に根を下ろせていない本当の理由は、実は彼ら自身が心のどこかでそれを拒否しているからだ。
台湾の地で生涯を過ごし骨を埋(うず)める覚悟が、外省人たちには無い。
かつて大陸に居た頃の都会(上海や青島)での暮らしを懐かしみ、台湾という僻地で島流しのように暮らす我が身を憂う。
その一方で、アメリカへの憧れを募らせ、我が子のアメリカ留学を夢見る。
彼ら自身に、台湾に定住・永住する覚悟がないから、いつまで経っても台湾で地に足のついた生活が出来ない。
八百屋(雑貨屋)の林
八百屋の林は、本省人だ。
物語の最後、主人公の父親は、林が起業する果物輸出商への転職を考える。
これは、主人公の父親が、台湾で地に足の付いた生活をするチャンスを与えられたという事だろう。
その林も、物語の前半では、主人公の父親に面と向かって「あんたの娘はアバズレで、二人の息子のうち一人はヤクザまがいで、もう一人は落第生だ」と侮辱するような言葉を吐く。
お客様・お得意さまであるにも関わらず、だ。
これは本省人と外省人の軋轢を反映しているのだろうか?
ふたたび結論
この映画を観る前に「白色テロ時代を生きた少年少女たちの悲劇」といった薄っすらとした情報だけは耳に入っていた。
てっきり過酷な弾圧に晒される若者たちの物語だと思い込んでいた。
しかし実際に見てみると、いわゆる『居場所さがし』の物語だった。
十代の少年少女たちが自分の居場所を探す物語か? ある意味では、その通りだ。
しかし、それだけなら良くある話だ。
この物語がユニークなのは『外省人という一つの社会集団全体が、自分の居場所を失い、居場所を探している』という主張をしてきた点だ。
彼らは祖国を追われた民であるがゆえに、全員が居場所を探している。
子供も大人も、男も女も、みんながフワフワと水面を漂う根なし草のような存在で、みんなが居場所を求めている。
その一方で、祖国を追われた民であるがゆえに、パレスチナの地を夢見るユダヤ人のように、大陸への帰還を夢見ている。
だから本気で台湾の地に根づこうとしていない。この地を新たな故郷にしようと本気では思っていない。
頼る相手も同じ外省人、だます相手も同じ外省人、ホームパーティに呼ぶのも外省人、友人も、連るむ仲間も、恋愛対象も、殺し合う相手も、みんな同じ外省人。
台湾にシッカリとした生活を築けない、築こうとしないタコツボ化した外省人社会を描いた映画だった。
登場人物(ほとんど)全員、外省人
この映画は最初から最後まで「外省人の外省人による外省人のための物語」だ。(実際、監督は外省人らしい)
主要登場人物の中で唯一、本省人だと分かる林も、他の登場人物の外省人らしさを際立たせるための装置でしかないと感じた。
以下、余談。
この映画を観て思いついたことを脈絡なくつらつらと書いていきます。
お前ら何歳だよ。
不良少年団と、ホンマモンのヤクザの区別が曖昧だ。
基本的には不良学園ものなのだが、ハニーは何歳で、山東は何歳なのかが良く分からない。
ハニーはヒロインの元恋人なのだが、彼の年齢設定によっては未成年への淫行って事になるぞ。
学校について
登場人物の年齢が良く分からなかったので、学校について調べてみた。
主な舞台である『建国中学』
『台湾 建国中学』で検索すると『台北市立建国高級中学』が引っかかる。
ついでに Google Map で調べると、確かにこの学校のすぐ横に〈牯嶺街〉という通りがある。
