小説「機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ」について
作 富野由悠季
何十年も前、若い時に一度読んだ。
今年(2021年)映画化されると聞いて、あらためて読み直した。
ここ1ヶ月の間に、三冊通して2回も読んでしまった。
ネタバレ注意
この記事には以下のネタバレが含まれます。
- 小説「機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ」
- 映画「機動戦士ガンダム 逆襲のシャア」
- 小説「カラマーゾフの兄弟」
ネタバレ防止の雑談
時々、こんな事を思う。
「演劇とは『必ず終わる』芸術形態なのだなぁ」
と。
演劇の作り手は『必ず終わらせる責任』を負っている、とも言い換えられる。
広義の『演劇』の中に『映画』を含んでも良い。
『演劇には、始まりと、真ん中と、終わりがある』とは、すでに古代ギリシャ・アリストテレスの時代から言われていた事だ。
劇の流れを『始まり』『真ん中』『終わり』の三つに大別する考えは、古代ギリシャから現代ハリウッドの三幕構成理論まで、西洋の演劇理論の基本だったと言えるだろう。
シェイクスピアには、そのものズバリ『終わり良ければ全て良し』という劇がある。
日本の能などでよく言われる『序破急』や、漢詩から借用され広く日本の物語構成に根づいた『起承転結』も、簡単に言えば『始まり・真ん中・終わり』についての理論だ。
とにかく、劇には『終わり』が必要だ。
ところが、これが小説になると、必ずしも『終わり』が有るとは限らない。
『カラマーゾフの兄弟』という小説がある。
百年以上前に書かれ既に評価の定まった作品でもあるし、歴史的事実なのでネタバレにならないと思うから書くが、この「カラマーゾフの兄弟」は作者の死によって未完のままになっている。
にも関わらず、この小説は『古典文学ベスト100』のような企画で、必ず上位にランクインされる。
集計方法によって1位の時もあれば3位の場合もあるが、ベスト3以内には必ず選ばれる。
これは即(すなわ)ち、小説にとって『終わる』という事は必ずしも重要ではない事を意味する。
夏目漱石は『本当に面白い小説は、どこから読んでも面白い』と言った。
話の筋なんか無視して適当にページを開いて読んでも、面白い小説は面白いという事だ。
『演劇』と『小説』の違いは、どこから来るのだろう? と、時どき考える。
おそらく『時間をコントロールする権利と責任』が、作り手と受け手のどちらに帰属するかの問題だろう。
演劇に於(お)いては、時間をコントロールするのは作り手側の権利であり責任である。
観客は、劇の開演時刻から終演時刻まで、作り手の時間の中に身を委(ゆだ)ねるしかない。
一方、小説で時間をコントロールしているのは読者だ。
読者は、いつ本を読んでも構わないし、いつ読むのを止めても構わないし、どんな速度で読んでも構わない。
作者は、読者の時間をコントロールできない。
この違いが、演劇には『終わり』が必要であり、小説は『終わる』必要がないという違となって現れているのではないだろうか。
以上、ネタバレ防止の雑談おわり。
以下、ネタバレ。
若い時に読んだ。その記憶
この『閃光のハサウェイ」を、私は二十代の頃に一度読んでいる。
主人公が体制側に捕まって銃殺刑になるラストと、銃殺を命じるライバルが最後に主人公の耳元で「好きだぜ」と呟(つぶや)くという描写が、とても印象に残っていた。
逆に、それ以外のパートは殆(ほとん)ど忘れていた。
なぜ、『主人公が銃殺刑になる』という結末が私の心に残ったのだろうか?
