映画「カリスマ」を観た
映画「カリスマ」を観た
Amazon配信にて。
脚本 黒沢清
監督 黒沢清
出演 役所広司 他
ネタバレ注意
この記事にはネタバレがあります。
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ひとこと感想
ある意味、黒沢清版の『樹海村』だった。
私は 『樹海村』を評した記事 で、以下のように述べた。
問1:(一般的な)Jホラーとは何か?
答1:ネット・ニュースの端っこにも載らないような小さな事件が、その当事者にとっては恐ろしい呪いであるような物語。
問2:『村シリーズ』で清水崇が挑戦した物語とは何か?
答2:ネット・ニュースの端っこにも載らないような小さな事件が、当事者たちの信じていた『世界のルール』をひっくり返し、隠された『裏のルール』を暴いて見せてしまうような物語。
上の記事を書いた時には気づかなかったが、今にして思えば、黒沢清は一貫して『答2』のような映画を撮り続けてきた監督だったな。
現代社会の一部でありながら、明らかに異世界。
森の廃墟に住む男たち、パラボラ・アンテナなどの異様な世界観と、当時の最新式iMacが共存する世界。
ラストは『ゴケミドロ』に近いか。
カットのタイミングとか、突然の暴力としての銃の見せ方とか、池内博之が大杉漣に日本刀で切りかかったら、それが模造刀だったという一連のやり取りとか、切れないはずの模造刀を使って教授の妹を刺し殺すシーンとか、コミカルさと悲しさと陰惨な暴力が共存している感じとか、北野武に通じるものを感じた。
それと、ウルトラセブン感もある。
風吹ジュンは植物学者という設定だが、その不思議なセリフ回しによって、物語途中で観客が『あれ? ひょっとして……』と疑惑を持つような仕掛けになっていた。
「あれ? 本物の学者って、こんな喋(しゃべ)り方しないよね?」と誰もが違和感を覚える。
例えて言うなら、夢野久作『ドグラマグラ』に出てくる怪しげな医学博士の話し方に近い。
「彼女は本当に植物学者なのか? それとも自分を植物学者だと思い込んでいる狂人なのか?」という揺らぎを与える。
*現時点での私の解釈
これは『マクガフィンをめぐる物語』であると、私は解釈した。
カリスマの木とは、要するに『マクガフィン』だろう。
それ自体に意味は無いのに、みんながそれを追い求める。登場人物たちそれぞれの内心の動機付けだけが存在する。
それ自体に意味が無いから、1本目の木が燃やされても、2本目に置き換え可能だ。
そして役所広司が、登場人物ひとりひとりに対し「勝手にしろ」と言って回るラストは、「マクガフィンを追い求める人の心そのものがマクガフィン(無意味な器)なんだ」というケリの付け方をしたんだろう、と、私は解釈した。
特定のスポーツへの熱狂、あるいは特定のアイドルに対する『推し』、あるいは特定のサブ・カルチャーへの没頭、自動車やバイクへの偏愛、あるいは宗教、そして政治的な主義主張……誰もが一度は経験する執着。
ある日突然、その執着がフッと消え失せ、その後に訪れる、憑き物が落ちて我に帰ったような感覚。
「俺、何で、こんなものに入れ込んでたんだろう?」という冷めた(醒めた)虚脱感。
そんなものを感じた。
とすると、最後に主人公の上司が電話を掛けてきて、主人公に対し『お前、いったい何をした!』と怒鳴り、丘から街を見下ろすと世界が崩壊し、街が燃え盛っている、というシーンは、
「空っぽの器だろうが無意味なマクガフィンだろうが、人々を団結させ社会を成立させるためには、みんなが追い求める共通の『何か』が必要だ。
それが無意味な空っぽの器であることを暴(あば)いてしまったら、社会は共通の目的を失い、人びとは夢から醒めてバラバラになり、世界は崩壊する」
という意味だろう。
……いや、むしろ、こういう意味か。
「世界は最初から崩壊している。それを辛うじて成立しているかのように見せているのが、マクガフィン……すなわち、『みんなが各々に意味があると思い込んでいる(その実、意味なんて無い)たった1つの何か』だ」