まず、この学校で間違いないだろう。
ちなみに中国語で『街』とは道路のことだ。
名は『中学』だが、実際には高等学校だな。
戦前の日本では現在の高校に相当する学校を『中学』と呼んでいた。(いわゆる旧制中学)
この建国中学もそれと同じ事だろう。
実際、この台北市立建国高級中学は戦前の日本統治時代に作られた学校で、当時は『台北州立台北第一中学校』という名前だったらしい。
戦後、建国中学と改名し、今では台湾一の名門公立高校として多くのエリートを輩出している。
日本に例えると、東京府立第一中学が戦後、都立日比谷高校になったようなものか。
日本の日比谷高校も国会議事堂やら首相官邸やらが立ち並ぶ、ザッツ・日本の中枢みたいな立地だが、台湾の建国中学も Map で見ると数ブロック先に総統府や立法院の建つ一等地だ。
試しにストリート・ビューで〈牯嶺街〉を散策してみた。
中央分離帯に並木の植えられた、片側3車線の立派な道路だった。
道の両側には商店が立ち並ぶ。
本作品に出てきたような、真っ暗な中にポツリポツリと露店があるだけの寂しい場所じゃない。
世界の高性能半導体を一手に製造するハイテク先進国台湾の中心街も、1960年当時は、あんな街灯も無い暗い通りだったという事か。
ふと気になったことがある。
ウィキペディアには建国中学は男子校だと書いてある。
そう言われてみると、教室には男子生徒しか居なかったな。
しかし、体育の授業では女子生徒も居た。
そもそもヒロインだって建国中学の生徒だろう。
どういう事だ?
試しに、現在の建国中学のウェブ・ページに行ってみる。
なんと、日本語で沿革の書かれたページがあった。
読んでみた。
それによると、1955年から8年間だけ、大陸からやってきた男女学生の受け皿として共学になっていたらしい。
この映画の舞台となった時代と一致する。
制服についても書かれていた。
戦時体制が強くなった1936年(日本統治時代)に『国防色』へと改められたらしい。
あのカーキ色をした、いかにもコンバット服のような制服は、その名残りという事だ。
主人公の年齢
物語は、主人公の小四が建国中学(高校)に入学するところから始まる。
だとすれば、年齢は15歳(場合によっては16歳)という事になる。
物語のラスト、小四は15年の懲役刑を言い渡され、30歳で出所したという字幕が表示される。
差し引き、やっぱり15歳だ。
また、主演俳優のチャン・チェンは、映画公開時15歳だった。これも主人公15歳説を補強する。
だとすると同じ教室に居た不良仲間らは、みんな同級生で15歳だったのだろうか?
あの子供っぽいプレスリー好きの小猫王も15歳で、その一方、フケ顔で小悪党ポジションの滑頭も15歳か……
ヒロインの小明も15歳?
アバズレ女ポジションの小翠も15歳設定だろうか?
物語の最後、小翠と小明のセリフには感動した。
主人公の幼い自分勝手な恋心を見事に打ち砕くパンチの効いたセリフだと思った。
しかし同時に、高校生にしては余りにも大人びたセリフのような気がした。
登場人物たちの年齢設定と言動が一致せずに、少し混乱した。
年齢不詳のヤクザたちと、高校生らしくない高校生。
ひょっとしたらこの映画の最大の魅力は、実は、登場人物たちの『年齢不詳』感にあるのかも知れない。
大人のふりをする子供、子供たちを平気でヤクザ世界に巻き込む大人。
これは、バフチンが言うところの「カーニバル」的な空間ではないだろうか?