それを自己分析してみる。
若かったとはいえ、私も既に良い大人になっていたから、この世界には『悲劇』という物語形態がある事は知っていた。
『いやしくも巨大ロボを操縦する正義のヒーローであるからには、必ず戦いに勝って生き残り、世界に平和をもたらすべき』などと子供っぽく思う年頃は、さすがに過ぎていた。
また『物語のラストで主人公が死ぬ』悲劇的展開を、作者の富野由悠季がしばしば好んで使う事も知っていた。
『ハサウェイ』を読んだ当時の私は、もはや「主人公が最後に死ぬ結末」だけで驚くような初心(うぶ)ではなかったという事だ。
にも関わらず、主人公が銃殺されるという『ハサウェイ』の結末は印象に残った。
いま思い返してみると、ハサウェイの結末が私の心に深い印象を残した原因は、主人公の死そのものというより『銃殺刑』という死に様(ざま)にあったような気がする。
『主人公の死で幕を閉じる悲劇であったとしても、せめて、その死に方は英雄的であって欲しい』と、当時の私は思い込んでいたんだと思う。
英雄的な死に方とは、例えば、富野の前作『逆襲のシャア』に於けるアムロのような最期の事だ。
物語の主人公であるからには、アムロのように「自分の命と引き換えに、地球を滅亡の危機から救う」というスペシャルな死に方しか認められないと、当時の私は無意識に思い込んでいたのだろう。
それに比べると『ハサウェイ』の死に様は、やけに呆気(あっけ)無く、地味だった。
乗機であるガンダムといっしょに捕虜となり、反政府組織による救出作戦もなく、そのまま数日後に体制側の隠し別荘で人知れず処刑されて、終わり。
そのヒーローっぽくない死に方、情けない死に方が、逆に私の心に強い印象を残したのだと思う。
数十年の時を経て2021年に再読した私が、どう感じたか。
ひと言。
「なんて爽やかな終わり方なんだ」
と思った。
とにかく読後の余韻が素晴らしく清々(すがすが)しい。
なんというか、時間的にも空間的にも、視界が未来へ向かって、世界に向かって、『開(ひら)けていく』感覚がある。
この爽快感を伴った読後の余韻は、ハサウェイの銃殺刑シーンではなく、その後のエピローグが与えてくれたものだった。
私は、このエピローグを完全に忘れていた。
二十代の私の印象には残らなかったのだろう。
しかし歳を重ねた今、ようやく、このエピローグの素晴らしさが分かった。
ハサウェイ銃殺後のエピローグは、彼を処刑したケネス大佐(准将)を中心に語られる。
処刑の翌日、ハサウェイの死が体制側によって脚色されプロパガンダに使われた事を新聞で知ったケネスは、真相を知る自分とギギの命が連邦政府に狙われる可能性に思い至り、彼女と共に逃亡する。
そして密航した気象観測用小型ジェットの行き先が、偶然にもハサウェイの母ミライ・ヤシマの故郷・日本である事を知り、ケネスとギギは、亡き友人ハサウェイを思う。
ケネスとギギは、互いに、これからの進路を語りあう。
ケネスは「ハサウェイの遺志を継いで反政府組織を作る」と言う。そして「メイスと縒(よ)りを戻す」とも言う。
メイスとは、ギギがケネスの傍(そば)に自分の居場所を確保するため追い出した女の名で、つまりギギに追い出されたケネスの元愛人だ。
ここで暗にケネスが宣言しているのは『密航が終わって日本に到着したら、そこでギギとの関係は永遠に終わりだ』という事だ。もう二度と会う事は無い、と。
一方のギギは、逃避行の先がハサウェイの故郷だと知って「人も少ないし、気候もいいっていうし、そこで死ぬわ」と言う。
この場合の「そこで死ぬわ」は文字通り『今すぐ死ぬ』という意味ではなくて、「その土地で独り静かに暮らして天寿を全うし、骨を埋める」という意味だ。
機動戦士ガンダムの世界観に於いて、日本は過疎化が極端に進んだ僻地、ど田舎という設定だ。
そんな人里離れた場所でギギは生涯を過ごす、隠棲すると言っている。
普通なら、二十歳にも満たない少女がそんな事を言えば、「世捨て人」「引きこもり」というネガティブな印象になるはずだが、不思議とギギのセリフは潔(いさぎよ)く、清々(すがすが)しい。
同じ旅客機に居合わせた事をきっかけにして同じ運命の歯車の上をぐるぐる回っていた三人の男女が、物語の終わりで一人は銃殺され、もう一人の男は女の元から永遠に去って革命に身を窶(やつ)し、女は死んだ友の故郷で独り静かに天寿を全うする事を選ぶ。
この物語のラストは、典型的なエンターテイメントの『ハッピーエンド』からは、ほど遠い。
にも関わらず、どんなハッピーエンドよりも爽やかな読後の余韻を残す。
時間的にも空間的にも、読む者の視界が未来へ、世界へと広がっていく明るさがある。
こんなに爽やかな読後感を覚えたのは、『カラマーゾフの兄弟』以来だ、と思う。
なぜだろうか?
