映画「ライトハウス」を観た
映画「ライトハウス」を観た
TOHOシネマズ日比谷シャンテにて。
脚本 ロバート・エガース、マックス・エガース
監督 ロバート・エガース
出演 ウィレム・デフォー 他
ネタバレ注意
この記事にはネタバレが含まれます。
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日本版の題名について
私は、本作品の日本における題名「ライトハウス」は直訳して「灯台」としたほうが雰囲気があるだろうと、 以前の記事 に書いた。
しかし実際に映画を観て、ウィレム・デフォー演じる老灯台守が頑(かたく)なに守っていた発光装置こそが「ライトハウス=光の家」だったんだな、と理解した。
この題名は、「ライトハウス=灯台」であると同時に「ライトハウス=光の家」でもある訳だ。
だとすれば、英語をそのままカタカナにした日本の題名も適切だったという事になる。
翻訳して『灯台』という題にしてしまったら、片方の意味が落ちてしまうからな。
19世紀の灯台の仕組み
電気の無い19世紀の孤島における灯台の仕組みについて興味が出たので少し調べてみた。
発光装置を回転させている動力は、螺旋階段の中心部に垂れ下がった鎖と錘(おもり)だろう。
昼間のうちに鎖を巻き上げ、錘を一番高い位置まで持ち上げた状態でロックしておく。
夕方になってロックを解除すると、下降する錘に引っ張られて鎖が徐々に解(ほど)け、巻き上げ器が逆回転し、その動力がギヤを介して発光装置を回転させる仕組みだろうと思う。
一種の『重力式ゼンマイ』とでもいうべきか。
確か、ヨーロッパの古い時計台なども、これと類似の仕組みだったはずだ。
光源が何かという事は、映画を観ている間ずっと気になっていた。
序盤で若い灯台守がドラム缶を最上階まで持ち上げる描写から、油を燃やして光を得ているのだろうとは予想できた。
あとで調べてみたら、どうやら『圧力式灯油マントルランプ』らしい。
現代のキャンプで使われている灯油ランプと原理は同じだ。あれの大型版だな。
感想
さて、本作品の感想だ。
結論から言うと、
「わりと楽しめた。しかし相当なコッテリ系だった。胸焼けしそうだから、おかわり(再視聴)は無しだな」
と、劇場を後にしながら思った。
もしかしたら、何年後かにネット配信等で再視聴するかもしれないが、『面白かったから来週また観よう』という感じにはならなかった。
ストーリー自体は単純で、すでに狂気が始まっている孤独な老いた男と、上昇志向を持った若く貧しい男が、閉鎖空間で何週間も共同生活を送るうちに次第に暴走していく物語だ。
物語の冒頭で提示されたキャラクター設定や状況設定が大きく覆(くつがえ)される訳でもない。
狂ったパワハラ上司は、最初から最後まで狂ったパワハラ上司だったし、部下は部下で最初からパワハラ上司への恨みを募(つの)らせていて、明からさまに「こいつ、いずれ爆発するだろうな」というオーラを漂わせていた。
そういう意味では予定調和的な物語だった。
描写は、さすがに力が入っている。
これはストーリーを楽しむ映画ではなく、ひたすら凝った白黒の映像を楽しむ映画だと思った。
主演二人の演技合戦は、やはり観ていて楽しい。
それと、役者の肉体感。
こういう肉体感は、アニメではなかなか表現するのが難しいだろうな。
散りばめられた暗喩
随所に神話や心理学に絡めた暗喩が散りばめられていたが、それらをいちいち解読する意味は無いと感じた。
本来、暗喩とは、表向きのストーリーに対し「別の意味」を作品に与える物のはずだが、本作品に関しては表のストーリーを補強しこそすれ、そこに別の意味を与えて我々観客を驚かせてくれるような暗喩は少なかった。
本作品は、始まりから終わりまで上司と部下の葛藤が延々と続く映画だ。
男たちの自慰行為を繰り返し見せつけるような映画だ。
今さら『父殺しの物語』とか『灯台は男性器の象徴』などと言ってみたところで、大した意味があるとも思えない。
「うん、まあ、そりゃそうでしょうよ、最初から分かっていたよ」と返されるのがオチだ。
ただ一ヶ所だけ、全裸のデフォーの目からビームが出て灯台にように部下を照らす所は、ビシッと決まった構図の格好良さと滑稽さが混じり合った、なかなかに良いカットだと思った。
どうやら、これはサシャ・シュナイダーという画家の『催眠術』という作品が元ネタらしい。
映画を観たあと劇場から家に帰ってネットの監督インタビュー記事を読んでいたら、ロバート・パティンソン演じる若い部下の男に関して、監督がこんなことを仄(ほの)めかしていた。
『かつて森林伐採業に従事していたとき、彼と金髪の上司との間には性的な緊張関係があったのかも知れない』
ああ、なるほどと思った。
ロブスター
上司の仕掛けて置いた罠からロブスターを取り出して食ったら、エビを罠に誘(おび)き寄せるためのエサが、前任者の頭だったっていうオチは良かった。
知らず知らずのうちに犯していた間接的カニバリズムとでも言おうか。
ちなみに日本の漁師たちの間には、ある特定の魚種に対し「こいつらは水死体を食うから」と言って食べることを忌避する習慣がある。
ちなみにエビ・カニ・魚類を含めた海洋生物の中には、俗に『屍肉喰らい(スカベンジャー)』と呼ばれ、海底を這いながら他の生物の死体を食う種類も多い。これらは海の生態系において死体の分解を助けるという重要な役割を負っている。
ちなみにサメは人を食べるが、人もサメを食べる。ピラニアも人を食べるが、人もピラニアを食べる。
とはいえ広大な海で、人を食ったサメを直後に人が釣り上げる確率は限りなく小さい。
あまり気にする必要はない。
クトゥルー関係なかった……
予告編にタコさん触手が出てきたからちょっと期待しちゃったよ。
超常現象ホラーじゃなかった。
むくつけき男優二人の演技合戦を楽しむには、良い映画だと思います。
案外、文芸系ホラー映画だなんて構えず、軽い気持ちでフラリと観に行った方が楽しめるかも知れない。
追記 (2021.7.15)
家に帰ってから、だんだん気になってしまった事を書く。
こびり付いて頭から離れない思考は、ブログに書くと忘れられる。
内部メモリを圧迫しているデータやプロセスを外部記憶に移して、内部メモリを開放してやるような感じか。
その1.どんな人生の果てに老灯台守は、あの場所・あの仕事にたどり着いたのか?
かつて船乗りだった頃の武勇伝を語っていた老灯台守が、実は船長どころか船乗りですらなかったと、物語中盤に明かされる。
では、灯台守になる前は何者だったのか? それが少し気になった。
一方の若い灯台守は、かつて林業時代に上司を殺し以後その名を騙っていると物語中盤に明かされはするものの、『自己実現を夢見ながら定職につかず各地を放浪している若者』という分かりやすい設定だと感じた。
その2.カーニバル
昨夜、ミハエル・バフチンの『ドストエフスキーの詩学』を読んでいたら『カーニバル』というキーワードが出て来た。
カーニバルの夜だけは日常のあらゆる価値が逆転し、王様が奴隷の役を演じ、奴隷が王様の役を演じ、誰もが誰かのパロディを演じ、老いも若きも男も女も、夜通し無礼講のドンチャン騒ぎをして明かす。
ヨーロッパの文学には、カーニバル的なものが中世より連綿と受け継がれているらしい。
ひょっとしたら、この映画も『カーニバルもの』というジャンルとして捉えるのが良いかも知れない。