背景が素晴らしい
あまり褒められたことではないのかも知れないが、あえて言おう。
私にとって、映画を観る大きな目的の一つに『異国情緒』がある。
行ったこともない外国の街並みや自然の風景を堪能したい。
その点、この『牯嶺街少年殺人事件』は、とても楽しめた。
1960年の台湾の風景が素晴らしい。
今から60年以上前の、まだ近代化する前の台湾。
南国情緒たっぷりだ。
西洋風にも日本風にも見える、と同時に、西洋でも日本でもない不思議な建物群。
かつて何処かにあったであろう、今はもう何処にもない風景が目の前に映し出される。
その多くはセットだろう。
素晴らしく贅沢な映画だ。
この背景を見ているだけで目の保養になる。
名前について
他の感想ブログを読んでいたら「名前が『小〜』ばっかりで見分けがつかなかった」という意見に当たった。
『小』というのは子供や年下を呼ぶときに付ける接頭語で、あえて訳せば『〜ちゃん』という意味だ。
だから観客が登場人物を識別する場合には無視して良い。
個人の識別に使われているのは『小』の後に続く文字だ。
例えば、お金持ちの少年は『小馬』と呼ばれているが、彼の本名(苗字)は『馬』だ。
ちなみに『小』と対をなす文字が『老』で、これは年上の人に付ける接頭語だ。
主人公のあだ名が『小四』で、彼の兄のあだ名が『老二』
これは(兄弟姉妹全体の通し番号で)『四番目の弟』と『二番目の兄』という意味だろう。
小虎とバスケ部員(2021.8.8 追記)
これまで私は『はっきりと本省人だと分かるのは八百屋の林だけだ』と書いてきた。
しかし実は「バスケ部員でヒロインに思いを寄せる小虎も本省人ではないだろうか」と、うすうす思っていた。
今回、その確証が得られたので追記する。
『牯嶺街少年殺人事件 小虎』で検索すると、ひとつのブログ記事に当たった。
『 台湾語がちょびっと話せるよ!–我會曉講一點點仔台語! 』というブログの、
『 映画の中の台湾語『牯嶺街少年殺人事件』その1 』というエントリーだ。
詳しくは、上記のブログを参照して欲しいが、どうやら小虎とバスケ部員たちは台湾語を話しているらしい。
……なるほど……原語に精通すれば、登場人物の言葉が台湾語か北京語かで、本省人か外省人かを区別できるという訳か。
なるほど、とは思ったが、これは日本人の私にはハードルの高い判別法だな。
どんな映画でも文学でも、本当に楽しもうと思ったら原語を習得しなければいけないという訳か。
さて、バスケ部員でヒロインに想いを寄せる小虎について、だ。
なぜ私が『小虎は本省人』だと、うすうす思っていたかといえば、彼と主人公との対称性に気付いたからだ。
とりわけ以下の2点が気になった。
- 彼の周囲を取り巻くある種の『健全さ』
- 小虎とヒロインの間に感じられる壁
まず小虎の周囲に感じる『健全さ』についてだが、学園ものの映画でスポーツに打ち込む少年たちが出てきたら、それは『健全さ』の象徴だ。
一方で、帰宅部だったり、ケンカに明け暮れていたり、8MMフィルムで自主映画を撮っていたり、ロックバンドを結成したりする少年が出てきたら、それは『不健全さ』の象徴だ。
言うまでもないが、ここで言う『健全さ』『不健全さ』とは、あくまで映画で使われる記号・象徴であって、その記号や象徴が映画の後半で裏切られる展開も有りうるし、まして現実がそうであるという意味ではない。
物語の後半、バスケ部員たちは、ヒロインをめぐって主人公グループとケンカをする。
しばらくして、バスケ部のキャプテンが小虎と主人公を呼んで、小虎に謝罪させる。
そして、建中(=建国中学)バスケ部は、他校との試合に臨む。
なぜ、ここでキャプテンが無理にでも小虎に謝罪させたかと言えば、ケンカという不祥事のせいでバスケの試合が無効になるのを恐れたからだ。
「ここらで手打ちにしよう。ケンカをした事は学校側には黙っていてくれ」と主人公にお願いしている訳だ。
キャプテンにとって一番大事なのはバスケの試合だ。
たかが外省人の女一人などどうでも良いし、たかが外省人の不良グループなどどうでも良い。
そんな奴らのためにバスケの試合を潰されては、たまらない。
さっさと和解して、縁を切るのが最良だ。
ここで浮かび上がるのは、社会のマジョリティーとして最初から日の当たる場所でスポーツに打ち込んでいる本省人(バスケ部)と、居場所の無いままズルズルと社会の暗部に足を踏み入れ、ついにヤクザの出入りに参加するまでになった主人公グループ=外省人との格差だ。
2番目の『小虎とヒロインの壁』について述べる。
小虎と主人公は、ヒロインを間に挟んで関係が対比されるように映画が構成されていると気付いた。
ブラスバンド部の目の前で主人公がヒロインに愛の告白をした直後、小虎もヒロインにアプローチを掛けるシーンに切り替わる。
ヒロインが保健室で主人公を受け入れたシーンの直後、体育館で小虎がヒロインをうらめしそうに見つめるシーンに切り替わる。
ここで強調される「ヒロインの愛を得た主人公と、ヒロインに振られる小虎」の対比は何だろうか?