本記事を書いている間に、ふと頭に浮かんだ仮説が一つある。
この小説『ハサウェイ』の清々しい読後感の理由は、メイン登場人物三人三様の『迷いの無さ』かも知れない。
銃殺される直前のハサウェイにも、日本行きのジェットに乗ったケネスとギギにも、『自分の人生に対する迷い』が無い。
銃殺されようが、地下組織に身を投じようが、若くして孤独な田舎暮らしを選ぼうが、自分の人生を迷いなく選択できたならば、それは潔く、清々(すがすが)しく、爽やかな事だろう。
逆に、物語の終盤までは、彼ら三人の行動には常に『迷い』が付きまとっている。
革命に身を投じようと、軍の要職に就こうと、大富豪の愛人として上流階級の暮らしを満喫していようとも、迷っている限り、人生は救われない。
思い悩んでいた三人の主人公たちが、物語のラストで自分自身の行く末に迷わなくなった事が、物語の余韻の清々しさを生んでいるのかも知れない。
まとめ
本記事の要旨を短くまとめる。
- 小説『ハサウェイ』の読後感は、主人公が銃殺されるという悲劇にも関わらず、なぜか爽やかで清々しい。
- それは『カラマーゾフの兄弟』の読後感に似ている。
- なぜ、そんなにも読後感が爽やかなのか、その理由はハッキリとは分からないが、物語の最後で、主人公ら三人の『迷い』が消えた事が関係しているのかも知れない。
以上、本記事の要旨でした。
以下、余談です。
本作品に於けるモビルスーツの扱い
この章では、作品内でのモビルスーツの扱いについて、どうしても気になった点を挙げる。
気になった点その1。モビルスーツの値段
『機動戦士ガンダム』に於けるモビルスーツの役どころは、現実世界で例えるなら最新鋭の戦闘機に匹敵するものだろうと、なんとなく思っていた。
例えば、現実世界では最新鋭の戦闘機F35は、1機100億円と言われている。
そんな高価な兵器を、単なるゲリラ・テロリストが運用できるだろうか?
たとえそれが旧式の型落ちモビルスーツであったとしても、普通に考えれば調達・運用は不可能だと考えるのが常識だ。
現実世界のゲリラが、旧式になりつつあるF15戦闘機やF16戦闘機を調達できるとも思えないし、整備・運用できるとも思えない。
さらに遡(さかのぼ)って、ベトナム戦争時代に使われたF4戦闘機でさえ、現代のテロリストには手に余るだろう。
単純に『旧式モビルスーツ→安いから貧乏なゲリラでも使える』という図式が成立するだろうか?