私は、それを「ヒロインと同じ外省人ゆえに愛を得た主人公と、本省人ゆえに振られた小虎」の対比だと解釈した。
外省人ゆえに居場所の無い(と思い込んでいる)ヒロインは、地に足をつけてスポーツに打ち込んでいる(ように見える)本省人の小虎との間に越えられない壁を感じていた、と私は解釈したのだが、どうだろうか?
男女の関係について(2021.8.8 追記)
これは、本省人という台湾のマイノリティーたちの寄る方(よるべ)無さを描いた映画である、というのが私の見立てだが、言うまでもなく、少年と少女の恋愛と破局を描いた物語でもある。
言うまでもない事だから書く必要もないかなと思っていたが、それも何だか不自然なのでサラッと書いておく。
この映画では、2組の男女関係を対比している。
一つは、もちろん主人公とヒロインの恋。
そして、それに対比されるのは主人公の両親の関係だ。
さらにプラス、それぞれの男女関係に「男の親友」が影を落とす。
一人は、主人公の親友、小馬。
もう一人は、父親の大陸時代の同級生で、親友のふりをしながら彼を利用した挙句に裏切った(と、ほのめかされる)汪氏だ。
小馬も汪氏も、お金持ちの外省人だ。
つまり、以下のような対称の相関になっている。
- ヒロイン―主人公―小馬
- 母親―父親―汪
警察から釈放された父親に、母親は「汪に騙(だま)されたのでは?」と言う。
父親は激昂し「男同士の友情に女が口出しするな!」と怒鳴りつける。
母親は家を飛び出し、父親が追いかけて行って、妻を抱きしめる。
一方の主人公は、小馬の家の住み込み家政婦となり小馬のお手つきとなったヒロインを許せず、刺し殺してしまう。
妻を抱きしめる父親と、少女を刺し殺してしまう主人公という対比だ。
また別の場面では、警察に目をつけられて職場での立場が悪くなった父親に、母親は「良い仕事があるから、転職したら?」と勧める。
一方、小馬と対決しようと学校に行った主人公に対して、ヒロインは呆(あき)れ、「勉強に専念するんじゃなかったの?」と言って彼を詰(なじ)る。
男が真面目に生き生きと仕事(勉強)する事を、女は望む。仕事こそが社会に居場所を得るための道だからだ。
それに応えようとする父親と、応えられなかった主人公、という対比になっている。
(これは同時に、台湾社会で生きる決心をして本省人の部下になる父親と、殺人の罪を犯し社会から切り離される息子という対比でもある)
物語の前半、父親は主人公に「女は面倒な存在だ」と言う。
物語後半の、二人の明暗を暗示している。
「女の面倒さ」を受け入れて妻と付き合ってきた父と、それを受け入れられなかった息子という対比だ。
要するに、男は度量という事だろう。
女の面倒さを受け入れる心理的な度量の大きさと、社会に居場所を作る経済的な度量の大きさ。
15歳の少年には、大変なことだとは思うが。
十代の恋は、遊び程度に納めておくのが無難だ。
とはいえ、男女の刃傷沙汰と心中沙汰は、人類が刃物を手にした石器時代の太古からずっと語られ続けてきた、文学と演劇における永遠のテーマだ。
思春期限定の話でもないし、台湾限定の話でもない。