気になった点その2。モビルスーツの動力源
モビルスーツは小型核融合エンジンを動力源とする、というのが『ガンダム』世界の設定だ。
その『小型核融合エンジン』なるものが、科学的・工学的にどのような物であるのかは、詳しく描写されない。
その事に関して、とやかく言うつもりはない。
どうせ実用化されていない技術なのだから、その作品の世界観に合った形で、都合よく描写すれば良い。
だがしかし、個々の設定が全体の世界観と齟齬をきたし矛盾するとなれば看過できない。
本作品を読んでいて分かるのは、どうやらモビルスーツの核融合エンジンを撃ち抜くと、原爆なみの大爆発が起きてキノコ雲が舞い上がり、周囲に放射性物質を撒き散らす、という事だ。
そんな危険な兵器を、反政府ゲリラたちは安価で調達し、何機も保有し、野営地で整備し、テロに使用しているのだろうか?
さすがに非現実的ではないだろうか?
いやしくも地球環境の保全を旗印に掲げる環境テロリストが、そんな危険で環境負荷の高い兵器をテロ活動に使うだろうか?
テロリスト集団の描写
主人公が首領を務める『マフティ』というテロ集団の描写も気になった。
あまりに理想化された「善人ばかりのテロ集団」で、さすがにリアリティが無い。
テロ集団って、実際にはもっとドロドロした組織だと思うんだけど。
この小説を読んでいると、テロ集団というものが、まるで『善人だけの原始共同体』か『平等主義的で進歩的な部族社会』のような物として描写されている。
『反政府組織』なるものを、あまりに理想化し美化し過ぎているように感じられる。
そこは今回の小説の主題じゃないって事で、類型に逃げたのかも知れないが。
テロリストが主人公の巨大ロボット・アニメ
テロリストが主人公のロボット・アニメというのも珍しい。
単に主人公が犯罪者だから珍しいというだけでなく、物語構造が他のロボット・アニメとは一線を画している。
一般的な所謂(いわゆる)『巨大ロボット・アニメ』は、『平和な僕らの町に、ある日とつぜん敵が攻めてきた』事から物語が始まる。
『敵』は、悪の秘密結社の場合もあるだろうし、他国の軍隊の場合もあるだろうし、異星人の場合もあるだろう。
ここで重要なのは、主人公が巨大ロボで戦う動機が『敵が攻めて来たから、止むに止まれずロボに乗って出撃した、こちらも応戦せざるを得なかった』という点だ。
主人公の暴力の行使は『正当防衛』という裏付けを持って行われる。
つまり一般的なロボット・アニメでは、常に敵側が将棋の『先手』で、主人公側は常に『後手』で物語が始まる。
しかし、本作品は違う。
最初に暴力を行使するのはハサウェイとその一味だ。テロリストなんだから当然だ。
大都市アデレードに攻め入って無辜の市民を巻き添えにしながらモビルスーツ戦を仕掛けるのが主人公一味で、テロリストの侵攻からアデレードの街を守るのが敵である連邦軍の役割だ。
将棋の先手と後手が逆転している。
主人公の自殺願望
明確に主人公の自殺願望が描写されている箇所は無いのだが、物語の要所要所で『死の予感』めいたものが描かれている。
主人公のハサウェイは『こんな事を繰り返していたら、いつか自分は死んでしまうだろう』と思いながら出撃している。
それは積極的な自殺願望ではないにせよ、『消極的な自殺願望』あるいは『未必の自殺願望』と言える。
後述するように、自分自身をキリストになぞらえて、『首領である自分が死んで、むしろ政治的状況が前進する』事を最初から折り込んでいるような気配さえ感じられる。
父、ブライト・ノア
ガンダムと共にテロリスト首領の捕獲に成功したケネス大佐(准将)は、しかし地球連邦の腐った官僚主義にほとほと嫌気がさして、上司に辞表を出す。
その後任として地球に赴任するのが、ハサウェイの父親ブライト・ノアだ。
まさか父親に息子の処刑をさせる訳にもいかず、ケネスは自らハサウェイを処刑せざるを得なくなる。
業務引き継ぎのため、軍敷地内の別荘にブライトがやって来る。
まさにその時、その同じ建物内で、息子のハサウェイは処刑された訳だが、父親に気づかれずにケネスは引き継ぎを完了し、遺体は密封され館から運び出される。
翌朝、ケネスとギギは、連邦政府がプロパガンダのために態(わざ)とブライトに息子の死を知らせたという新聞記事を目にする。
ブライトが息子の死を知ったときの様子は描写されない。
ケネスとギギが読んだ新聞記事として間接的に描写されるだけだ。
息子の最期を知ってブライトがどれほど悲しんだかを直接描写しない事も、読後の余韻に一役買っていると思う。
キリストの磔刑
二十代で読んだ時には気づかなかったが、今回読んでみて、この物語がキリストの磔刑に準(なぞら)えて書かれていると気づいた。
物語の中で『マフティ』という名前には『預言者』という意味が込められていると説明される。 これもキリストを想起させる。
主人公の乗る『クスィー・ガンダム』は、最後にビーム・バリアーの大電流によって制御系を焼かれ、両腕を真横に広げた十文字の格好で停止する。
当然、これも十字架の比喩だ。
さらに、ビーム・ライフルなどの武器を持てないようにするため、敵モビルスーツによって両手をビーム・サーベルで焼かれる。
これも、キリストの両手に撃ち込まれた釘を連想させる。
処刑直前、「最後に言いたい事は無いか?」と尋ねたケネスに対し、ハサウェイは「人類の健やかな精神が、この地球をまもると信じている。それまでは、人の犯した過ちは、今後ともマフティーが、粛正しつづける」と答える。
これは、キリストの死後その教義が全ヨーロッパに広がって行った史実を念頭に置いた言葉だろう。
自ら処刑される事で人類の原罪を浄化したとされるキリストの、『過激派バージョン』になっているようにも思える。
現実世界での私個人の意見を聞かれれば、「どんなに立派な理想も、いずれ必ず、その名の下に異端審問と魔女狩りを始める」と言わざるを得ない。
作者の富野だって、そんな事は百も承知に違いない。それは彼の他の作品を見れば分かる。
今回は、あえて『革命組織のダークサイド』は描かなかった、そこに主題を置かなかったという事か。
ドストエフスキー
読後の余韻が「カラマーゾフの兄弟」に似ていると書いたが、それ以外にも少しだけドストエフスキーを連想させる部分がある。
主人公とライバル(親友)が偶然同じ飛行機に乗り合わせた所から物語が始まるというのは、ちょっと『白痴』を思わせる。
また、テロリストの首領が上流階級出身のインテリ青年である所は、ちょっと『悪霊』を思わせる。
「カラマーゾフの兄弟」は、第1部を書き終えた所で作者が死に、本編であるはずの第2部は永遠に書かれなかった。
第1部は、主人公アリョーシャと親交を深めつつあった小学生の少年が亡くなり、少年の同級生たちとアリョーシャが田舎道を歩きながら永遠の友情を誓い合うところで終わる。
一説によると、第2部は十三年後の物語として構想されていたらしい。
かつてアリョーシャと永遠の友情を誓い合った小学生たちは大人になり、アリョーシャは彼らと共にテロ組織を作って首領の座に納まり、ロシア皇帝の暗殺を企て、失敗し、銃殺刑になるという話だったと言われている。
その顛末をキリストの受難に準(なぞら)えて描く予定だったとも言われている。
善良なインテリ青年がテロリストに転じる所も含めて、ちょっと本作品に似ている。
余談のさらに余談だが、「カラマーゾフ」の第2部が上記のような話になるはずだったとしたら、第1部の最後は、まさしく『俺たちの戦いはこれからだ!(第1部・完)』という事になる。
まさに、世界最古のジャンプ打ち切りエンドだ。
おわりに
今年(2021年)5月7日から、本作品の劇場アニメ映画が公開される。
4月19日現在、YouTube で冒頭16分が特別公開されている。
何にせよ、楽しみだ。